景子おばの母となると、橘の曾祖母ということになる。残念ながら橘が生まれる前に亡くなっていて、名前さえも憶えていない。
「父と母は見合い結婚でね。だからというわけじゃないけど、夫婦仲はあまりよくなかったみたい。父が死んだ後も、母は私に、父の悪口をたくさん聞かせるんだもん。私が独身なのは、母の影響もあるのかしら」
景子おばが朗らかに笑った。
「俺のひいばあちゃんか。会社を仕切っていたくらいだから、頭の良い女性だったんだろうな」
「そうね。賢かったと思うわ。賢いのに女性だからと学校にも行かせてもらえないし、会社の表にも立たせてもらえない。それなのに、お父さんは跡取り息子だから努力せずにすべてを手に入れられる。母は、父の家柄に甘えて努力しない性格が許せなかったのね。自分はずっと裏で飯炊きばかりされられるのにって、よく愚痴を言っていたわ」
当時は従業員が会社に住み込んでいた。曾祖母はそういった従業員たちの衣食住を整える役割だったのだろう。いわゆる「奥の方」だ。
「当時、従業員はたくさんいたの?」
大勢いる従業員の中に、
「
「手代って? 番頭って?」
初めて耳にした単語だったのだろう。ミズキが目をきらめかせて訊いてくる。
「昔、十歳くらいの少年が大きな商家に住み込んで奉公する制度があったんだ。丁稚奉公って言ってな、十年くらい奉公して、見込みのある奴は手代に出世する。手代になると給料がもらえて、仕事も雑用から経理、受発注、得意先回りとか、直接商いに関係する大事な仕事を任される。うちは商家とはちょっと違うけど、丁稚奉公制度をとっていたんだ」
「番頭は?」
「番頭は手代のさらに上で、現在の会社で言う管理職だな。社長の次に偉い位置だ。番頭だけは店に
「じゃあ、俺は煙草屋の手代だな。番頭か」
「俺はお前に給料を払ってないぞ。お前はまだ小僧だ」
「あら、あんたたち一緒に住んでるの? 煙草屋って?」
景子おばが不思議そうに訊いてきたので、橘は慌てて話題を変えた。
「景子おばさん。橘葬儀社の経営が危なくなった時ってあったのかな……? 会社が潰れそうとか、従業員に給料が払えないとか」
「そりゃあ、何度もあったと思うわよ。長い歴史の中には戦争や不景気が何度もあったしね。でもこうして今も続いているってことは、うまく乗り越えてきたってことよ」
「まあ、そうだね」
誰かが脳漿を売ってよくない稼ぎ方をしていたんじゃないか? とは訊けない。景子おばは経営に直接かかわっていたわけではないのだ。そんなことは知る由もないだろう。
「聞きにくいことなんだけどさ、ひいじいちゃんやその前の代表がよくない稼ぎ方をしていたとか、葬儀関係以外のことで荒稼ぎしていたとか、何か聞いたことない?」
「荒稼ぎ? さあ……知らないわ」
景子おばは困ったように少し眉根を寄せた。
知らなくて当然だ。橘の曾祖父や高祖父が会社を経営した頃は、景子おばはまだ子供だ。会社がどんな状況なのか、どんな運営をしていたかなんてわからないだろう。現に橘も、父が死ぬまで会社の経営状況なんて気にしたことがなかった。父の死後も、幸一に任せっきりだ。
「悪い稼ぎ方のことは知らないけど、一度だけ、気丈な母が取り乱したことがあったわね」
「景子おばさんのお父さんが死んじゃった時?」
違うの、と景子おばが苦笑した。
「そうだったらよかったんだけどね。可愛がっていた手代がある日突然失踪しちゃったのよ。頭のいい子でね。母の経理の手伝いもしてくれてたみたい。計算も早いし、物覚えもいいし、接客させれば感じもよくて、先代にとっても気に入られていた。『
「貴一って、景子おばさんのお父さん? 跡取り息子より優秀な人が、どうして急に失踪なんか」
景子おばが顔を曇らせた。
「どうしかしらね。急にいなくなっちゃったらしいの。親元に問い合わせても見つからなくって。仕事がきつかったのか、給金に不満があったのか……。優秀だったから他の商家さんに引き抜かれちゃったのかもしれないわね」
「……」