「吾輩は……猫……なのか?」
自分でも馬鹿馬鹿しいとすら思う疑問が口から漏れ出た。古めかしい埃で霞んだ鏡を何度も眺めてみても、そこに映るのはどう見ても一匹の猫の姿、それもよく見かける茶トラというやつだ。試しに右手を上げてみる。すると、鏡の中の猫も右手を上げた。
吾輩の目から見える吾輩の手も、毛むくじゃらで鋭く尖った爪が生えている、まさしく猫の手。
その手が感じる床の冷たさも、くしゃみが出そうなほど鼻腔をくすぐる埃の臭いも、人間の時よりもはるかに敏感に感じられる。いや、それどころか、微かなカビの臭いや、遠くで鳴く鳥の羽ばたきまでが、耳の奥で鮮明に響く。
研ぎ澄まされていく五感は、もはや吾輩が人間ではないという非日常的な現実を容赦なく突きつけてくるようであった。
「待て。待て、待て待て」
吾輩は何が起きているのかわからず、「待て」と独りごちた。まるで霧がかかったかのように混乱した頭の中を、落ち着かせようとしたのだ。だが、何が起きたかなど全くもってわかりようもない。目覚めたら突然猫になっているだなんて。
「呪いか?それとも魔法か?いや、そんな呪いも魔法も一切聞いたことがないし、歴史書にも載っておらんぞ」
どんな困難な戦局も、魑魅魍魎が跋扈する政局も、明晰な頭脳と類稀なる行動力で対処する、この【冷静沈着のスティン】が、こうも五里霧中の思考の沼に陥るとは。目の前に突き付けられた状況に、何を成すべきか、ただ狼狽えるばかりであった。これほどの動揺は、これまでの吾輩の人生において、ただの一度たりとも経験したことがないものだった。
「おい!うるせえぞ!新入り!」
急な怒鳴り声に、全身の毛が逆立つ。すぐに体勢を低くし眼光鋭く睨みつけた。自然と喉の奥から低い声が滲み出る。すると、同時に複数の猫の気配と獣臭さを感じた。
「何をぶつくさ言っているのかはわからねえが、どうせ近々殺されるんだ。おとなしくしとけ!」
一際大きな身体をした、真っ黒い猫が眠りの邪魔をされて腹を立てているようだった。
「殺されるだと?何故だ?」
「知るか。俺たちが不要だからだろ」
「そうだろうな。ゴミは散らかす、そこらに糞尿は垂れ流す、いつの間にか増える。ろくな事はないな!」
「ふん、よく言えたもんだな。お前もそのお仲間だろうよ」
「……お仲間?」
そうだった。吾輩も猫であった。
「と、ともかく……だ。逃げようと思わないのか?」
吾輩は突如話題を変えた。決して、黒猫のツッコミによる恥ずかしさを誤魔化すためではない。
「逃げられるなら、みんな逃げてるさ」
周りを見渡すが、窓には細かい格子がされていてとても通り抜けることなどできない。入口のドアを開けられさえすれば、どうにかなるのではないか。
吾輩はゆっくりと入口へと近づく。地面の内側には、くっきりと擦れた跡があった。どうやらドアノブを押し下げてから、引いて開けるタイプのようだ。となると、猫ではどうにもできない。そりゃあ、みんな逃げるのを諦めるわけだ。
だがそんなもの【大魔道士スティン】にかかればなんてことない。
「ドアよ、開け!」
「…………?ドアよ、開け!」
おかしい。まさか、調子でも悪いのか?
「何がしてえのかわからねえが、ブツブツうるせぇぞ」
黒猫の分際で吾輩をどやすとは。まあいい。【寛大寛容のスティン】はそんなことでは怒らないのだ。
ともかく、魔法が使えない以上、何か他に使えるものがないか、とキョロキョロ辺りを探す。他の猫たちは吾輩に興味を持ったのか、近寄って来たり、行動を観察したりしていた。
「ん?このロープ使えそうだな」
吾輩は埃や土にまみれて汚れたロープを見つけると、その端を掴もうとした。だが、猫の手ではしっかりと掴めない。
「おじちゃん、なにしてんの?」
青みがかったグレーの毛並みの、おそらくブリティッシュショートヘアとかいう種類の猫の子供だった。それも三匹。その三匹が物珍しげに近づいてくる。
「吾輩がおじちゃんだと?」
誰にも言われたことのない単語に、ついつい反応してしまった。今はそれどころではないのだ。
「ねえねえ、なにしてんの?遊んでるの?」
『おじちゃん』という呼びかけは、三匹に敢え無くスルーされた。そして三匹のうちの一匹が目を爛々と輝かせてこちらを見つめている。それを真似て他の二匹も期待の眼差しを向け始めた。
「いや、遊んでるわけでは……」
吾輩はふと思った。そうだ、この子らに手伝ってもらおう。どうにも人間だった時と同じ動きをしてしまいがちで、思ったように動けないのだ。
「君達、このロープを咥えて、あそこのドアノブに引っ掛けて来てくれるかな?」
「ふーん、よくわかんないけど、なんか楽しそう!わかった!」
「では吾輩が教えた通りに頼むぞ。えーと、君達、名前は?」
「名前?なにそれ?美味しいの?」
「あー、君達はなんて呼ばれてるんだい?」
「おい」「ねえねえ」「お前」
三者三様に答えるが、どれも名前ではない。
「呼び方に困るな……では吾輩が取り敢えずの名をつけてやろう。右耳に白い点のある君はヒイ、左耳に白い点のある君がフウ、そして両耳に白い点のあるのがミイだ」
「わー、おじちゃんありがとう!」
「だからおじちゃんでは……まあ、いい。ではヒイはこのロープの真ん中を咥えてドアノブの上まで登って欲しい。できるか?」
ヒイは吾輩に言われた通り、ロープの中程を咥え、ピョンピョンと身軽にドアノブの支点に乗った。
「よしよし、すごいな。ではロープを引っ掛けてくれ」
褒められたヒイは、得意気にロープを引っ掛けて飛び降りる。
「フウは奥のロープの先端を、ミイは手前のロープを咥えて。そしたら、フウはミイの周りをぐるぐる回りながら走るんだ」
フウとミイが楽しげに向かう。そして言われた通りロープを咥え、ミイを中心にフウが円を描いて走った。
するとロープはねじれていき、フウの身体が浮いていくと同時にその体重により少しだけドアノブが下がった。
「いいぞ。フウ、ミイ。さあ、ヒイ。フウの身体に飛びつけ」
ヒイが全力で駆け、フウの身体に飛びかかった。ロープにフウとヒイの勢いと体重が加わり、遂にドアノブが下がった。
「今だ!」
吾輩は埃やカビ臭い汚いロープを、いやいやながら咥えて必死に引っ張る。
「くそっ、駄目か」
ドアがほんのわずか動いたが、猫一匹の力ではこれが限界かと、それでも懸命に引っ張った。急がないとロープがノブから抜け落ちてしまう。
「おい、これを引けばいいんだな」
いつの間にか、先程の黒猫が吾輩の後ろにやって来て、ロープを咥え、一気に引き出した。
ドアがまた少し動く。しかし、まだ引く力が足りない。
「おい!お前らもここから出たかったら力を貸せ」
黒猫が一旦ロープを離し、他の猫たちに呼びかけると、再びロープを引っ張る。
黒猫の呼びかけに応じた数匹の猫がわらわらとやって来て、同じようにロープを咥えて引き出した。
次の瞬間、引いていたドアの重みが突然なくなった。見ればドアは開かれ、そこからは眩い光が射し込み、暗い部屋の中を照らしている。
「やった!」
吾輩が歓喜の声を上げたその時。眩い光が遮られたかと思うと、人の形をした巨大な影が現れた。
「なんでドアが?まさかこいつらが?」
なんてこった。門番がいたのか。
門番の大男はドアに掛けられたロープを無理やり外すと外に放り投げ、荒々しくドアを閉めた。鈍い音を立ててドアが閉まるのと同時に、大男は足下に目をやり、まるで邪魔な石ころでも払うかのように、そこにいた三兄弟を荒々しく足蹴にした。ヒイ、フウ、ミイの甲高い悲鳴が、閉ざされた部屋に響き渡った。