「吾輩は……猫……」
「……なのか?」
古めかしい鏡を何度も眺める。そこにはどう見ても一匹の猫の姿しか映っていない。それもよく見かける茶トラというやつだ。試しに右手を上げてみる。すると鏡の中の猫も右手を上げた。
「待て、待て待て待て」
吾輩は何が起きているのかわからず、待てと独り言を繰り返し、頭の中を落ち着けようとした。
だが何が起きたかなどわかりようもない。突然猫になっているだなんて。
「呪いか?それとも魔法か?いや、そんな呪いも魔法も聞いたことがない」
吾輩は狼狽えた。この冷静沈着のスティンが狼狽えるなど滅多にあるものではない。
「おい!うるせえぞ!新入り!」
急な怒鳴り声に全身の毛が逆立つ。すぐに体勢を低くし眼光鋭く睨みつけた。同時に複数の猫の気配を感じる。
「何をぶつくさ言っているのかはわからねえが、どうせ近々殺されるんだ。おとなしくしとけ!」
一際大きな身体の真っ黒い猫が眠りの邪魔をされたことに腹を立てているようだ。
「殺されるだと?何故だ?」
「知るか。俺等が不要だからだろ」
「そうだろうな。ゴミは散らかす。そこらに糞尿は垂れ流す。いつの間にか増える。ろくな事はないな」
「ふん、よく言えたもんだな。お前もそのお仲間だろうよ」
「……お仲間?」
そうだった。吾輩も猫であった。
「と、ともかくだ。逃げようと思わないのか?」
吾輩は突如話題を変えた。決して黒猫のツッコミによる恥ずかしさを誤魔化すためではない。
「逃げられるならみんな逃げてるさ」
周りを見渡すが、窓には細かい格子がされていてとても通り抜けることなどできない。入口のドアを開けられさえすればいけないことはないか。
吾輩はゆっくりと入口へと近づく。地面の内側の擦れた跡が目に入る。どうやらドアノブを押し下げてから、引いて開けるタイプのようだ。となると、猫ではどうにもできない。
だがそんなもの大魔道士スティンにかかればなんてことない。
「ドアよ、開け」
「…………?ドアよ、開け!」
おかしい。調子でも悪いのか。
「何がしてえのかわからねえが、ブツブツうるせぇぞ」
黒猫の分際で吾輩をどやすとは。まあいい、寛大寛容のスティンはそんなことでは怒らないのだ。
ともかく魔法が使えない以上、何か他に使えるものがないか、とキョロキョロ辺りを探す。他の猫たちは吾輩に興味を持ったのか、近寄って来たり行動を観察したりしていた。
「ん?このロープ使えそうだな」
吾輩は埃や土に塗れて汚れたロープを見つけると、その端を掴もうとした。だが、猫の手では当然掴めない。
「おじちゃん、なにしてんの?」
青みがかったグレーの毛並みの、何かの物語によればブリティッシュショートヘアとかいう種類の猫の子供だ。それも三匹。その三匹が物珍しげに近づいてくる。
「吾輩がおじちゃんだと?」
誰にも言われた事のない単語に、ついつい反応してしまった。今はそれどころではないのだが。
「ねえねえ、なにしてんの?遊んでるの?」
おじちゃんは三匹に敢え無くスルーされた。そして三匹の内の一匹が目を爛々と輝かせてこちらを見つめている。それを真似て他の二匹も期待の眼差しを向けて始めた。
「いや、遊んでるわけでは……」
吾輩はふと思った。そうだ、この子らに手伝ってもらおう。どうにも人間であった時と同じ動きをしてしまいがちで、思ったように動けないのだ。
「君達、このロープを咥えて、あそこのドアノブに引っ掛けて来てくれるかな?」
「ふーん、よくわかんないけど、なんか楽しそう!わかった」
「では吾輩が教えた通りに頼むぞ。えーと、君達名前は?」
「名前?なにそれ?美味しいの?」
「あー、君達はなんて呼ばれてるんだい?」
「おい」「ねえねえ」「お前」
三者三様に答えるがどれも名前ではない。
「呼び方に困るな……では吾輩が取り敢えずの名をつけてやろう。左からヒイ、フウ、ミイだ」
「わー、おじちゃんありがとう!」
「だからおじちゃんでは……まあ、いい。ではヒイはこのロープの真ん中を咥えてドアノブの上まで登って欲しい。できるか?」
ヒイは吾輩に言われた通りにロープの中程を咥えてピョンピョンと身軽にドアノブの支点に乗っかった。
「よしよし、すごいな。ではロープを引っ掛けてくれ」
褒められたヒイは得意気にロープを引っ掛けて、飛び降りる。
「フウは奥のロープの先端を、ミイは手前のロープを咥えて。そしたはフウはミイの周りをぐるぐる回りながら走って」
フウとミイが楽しげに向かう。そして言われた通りロープを咥えて、ミイを中心にフウが円を描いて走る。
するとロープはねじれていき、フウの身体が浮いていくと同時にその体重により少しだけドアノブが下がった。
「いいぞ。フウ、ミイ。さあ、ヒイ。フウの身体に飛びつけ」
フウが全力で駆けて行き、フウの身体に飛びかかった。ロープにフウの勢いと体重が追加され、遂にドアノブが下がった。
「今だ!」
吾輩はいやいやながらロープを咥えて、必死に引っ張る。ドアがほんのわずか動いた。
「くそっ、駄目か」
猫一匹の力ではこれが限界かと、それでも懸命に引く。急がないとロープがノブから抜け落ちてしまう。
「おい、これを引けばいいんだな」
いつの間にか、先程の黒猫が吾輩の後ろにやって来ていてロープを咥えると一気に引き出した。
ドアがまた少し動く。しかしまだ引く力が足りない。
「おい!お前らもここから出たかったら力を貸せ」
黒猫が一旦ロープを離して他の猫たちに呼びかけた。そして再びロープを引っ張る。
黒猫の呼びかけに応じた数匹の猫がわらわらとやって来て、同じようにロープを咥えて引き出した。
次の瞬間。引いていたドアの重みが突然なくなった。見ればドアは開かれ、そこからは眩い光が射し込み、暗い部屋の中を照らしている。
「やった!」
吾輩が歓喜の声を上げたその時。眩い光の面積が極端に小さくなり、人の形をした巨大な影が浮かび上がる。
「なんでドアが?まさかこいつらが?」
なんてこった。門番がいたのか。
門番の大男はドアに掛けられたロープを無理やり外すと外に放り投げ、荒々しくドアを閉めると、足元にいる三兄弟を足蹴にした。