しかし心配は無用であった。サーヤは小川を簡単に泳ぎきり、こちらの岸へ上がるなり、ブルブルと体を震わせて、体毛に絡みつく水を吹き飛ばした。そして吾輩目掛けて一直線に突進してくる。
「ダーーリーーン!」
「おいおい!ダメだ!止まれ!」
吾輩は飛びかかるサーヤをヒラリと躱した。
「なんで避けるのー!」
「大事な物を持っているんだ、濡らすわけにはいかん」
「むー。ダーリンのケチ!」
「あのな、ダーリンではない。吾輩の名はスティンだ。英雄王スティンの生まれ変わり?であるぞ」
「へー、スティンて名前なのね、ダーリンは」
「だからダーリンでは……」
「にゃー」
「こら、話してる最中だぞ、飛びついてくるな」
なんなのだ、このしつこさは。戯れているというのはわかっているが。
「恩人とはいえ今はダメだ。逃げ……いや撤退しよう」
不退転のスティンと言えど、退くべき時は退くのだ。吾輩はサーヤに背を向け、橋へと駆け出した。橋を渡ってその先の村に入り込めば撒けるだろう。
「ふふ。水に濡れていては吾輩より早く走れまい」
吾輩は振り返った。案の定追ってきてはいるが濡れた体では走りにくそうだ。橋ももう半ば、このまま逃げ切ろう。そう思って前を向く。
「なにっ!?壁だと!?」
吾輩は急には止まれない。そのまま壁らしき物に衝突し、ひっくり返った。
「イタタタ……」
「ごめんごめん、大丈夫?」
サーヤの主の王女だ。
「突然駆け出してくるんだもん。避けそびれちゃった」
王女はしゃがんで顔を覗き込み吾輩に話しかけた。サーヤと同じ柑橘系のいい匂いにボーっとする。
おっと、そんな場合ではない。
「ダーリン捕まえたー」
「うおっ!」
起き上がった吾輩の背にサーヤが飛びついた。
「日誌が濡れる、離れろ。離れんか」
なんということだ。吾輩が任務を仕損じるとは。とにかく早く乾かさねば。
吾輩はサーヤを振り払うべく体を揺らした。
「サーヤ、いい加減に離れろ」
「やだー」
「遊びじゃない。背中の紙が濡れるだろうが」
吾輩は揺すりを強めた。この時吾輩はサーヤを引き離すのに必死で、まさか重ねて任務を失敗する羽目になるなど思いも寄らなかった。
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いや、吾輩はスティンだが。ん?スポン?
急に背中が軽くなる。括っているもののなくなったロープがダランと垂れ下がった。
「日誌は!?」
慌て……いや状況確認のため、勢い良く辺りを見回した吾輩の前脚に何かが当たった。日誌だ。日誌は乾いた橋を滑り、欄干の方へと弾かれた。
「落ちる!落としてたまるか!」
吾輩は駆け出した。川に落ちるのは完全にアウトだ。おとぎ話の国のハラキリに値する失態だ。
「吾輩のロングジャンプとこの爪でなんとしても落とさんぞ」
ジャンプして日誌を押さえつけ、爪を立てて滑るのを防ぐ。完璧だ。さすがは天才戦術家スティンよ。目標はもう目の前だ。
「なにこれ?」
王女が日誌を拾い上げた。
「おい、こら、触るな。それは吾輩の……」
標的が移動したことで吾輩の視線が逸れた。よそ見した吾輩は欄干の隙間を縫ってそのまま川へダイブする。
「うおーー!」
吾輩は潜った顔を水面に出し呼吸をする。
「落ち着け。吾輩はトビウオスティン。泳ぎは得意だ」
いつものようにバタフライするだけ、のはずであった。だが前脚は回らないし後ろ脚で水中を蹴っても推進力が皆無だ。
ならば平泳ぎだ。だが前脚は横に水を掻けない。というか猫の体では平泳ぎもバタフライも出来ないのだ。当然であるが。
犬かき……いや猫かきするよりなさそうだ。しかしこれがなかなかしんどい。
吾輩は懸命に猫かきをするが、流れに逆らうことも出来ず流されるがままであった。必死にバタバタとするがどうにもならない。
「衛兵、その子を拾い上げて」
見かねた王女が橋の上からの叫ぶ。サーヤも心配そうに成り行きを見守っていた。
この衛兵はさっきサーヤを追っていた者だ。川に入りたくなく、渋い顔をしていたが王女の直命には従わざるを得ない。
大きくため息をつくと川に入り、吾輩の体をやすやすとつまみ上げた。
「助かった、礼を言う」
謙虚なスティンは受けた恩には礼を欠かさないのだ。だが衛兵は違った。
「クソ猫が。汚らわしい」
王女に見えないように呟き、吾輩を岸へ放る。
「おい!何をするか!」
吾輩は抗議するが、衛兵は「うるせぇ」と一蹴し、反対の岸へと上がっていった。
此奴、猫が嫌いなのだろう。それにしても王女の目の前でよくやる。
岸から上がった衛兵は案の定、王女にたしなめられた。
「あの猫が牙を剥いたのでつい」
「猫が苦手なのかもしれないけど、もっと優しく扱って」
「はっ。申し訳ございません」
王女はそのまま衛兵を置き去りに吾輩に駆け寄った。サーヤも一緒にやってくる。
「大丈夫だった、君。おうちはこの辺?」
濡れた体毛が絡みつき、どうにも気持ちが悪い。吾輩はたまらずブルブルと体を震わせ水を飛ばした。
これがまた思いのほか気持ちが良い。例えるなら鼻詰まりがスゥーと通る感じか。これは何度も繰り返したくなるわけだ。