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第6話

 しかし心配は無用であった。サーヤは小川を簡単に泳ぎきり、こちらの岸へ上がるなり、ブルブルと体を震わせて、体毛に絡みつく水を吹き飛ばした。そして吾輩目掛けて一直線に突進してくる。


「ダーーリーーン!」


「おいおい!ダメだ!止まれ!」


 吾輩は飛びかかるサーヤをヒラリと躱した。


「なんで避けるのー!」


「大事な物を持っているんだ、濡らすわけにはいかん」


「むー。ダーリンのケチ!」


「あのな、ダーリンではない。吾輩の名はスティンだ。英雄王スティンの生まれ変わり?であるぞ」


「へー、スティンて名前なのね、ダーリンは」


「だからダーリンでは……」


「にゃー」


「こら、話してる最中だぞ、飛びついてくるな」


 なんなのだ、このしつこさは。戯れているというのはわかっているが。


「恩人とはいえ今はダメだ。逃げ……いや撤退しよう」


 不退転のスティンと言えど、退くべき時は退くのだ。吾輩はサーヤに背を向け、橋へと駆け出した。橋を渡ってその先の村に入り込めば撒けるだろう。 


「ふふ。水に濡れていては吾輩より早く走れまい」 


 吾輩は振り返った。案の定追ってきてはいるが濡れた体では走りにくそうだ。橋ももう半ば、このまま逃げ切ろう。そう思って前を向く。


「なにっ!?壁だと!?」


 吾輩は急には止まれない。そのまま壁らしき物に衝突し、ひっくり返った。


「イタタタ……」


「ごめんごめん、大丈夫?」


 サーヤの主の王女だ。


「突然駆け出してくるんだもん。避けそびれちゃった」


 王女はしゃがんで顔を覗き込み吾輩に話しかけた。サーヤと同じ柑橘系のいい匂いにボーっとする。


 おっと、そんな場合ではない。


「ダーリン捕まえたー」


「うおっ!」


 起き上がった吾輩の背にサーヤが飛びついた。


「日誌が濡れる、離れろ。離れんか」


 なんということだ。吾輩が任務を仕損じるとは。とにかく早く乾かさねば。


 吾輩はサーヤを振り払うべく体を揺らした。


「サーヤ、いい加減に離れろ」


「やだー」


「遊びじゃない。背中の紙が濡れるだろうが」


 吾輩は揺すりを強めた。この時吾輩はサーヤを引き離すのに必死で、まさか重ねて任務を失敗する羽目になるなど思いも寄らなかった。


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 いや、吾輩はスティンだが。ん?スポン?


 急に背中が軽くなる。括っているもののなくなったロープがダランと垂れ下がった。


「日誌は!?」


 慌て……いや状況確認のため、勢い良く辺りを見回した吾輩の前脚に何かが当たった。日誌だ。日誌は乾いた橋を滑り、欄干の方へと弾かれた。


「落ちる!落としてたまるか!」


 吾輩は駆け出した。川に落ちるのは完全にアウトだ。おとぎ話の国のハラキリに値する失態だ。


「吾輩のロングジャンプとこの爪でなんとしても落とさんぞ」


 ジャンプして日誌を押さえつけ、爪を立てて滑るのを防ぐ。完璧だ。さすがは天才戦術家スティンよ。目標はもう目の前だ。


「なにこれ?」


 王女が日誌を拾い上げた。


「おい、こら、触るな。それは吾輩の……」


 標的が移動したことで吾輩の視線が逸れた。よそ見した吾輩は欄干の隙間を縫ってそのまま川へダイブする。


「うおーー!」


 吾輩は潜った顔を水面に出し呼吸をする。


「落ち着け。吾輩はトビウオスティン。泳ぎは得意だ」


 いつものようにバタフライするだけ、のはずであった。だが前脚は回らないし後ろ脚で水中を蹴っても推進力が皆無だ。


 ならば平泳ぎだ。だが前脚は横に水を掻けない。というか猫の体では平泳ぎもバタフライも出来ないのだ。当然であるが。


 犬かき……いや猫かきするよりなさそうだ。しかしこれがなかなかしんどい。


 吾輩は懸命に猫かきをするが、流れに逆らうことも出来ず流されるがままであった。必死にバタバタとするがどうにもならない。


「衛兵、その子を拾い上げて」


 見かねた王女が橋の上からの叫ぶ。サーヤも心配そうに成り行きを見守っていた。


 この衛兵はさっきサーヤを追っていた者だ。川に入りたくなく、渋い顔をしていたが王女の直命には従わざるを得ない。


 大きくため息をつくと川に入り、吾輩の体をやすやすとつまみ上げた。


「助かった、礼を言う」


 謙虚なスティンは受けた恩には礼を欠かさないのだ。だが衛兵は違った。


「クソ猫が。汚らわしい」


 王女に見えないように呟き、吾輩を岸へ放る。


「おい!何をするか!」


 吾輩は抗議するが、衛兵は「うるせぇ」と一蹴し、反対の岸へと上がっていった。


 此奴、猫が嫌いなのだろう。それにしても王女の目の前でよくやる。


 岸から上がった衛兵は案の定、王女にたしなめられた。


「あの猫が牙を剥いたのでつい」


「猫が苦手なのかもしれないけど、もっと優しく扱って」


「はっ。申し訳ございません」


 王女はそのまま衛兵を置き去りに吾輩に駆け寄った。サーヤも一緒にやってくる。


「大丈夫だった、君。おうちはこの辺?」


 濡れた体毛が絡みつき、どうにも気持ちが悪い。吾輩はたまらずブルブルと体を震わせ水を飛ばした。


 これがまた思いのほか気持ちが良い。例えるなら鼻詰まりがスゥーと通る感じか。これは何度も繰り返したくなるわけだ。


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