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絵蓮の画策①

「ふざけやがって、あの野郎!」

 感情的になっている荒木を余所に絵蓮は心の中で冷笑した。人望がないから、あのような人間を使わなければならなくなるのだ。失敗するのは当然だ。

「今回くらいは上手くやれると思ったんだがな」

 絡まれたら厄介だと思い、そっと荒木から離れた。外は大粒の雨がアスファルトを叩いている。耳障りな音だが、荒木の愚痴を聞かされるよりはましだ。

「せっかく絵を奪い取るチャンスだったのによ」

 荒木が拳をテーブルに叩きつけた。この男の脳は筋肉で出来ているのか、自分の感情を抑えることができないなんて……。これ以上、感情がヒートアップすれば、私も被害を受けてしまいかねない。注意を逸らさなければ。

「それにしても凄い雨ですね。耳がおかしくなってしまいそう」

 窓に近づき、外を眺めようとした時、甲高い音が部屋中に響き渡った。荒木の手元でコーヒーカップが砕け散っている。荒木が叩き割ったのだ。テーブルから滴り落ちた黒い液体が、絨毯に染み渡っていく。

 子どもじゃあるまいし。わざわざ大きな音を出して……。私に宥めて欲しいのだろうか。私はお前の母親ではないのだけど。

 この男はやはりダメだ。あまりにも自制が利かなすぎる。この男が暴走をしたら食い止めるのは不可能に近い。「相手に悪いから止めましょう」と言って素直に応じるような生き物ではない。なんせ倫理観や道徳観が完全に欠如しているのだ。誰かを傷つけても悦に浸ってヘラヘラ笑い、言い訳や嘘を繰り返しては自身の正当性をアピールする。このような奴には何を言っても無駄だ。この男のことは、人の形をしているだけの別の生き物とでも思っていた方が良さそうだ。

 これ以上、行動を共にするのは止めておこう。この男は後先を考えない。綿密に計画を練ったところで、荒木の行動一つで全てが台無しになってしまう。

 考え耽っているとドアが開く音が聞こえた。雨だから仕方がないとは言え、このような時に遅れて来るとは……。約束の時間をとうに過ぎている。入って来た人物を確認すると同時に荒木から距離を取った。

 トカゲは中に入らずに、その場に立ち竦み、荒木の様子を伺っている。

「よう遅かったじゃないか。俺を待たせるとは良い身分だな。お前はいつからそんなに偉くなったんだ?」

 荒木が露骨に見下して言った。しかしトカゲは能面師のように表情を変えず、前を見据えたまま動かない。

「あいつらに撒かれたんだってな。発信機まで使っておいて尾行もできないのかよ」

 トカゲのミスを内心で喜んだ。作戦の詳細は知らないが、荒木は道中のどこかで楓月たちを急襲して絵を奪い取るつもりだったのだ。仮に絵を手中に収めることができたとしても、その後、逮捕されるのは目に見えている。私も巻き添えを食らっていたに違いない。

「この落とし前、どう付けるつもりなんだ? お前、もう一度家に行って来たらどうだ?」

 荒木の目がすわっている。こいつは本気だ。

トカゲは身を固めたまま動かない。弱者の本能というやつだろうか。僅かでも動いたら襲われかねないことをトカゲは知っている。

「荒木さん、絵は自宅ではなくて、もっと安全な場所に保管していると思いますよ」

 この状況で自宅に保管するなんて有り得ない。考えなくても分かることだ。

「だったら、その安全な場所とはどこなんだよ」

「さあ、そこまでは」

 分かるはずがない。私たちが知る由のない安全な場所に移しているに決まっている。

「何だそりゃ。聡明でいらっしゃるお嬢さんでも分からないのかよ」

 荒木は鼻で笑った。

「トカゲよお。お前の処分だが、どうするか考えとくわ」

 そう言い残して、大雨の中、荒木は外に出て行った。あいつはこれから何をするつもりなのか。嫌な予感しかしない。

 荒木の姿が見えなくなってから、トカゲに視線を移した。トカゲは何の理由があって、あのような生き物に付き従っているのか。物のように扱われても、少しも離れる素振りを見せない。

「小林さん。発信機について訊きたいのですが、あの人たちに気づかれた理由として思い当たる節はありますか?」

 荒木のように小林のことをトカゲと呼んでも構わない。しかし、こいつは何がきっかけで発狂するか分からないところがある。以前、幹部たちからミスを指摘された時なんて、本部の裏手から何度も奇声が聞こえたのだ。あの悍ましい声を聞かされては堪らない。

「すみません」

 誰が謝罪しろと言ったのか。卑屈な人間で嫌になる。

「失敗を責めているわけではありません。私は荒木さんとは違います。今後の対策として知っておきたいから訊いているだけです」

「気づかれた理由と言われても……」

「小林さんは発信機をいつ取り付けたのですか。その時に気づかれたのでは?」

 トカゲが反応した。

「あの女だ。あいつしかいない」

「どうして、そう思うのですか」

「車から降りてきたので」

 何を言っているのか分からない。もう少し理路整然と話すことはできないのか。

「車から降りた後、車の下を探していたのですか」

「いいえ……ただ降りて来ただけです」

 車から降りてきたのに、その後、発信機を探さなかった……。だったら、それは気づいたという事にはならない。きっと、どこかのタイミングで楓月が気づいたのだろう。

 楓月と初めて会った時の印象は、どことなくトカゲと似ているというものだった。しかし本部で見た時の楓月は、まるで別人のようだった。成長したというよりは、本来の自分を取り戻したといった感じだ。一体、この短期間のうちに何があったのか。分かることは、あの男は自分を見失わない芯の強さを持っているということだ。

「小林さん、今回のことは気にしないで下さい。小林さんに非がなかったことを私から荒木さんには伝えておきますので」

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