紫川に掛かる橋を渡って、僕と咲良は小倉城方面に向かった。いつもより人出が多く、街が活気づいており、ジャズや民族音楽など多種多様な音楽が様々なところから聴こえてくる。磨き上げた技術を披露しているのは音楽家たちだけではない。様々な場所で大道芸人たちも観客たちを楽しませている。
個性豊かな音楽家や大道芸人たちと比べて、観客たちは極めて均一的であり、似たような服装をした人たちで溢れている。芸に興味を示しているならまだ良い方で、どの芸にも興味を示さず、遠くから集団を一瞥するだけで立ち去っていく人もいる。決して輪に加わることはない。他人が楽しんでいるところなんて見たくもないからだろう。その気持ちは良く分かる。
「咲良さーん」
遠くから声が聞こえた。魔女のような服装をした女性が、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を大きく左右に振っている。その女性が走り寄ってきた。
「里美さん、この前は、どうもありがとうございました」
咲良が言った。
里美さんは僕らが本部から逃げようとした時、垣根から顔を出して導いてくれた人だ。
「そんなの気にしなくても良いって。困っている人がいたら助けるのは当然でしょ。私たち、あの本部にいる人たちのこと嫌いだし。だって、いつも私たちを馬鹿にして見ているからね。何が気に入らないのか分かんないけどさ」
里美が身を翻して、遠くを指さした。
「あのピエロみたいなのが、修二です。自作したので変なピエロになってますけど、気にしないで下さい」
子どもたちに囲まれて、揉みくちゃにされている。修二も本部で助けてくれたうちの一人だ。咲良が隣家にお裾分けに行った時に里美と修二の二人と仲良くなったらしい。
「あの公園からは、本部に入っていく人たちがよく見えるんだよね。だけど、まさか咲良さんが入っていくとは思わなかったよ。引き留めなきゃと思って声を出したのに、咲良さん全然気づいてくれなくてさ」
「誰かが騒いでいたのは気づいたけど、里美さんたちとは思わなかったんです」
「私たち、いつもあの公園で練習しているんだ。私たちのお気に入りの場所だからね」
「おーい里美、早く」
ピエロの修二が呼んでいる。修二は仲間と一緒に紫川の畔で大道芸を披露している。
「それじゃ行ってきます。楓月さんも、またね」
里美が修二たちの元へ走って行った。
僕らはイベントが終わった後に、また修二たちと落ち合うことになっている。それまで僕と咲良は大道芸を見て時間を費やすことにした。
「どう? 楓月さん、楽しんでもらえた?」
木陰で休んでいた時に里美に声を掛けられた。他の大道芸人たちは小道具をせっせと片付けている。この人たちは何が楽しくて大道芸をやっているのだろうか。世間の人たちの大半は利益に結び付くことしか遣りたがらないというのに。
「これからお世話になります。巻き込んでしまって申し訳ないです」
「楓月さん。わたし一度、言いましたよ。気にしなくて良いって」
大道芸人たちは一軒家をシェアして過ごしている。僕と咲良は空いた部屋を借りて、しばらくの間、お世話になることになった。信者が家に来ることはないとは思うが、念のためだ。
「それじゃあ行こうぜ」
修二が運転席に乗り込んだ。誰一人として迷惑そうな顔をしていない。出会ったばかりの人を理由もなく助けたいと思う気持ちはどこから来るのか。
車窓から景色を眺めていた時、携帯が鳴った。由香里からだ。
「良かったら見に来ない? 市香さんの舞いが見れるよ」
何のことだろう。
「咲良さん。市香さんが舞うそうですが、由香里さんが見に来たらどうかって言ってます」
「私は市香さんの代わりに働くことになっているので、その日は行けないんです」
「じゃあ、俺らが代わりに行こう」
「はっ? なんで修二が行こうとするわけ?」
すぐさま里美が反応した。
「いや、だってイベントが終わったら暇になるからさ」
「舞うからといって、綺麗な人とは限らないでしょ」
里美がふてくされて言った。
「由香里さん、みんなで見に行っても良いですか」
「みんな? まあ良いんじゃない? だけど早く行かないと見れないかもよ。見物客が多いみたいだから」
市香さんに初めて会った時、流れるような所作に心を奪われたことを思い出す。あの動きをまた見ることができるのか。舞いの日が楽しみだ。
◇
鏡に映る姿は醜悪そのものだ。とても見ていられない。トカゲは鏡から目を逸らして辺りを見回した。
長い年月の間、放置され続けたコンクリートの壁面が所々、剥がれ落ちている。湿気に覆われた無機質な倉庫の中でトカゲは一人、笑みを浮かべた。なんて居心地の良い空間なんだ。
このような僻地に近寄ってくる奴はいない。この場所を生活の拠点にすることができたのは幸運だった。ここに居れば誰とも関わらずに済む。たとえ外で嫌な奴と遭遇し、辛酸を舐めることになったとしても、この場所でなら脳内で幾らでも痛めつけることが可能だ。偽りの優越感だろうが何だって構いやしない。僕を虐げる愚かな猿どもを叩き潰すことさえできたら、それで良いのだ。
本来ならば、今は悦に浸っている時間のはずだった。しかし度重なる失敗がそれを許さなかった。
急に呼び出されたって、直ぐに行けるわけがない。外は土砂降りだったんだ。遅れるのは当たり前じゃないか。それに追跡が失敗したのだって僕が悪いわけじゃない。あんなの誰だって失敗するに決まっている。僕なりに一生懸命やったんだ。
荒木さんが部屋を出て行った時の、あの目が忘れられない。あれは教会の女どもが僕に向けてくる目と一緒だ。見下した目というよりは、汚物を見る時の目に近い。
荒木さんの元では、たとえ底辺であっても僕は人間でいることができた。このままだと、また戻ってしまいそうだ。この世の中に僕は存在しないと感じた、あの頃の僕に……。
結局、僕のことを分かってくれたのは、荒木さんだけだった。
『欲望に忠実に生きて何が悪いってんだよなあ。あれこれ考える奴の方が馬鹿だと思わないか?』かつて荒木さんが発した言葉だ。荒木さんの生き方は僕の理想そのものだ。善悪なんて、どうでも良い。周りの奴になんて合わせたくもない。
意味もなく、弧を描くように倉庫内をぐるぐると歩き回った。こうでもしていないと落ち着いていられない。どうして、いつも僕だけがこんな目に遭わなければいけないのか。僕なんかよりも酷い目に遭わなければならない奴らは、他にも幾らでもいるはずだ。
そもそも、あいつが邪魔さえしなければ、こんなことにはならなかったんだ。あいつだ。あの女が全て悪い。