パトカーや救急車のサイレンの音が辺りに響き渡り、信者たちがわらわらと建物から出て来た。騒ぐ者は誰もいない。信者たちは目の前に映し出されている映像を黙って見つめている。これから先、大変な騒動に巻き込まれ、信者たちは居場所を失う可能性がある。それなのに、この落ち着きようは一体、何なのか……。ここにいる本部の人たちは教会にいた人たちと比べても異質だ。
「何なんだよ。さっきの見張りの奴らも変だったけど、こいつらも薄気味わりぃな。お前らのところで起きたってのによ」
想像力がないというのは恐ろしい。当事者意識がないのだ。
ストレッチャーを持った救急隊員たちがトラックに向かって走って行った。代わりに香流甘がこちらにやって来る。
「さっき、お母さんって言ってたけど」
「はい。あの人は私の母です。あんな人を母だなんて思いたくはないけど……」
本心だろうか。本心ならば我を失うことはないはずだ。
「助けに来てくれたのでは」
トラックで突っ込んで来るなんて尋常ではないが。
「そうだと思いますけど、迷惑です。はっきり言って」
それでも助けに来てくれたのだ。それだけでも十分だ。無関心が一番堪える。
丘の下からも続々と人が集まって来た。公園にいた恋人たちだ。信者たちのように遠巻きに眺めているが、この人たちからは無機質さは感じられない。その代わり好奇の目を向けて写真撮影に及んでいる。信者も野次馬も、すべての人が人間を見ていないのだ。
多くの人が行きかう中、一人の女性に視線が止められた。やはり、そうだったか。
「あの人ですよね。料理担当って」
香流甘に聞いた。
「よく知ってますね。どこかで会ったことがあるのですか。楓月さんたちが本部に来た時、体調が悪いと言って途中で帰った人です。わたし、あの人、嫌いなんですよね」
タイミングよく体調を崩して帰るなんて不自然だ。僕と会いたくなかったのだろう。あいつは僕を轢こうとした人間で間違いない。車とすれ違う瞬間、確かに、あの顔を見た。咲良が桟橋で目撃した怪しい人物というのも、おそらく、あいつのことだ。犬の散歩を装って、僕の絵に関心がある素振りを見せながら、僕を監視していた中年の女性……。
その中年の女性が警察官の姿を見て、くるりと背を向けた。疚しいことがあるからだろう。夜間だと言うのにサングラスを掛けている。中年の女性がこちらに向かってきた。
「ご無事のようで安心しました」
よく悪びれもせず僕の前に姿を現わせたものだ。
「直ぐにハンドルを切ったので、車にぶつからずに済みましたよ」
壁には激突したが。
「楓月さん、そういう意味ではないと思いますよ」
後ろにいる香流甘が袖を引っ張って囁いた。
「あの人は自分のことを言っているんです」
香流甘の言っていることが一瞬理解できなかった。しかし直ぐに理解した。『安心しました』という言葉は僕に向けられたものではないことに……。
「あの時、僕が大怪我をしていたら、あなたは逮捕されていたかもしれませんね」
だから、こいつは安心したのだ。自分の身を案じて。
「その節は指示されたとはいえ、本当に申し訳ありませんでした」
癇に障る言い方だ。『指示されたとはいえ』これでは自分には非がないと言っているようなものだ。こんなものは謝罪ではない。
遠方で香流甘の母が救急隊員と話をしているのが見えた。意識を取り戻したようだ。
「事故を目撃された方々ですか」
新聞記者らしき人が僕らに話しかけてきた。しかし即座に中年の女性が割って入った。
「ええそうです。倒れている人を見た時、身体が自然に動いたんです。それはもう無我夢中でした」
その発言を聞いて、マスコミたちが一斉に中年の女性を取り囲んだ。
「私、教会に騙されていたんです。ですが、今日、脱会することを決めました。もう、あのような非常識な団体には付いて行くことはできません。あの人たちのように、私は人を傷つけることなんてできませんから。私、目が覚めたんです。これからは自分の心に忠実に、そして真っ当に生きて行きたいと思います。それが本来の私でもありますから」
こいつの発言は嘘ばかりだ。こいつはそのような人間ではない。英雄気取りでいるが、何もしていなかったはずだ。
インタビューを受けている時、突然、中年の女性が香流甘の母に近寄って声を掛けた。心配そうな顔と声色を使って迫真の演技を見せつけている。
香流甘が苦虫を嚙み潰したような顔をして顔を下に向けた。醜悪な偽善行為なんて見たくもないからだろう。散々、教会と共に行動を取ってきたくせに、被害者面をするとは……。あいつが被害者のわけがない。あいつは加害者側の人間だ。
本部内へ警察官が次々と入って行く。これから教祖や幹部も事情聴取を受けることになる。首謀者の荒木に至っては、逮捕も有り得る。今頃、信者からの報告を受けて悔しがっているに違いない。まさか香流甘の母親がトラックで倉庫に突っ込むなんて、夢にも思わなかっただろう。すべてが思惑通りに進むはずがないのだ。
香流甘の母親がストレッチャーで運ばれてきた。
「お母さん、どうして私の居場所が分かったの」
「信者から聞き出したんだよ。教会に行ってね」
「じゃあ、あのトラックは? お母さんの車じゃないでしょ」
「あれは教会の車。さっきの人が鍵を貸してくれたんだ。倉庫の中に香流甘が閉じ込められていることを教えてくれたのも、あの人なんだよ。あの人には感謝しなきゃいけないね。あんたも、お礼言っときなよ」
あいつが香流甘の母親を煽ったのだ。「早く助けなければ大変なことになる」とでも言って……。香流甘の母親が倉庫に突っ込んだ時は、さぞかし笑いが止まらなかったことだろう。それにしても、あいつの狙いは何なのか? 脱会する為の口実作りだろうか。それとも大きな事故を起こさせて、かつて自分が起こした事故から目を背けさせようとでもしたのだろうか。いずれにしろ、あいつは無傷で逃げ切るつもりだ。
「香流甘、何か言いたそうだね」
「別に、呆れてるだけ」
「あんたはいつもそうだよ。私が何をしてやっても感謝の一言もない。私の言うことなんて聞きもしないんだ。どうしてこうなったんだろうねえ。ここまで苦労して育ててやったというのに」
「もう黙ったら?」
このような遣り取りには慣れているのか、香流甘は怒りもしない。
「早く、この人を病院へ連れて行って下さい。この人は病気です」
香流甘が言うと、救急隊員たちは苦笑いを浮かべて香流甘の母親を運んで行った。香流甘の母親が遠く離れていく。
「どうして分かってくれないんだろう」
香流甘は寂し気な表情を浮かべた。
色々なことが起きたが、これで一安心だ。ほっと一息ついていると、本部の入り口付近からエンジン音が聞こえ、深緑色をした車が姿を現わした。あれは事故当日に見た車だ。中年の女性は何事も無かったかのように涼し気な顔をしている。あの謝罪は心からのものではなかった。あれで解決したことになっているのか。
まるで寄生虫のような人だ。宿主に寄生して生きながらえ、住み心地が悪くなったら宿主から離れていく。そして、また新たな宿主を見つけては寄生するのだ。あいつは今後も自分だけは傷つかない狡猾な方法で生き続けるのだろう。それが、あいつの生き方なのだ。
修二と里美は、まだ緊張が抜けきってはおらず、顔が強張ったままだ。トラックが自分たちに向かって突っ込んで来たのだから当然だ。ましてここは宗教施設でもある。平然としている僕の方がどうかしているのだ。僕も信者たちのように、どこか壊れているのかもしれない。