明確な結果というものは、期待されていないのだ、と彼は与えられた部屋のベッドの上に寝ころんで、考える。
小綺麗な部屋だった。結構な広さだ。確かに悪くない。
天井は高いし、ベッドの枠は銀色に輝く細工の美しい、一種の工芸品の類だ。役割が役割だけに、ピアノもアプライトながらちゃんと置かれてはいるし、そのためなのかどうなのか、その部屋には一応防音機能が働いている。
ただ、そこは、それでも牢獄だ、と彼は感じていた。
窓に格子がはまっている訳でも、扉に鍵がついている訳でもない。だが、そこは決して自由ではない。
例えば、この部屋には、毎日ベッドのシーツを変えたり、ポットの湯を熱いものに取り替えていく掃除の少女がやってくるという。それが果たして本当に見かけ通りのただの少女なのか、それすらも判らないのだ。
見かけ通りの歳でない者は、自分という例でよく判っている。
この惑星ペロン自体を味方につけるかどうかは、自分の行動如何にかかっているのだ。
どんな仕事であっても。組織に身を置いた時点、いやそれ以前、あの麗人に逆らうことができなかった時点から、同じなのだ。ただ舞台が違うだけで。
自分は、同じことばかりを繰り返しているのだ。
さしあたりは。
彼はベッドから起きあがると、上着を取り、寝室の扉を開けた。居間にあたる部分には、掃除人の少女が、新しいご主人の一人のために、朝食とお茶用の丸テーブルのクロスを新しいものに換えているところだった。
「お出かけですか? 旦那様」
可愛らしい声が、顔を上げた少女の口からこぼれる。二つに分けた赤褐色の三つ編みが同時に揺れた。
「うん、食事に出てくる。遅くなるから、仕事が済んだらさっさと帰っていいよ」
「判りました。でも、姉達が『クラブ』で働いていますので、それが退けるまで、ここで待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
「お姉さん達が?」
「はい。この第二層の『クラブ』から、私達の住む第四層へ戻るには、手間が掛かりますので、私達は一緒の方が都合がよいのです。ご迷惑でしたら、外で待ちますが…」
「いや、いいよ。待っているといい」
言葉を投げて、扉を開けようとすると、ありがとうございます、と可愛らしい声が飛んだ。ふと彼は、聞き忘れていたことがあることを思い出した。
「君、それにお姉さんの名は何って言うの?」
「エルディです。姉の名はキャサリンとクローバア」
「ふうん、綺麗な名だね」
そして笑みを一つ投げると、案の定、少女の頬はばら色に変わった。
*
第二層、と彼が住居を与えられた階層は呼ばれている。
ペロンは、中心に向かって内部に層が作られた惑星である。表面に近い、宇宙港などある所から第十層第九層…と呼ばれ、中心、最奥部に第一層と呼ばれる、つまりは「エビータ」の鎮座まします場所があるという訳である。
奥に行けば行くだけ、入り込むのも容易ではない。そして脱走も容易ではない。
彼が入り込んだ職種は、あの掃除の少女の姉達と同じ『クラブ』におけるピアノ弾きだった。
ただ、その少女の姉達と違って、自分がここに住まわされる理由は、一つしかない。
「いつでも第一層に引きずり込まれるため」
ここは後宮なのだ。惑星に住む全ての人間が、いつでもそのために徴用されることがあり得る場所なのだ。ただその機会は、階層が上であればあるだけ、容易であるということでもある。
つまり、彼はピアノ弾きで徴用されている訳ではないことを知って応じた、ということになっている役割なのだ。
彼はそんな雰囲気から逃れるかのように、下階層行きのチューブに乗り込んでいた。そのためのパスは手にしていた。下階層の人間が上に出入りするのは容易なことではない。だがその逆はパス一枚をひらりと見せれば充分である。
彼はすぐ下の階層の、チューブを出てすぐ目についた繁華街にふらりと足を向けていた。派手な格好はしていない。無造作に切った髪、アースカラーのニットシャツに、飾り気のないパンツ。その上にやや長めのジャケットを羽織っただけだった。
ふらふらと見渡すと、そこにはやはり繁華街特有の雑多さと賑やかさと、そして食べ物の匂いが漂っていた。さて、と彼は思う。その混じり合った食物の匂いは、どれも彼を誘っていた。
のだが。
襟をいきなりむんずと掴まれたので、彼は思わず振り返った。
「…あ」
「また会ったねえ」
あの宇宙港でぶつかった青年が、白い作業衣を着て、立っていた。
「えー… と」
彼は忘れたふりをする。だがそれは相手には通じないみたいである。白い、半袖の作業衣、そして頭には白い帽子。
料理人だ。にっこりと笑うその青年は、掴んだ襟から、彼の首にぐい、と馴れ馴れしく腕を回してくる。
「忘れたの? でも一瞬だったからねー。でも俺ちゃんと覚えていたよ。忘れようが無いってば、あんたのような綺麗さんだったら。食事まだ?まだだったらうちでどぉ?」
勢いよくまくしたてる。
「しょ、食事?」
「ふふん。うちは中華料理屋なんだよん」
短い髪は、料理人の帽子の下にも、濃い色のバンダナを巻いている。
「俺、イェ・ホゥ。よろしく」
「…あ、サンド・リヨンといいます」
勢いに負けた、と彼は思う。
*
「あ、お出かけですか?」
昼頃目覚めると、エルディに呼ばれるのが半ば彼の日課になりつつあった。
「うん、食事してくる」
彼は答え、それでも彼女が用意するお茶には口をつけていた。この少女はなかなかハウスキーパーとして優秀だった。そしてなかなか可愛らしい。
とはいえ、彼にしてみれば、だからどうということがある訳ではなかった。この少女とて、何処かの組織の構成員であると考えた方がいい。
それを言ってしまえば、今日これから… いや、越してきた日に再会した中華料理屋の青年にしたって同様なのだ。いつから、何処から来た誰。それは口にした瞬間に、羽根の生えたかのようにふわふわと頼りなく何処かへ行ってしまう。重要なのは、目の前に居る相手そのものでしかない。
「いってらっしゃいませ。今日のお仕事もいつもの通りですか?」
「うん、その前までには帰る」
彼の「仕事」は既に始まっていた。少女の姉達も居るという「クラブ」におけるピアノ弾き。
「ピアニスト」などという品のいいものではない。そこにある楽譜の中で、要求されたものを何でも弾けることが必要な、そしてそのリクエストした客にウィットのある態度を向けることが必要な、とっさの判断とセンスが要求される場だった。
夜時間になると古風なネオンチューブがうねうねと輝きだす「クラブ」のプレイヤーは彼だけではなかった。ピアノ弾きは彼だけだったが、弦楽器も打楽器もそれなりの人数が居た。
時と場合により、そのプレイヤー達はその場に配属される。
ちょうど彼が居る時間には、弦楽器隊が三人、そして打楽器隊が一人居るだけだった。
静かな時間を受け持たされているので、その間、他の要員は食事や喫茶にいそしんでいるのだろう。
もしその中に何処かの構成員が居るなら、情報交換の時間としてもそれは妥当と言えた。
ちら、と彼は鍵盤に指を走らせている時に、その弦楽器隊の一人がなかなかいい音を鳴らしているのに気付いた。もしそれが組織の構成員だったとしても、その六弦の楽器をずいぶんと長いことやっているだろう、と思わせるような音だった。
そのプレーヤーと彼は話したことはない。ひどく無口なのだ。話すどころか、声すら聞いたことがない。
そのプレーヤーは、黒い… 自分よりずっとずっと長い髪を、どっさりと後ろで一つの三つ編みにしている。顔は多少女顔だった。目がひどくくっきりと大きく、そのラインが自然な陰影で強調されている。特徴ある美人の部類だが、体型から見たら、男だった。
あと二人の弦楽器隊は、一人はやや小柄だが野性味を残した青みのかかった髪を伸ばしっぱなしにしている、という印象の青年で、もう一人は背の高い、ブラウンの髪の、こさっぱりとした雰囲気の青年だった。
打楽器の青年は、これで大丈夫なのか、と思うくらいの小柄な身体を持っていたが、なかなかと元気がいいらしい。
その野性味のある青年は、空き時間に気さくな口調で彼に話しかけてくる。その話によると、彼らはどうも小楽団ごとこの惑星にスカウトされたらしい。
そこでその野性味のある青年の曰く。
「そらまあ、オリイやニイなら判るがなー、俺やジョーでどうするってんだっての」
ということは、この青年… シェ・スーと言った… は少なくとも、この惑星が後宮であることは知っているのだろう、と彼は思う。
もしも彼らが、何処かの構成員でないのだったら、このシェ・スーあたりはひどく困惑しているだろうな、と彼は何となくおかしくなった。
「はいスープ」
イェ・ホウはカウンターの彼に茶碗を差し出した。中には琥珀色のスープが、いくらかの浮き身と溶かし卵を散らして入っている。
第三層のその中華料理店はやはり昼時には混んでいると思われたので、彼はやや時間をずらして通っていた。
それはこの店で調理人その1をやっているイェ・ホウの勧めでもあった。最初にGをこの店に引きずり込んだ時は、夜の空き時間だったらしい。
あまり慌ただしい時間だと、なかなか調理自体が粗雑になりかねないから、とのことだった。
「そりゃあまあ、そんなことしないのがプロではあるんだけどさ」
イェ・ホウはチャーハンを大きくひっくり返しながら言った。既に彼の前には、その日の定食のメインである酢豚が置かれていた。
「でもやっぱり余裕がある時のほうが俺としては嬉しいねえ」
「何で」
「君の顔が見られるじゃない」
当たり前のように言うイェ・ホウに、何だかなあ、と彼は笑った。
会ったその日から、この若い料理人は、一目惚れなんだ、と繰り返し彼に言っていた。冗談でしょ、と彼が言うと、冗談じゃないって、と笑顔を見せる。屈託のない笑顔は、それが本物であるのか判らないが、なかなか彼を戸惑わせるものがあった。
「あんまりしつこいのは嫌われるよ」
奥からもう一人の調理人である、やや年かさの女性がくっくっく、と押さえた笑いを見せて、イェ・ホウの肩をぽんと叩いた。
軽い男だ、と彼はそのチャーハンを盛りつける手つきを見ながら思う。口も軽ければ、どうもその気も。最も手の身軽さは、賞賛に値したが。
実際腕は確かなようだった。何はともあれ、その店の料理が彼の口に合ったのは事実だった。結局Gがその店に通うようになったのは、それが原因だったのだ。
彼はあまり食事に頓着しないので、ある程度美味い店と思うと、面倒なので通い付けにしてしまえ、というクセがあった。それに、ある程度通い付けの店を作っておくと、そこから情報が系統だって受け取れるという利点は確かにあったのだ。
昼の定食を食べながら、ちょうど客の少ない時間帯、カウンター席に陣取った彼は、もう結構前からこの人工惑星の店で働いているというイェ・ホウから情報を収集し始めていた。
この店自体は決して大きくない。昼のピーク時に、七つあるテーブルの、それぞれに四つついた椅子と、カウンターの七席が埋まってしまう程度だった。だがそれは相席もあり、なおかつその空き時間が来るまで、ひっきりなしに客が来るという事態を考えると、やっぱりちゃんと流行っているということだろうな、と彼は考える。
「中華は、この惑星では人気あるの?」
「という訳じゃないでしょ。だいたいこの惑星自体、結構広いんだよ?」
「広いかなあ」
「そらまあ、本当のそのへんの惑星に比べれば、ずいぶん小さいけどさ、海とか無い分、人が住める部分はずいぶん多いね」
そう言えばそうだね、と彼はうなづき、れんげでスープを口に含む。皿の上の酢豚に箸を動かす。
「でも階層が上になるほど、狭くなるんじゃないかなあ」
「いんや。結局広さあたりの人数じゃない?」
「人数?」
「だってさ、結局第一層なんて、我らが女帝陛下、エビータとその時の愛人がたしかいないじゃない。使用人は殆どいないようなものだし」
「いないの?」
彼はふと眉を寄せた。
「…いや、それほど俺だって知ってる訳じゃないけどさ」
「こらホウ!無駄なこと言ってるんじゃないよっ!」
奥の女性がイェ・ホウに向かって声を飛ばした。
「いいじゃんユエメイ。そんなことくらい、言って減るもんじゃなし」
「あんたの口があんまり軽いと、後で変な噂立てられたりして、うちのひとが困るじゃないか」
「うちのひと?」
「ん? いや、この店の店主。あのひとは店主の奥さんなの」
ホウはそう言ってユエメイを指さす。
「奥さん」
「でも調理はこのひとの方が上手いんでさ、厨房はこのひとが担当で、店主はいつも外回りって訳」
はあ、と彼は答えた。そういう店の事情にはさほど彼が興味無かったのは言うまでもない。
さし当たり彼が知りたかったのは、ここの住人にとっての「エビータ」だった。
エビータ。
ある種の言語における、イヴ、もしくはエバという名の愛称。現在では、愛称であった過去を忘れ、それ自体が一つの名として成立している。
現在の帝国の共通語は、アングロサクソン系の一言語だが、それはかつて地球に人々が居た頃のものとはかなり異なっている。
近くにあったラテン系やゲルマン系、スラブ系の言語や、ロマンシュ系の言語と言ったもの、それに他のアジア系の言語と、とにかく当初の進出時に意気が盛んだった国々の言語が、単語といい文法といい、混じり合ってしまっていることは間違いない。
無論その中で、消え去っていった言語もあるのだ。
まあそのことはここでは問題にはしまい。それはまた別の話なのだ。
さてそのとある種の言語を使っていた国で、その女性の名は、とある歴史の一時期、まるで「女帝」のように使われた。それが、この名前の、現在の裏意味となる訳である。
Gはそのあたりまでは知っていた。つまり、エビータという名は、そもそもこのペロン財団の最初の女帝陛下がそうだった訳ではなく、最初の女帝陛下はその名を自分に課したのだ、ということなのだ。
そしてそれは、彼女の死後、一種の称号となる。何故か女性名だったそれは、男性が後継者となった時にでも同じなのだ。だが一世二世と続けることはない。エビータは常に一人なのだ。
「もう今のエビータって長いのかなあ」
彼は何気なく口に出してみる。ホウは首をひねる。
「どうかなあ… 俺が越してきた時から別段変わったことはないけど。ねえ」
「そうだよねえ… そりゃあまあ、私が若い頃には一度代替わりがあったけどさ」
「あったんですか?」
彼は身を乗り出してみせる。
ユエメイはその彼の視線に軽く肩をすくめた。そして食事の終わった彼の皿を片づけると、その代わりに、真っ白なティーポットと湯呑みを置き、一杯注いだ。花の香りが混じった香ばしい香りが漂った。
「ま、あったとこで、別段私らにどうってことはないんだがね」
見たところ、ユエメイは四十代か、それより少し上、というところである。
調理人であるせいか、化粧気はない。まくった袖から見える浅黒い皮膚は、既に張りもつやも無い。だが、それは決して彼の目には醜悪には見えなかった。むしろそのたくましい、筋肉と、油の飛沫で所々火傷の跡があるその腕は、賞賛に値するものだ、と彼は思った。
傷は、残るものだ。残って、その存在から、警告と次への道筋を教えるものなのだ。
したことが全てスイッチ一つで消えるヴァーチャル・ゲームのようものだったら、どんなに楽だろう?
だが彼はその楽さをよしとしない。
ふと自分の、むき出しにした手首を見る。
傷一つなく綺麗なそれは、自分自身の正体を時々思い知らせるのだ。傷はついた。だがそれは自分の身体には残らない。それが致命傷であろうが、そう簡単に自分は死なない。傷跡は、いつか消える。残る程のことは、まずない。
「どうしたの?」
青年が訊ねたので、Gははっとして顔を上げた。
「いや、別に…」
「ふーん。考え事している顔もいいけど」
呆れた、というようにユエメイは両手を上げた。
「で、その前のエビータってのはどういう方だったんですか?」
「見たかってこと?」
「や、見てなくてもいいです。現在の方のことだったら、他の人にも聞き易いんですが、前の方だと…」
「年の功ってかい」
げらげら、と彼女は笑った。そしてたくましい腕を胸の前で組む。
「前の方は、女性だったね。決して美人ではなかったけれど、実に有能な方だったよ。だからこの惑星内も実に意気揚々だったのに、騒動らしい騒動も起こっていなかった」
「やはりそれでも第一層に呼ばれるひとは居たのでしょう?」
「そらねえ」
当然というように、彼女はうなづく。
「ここはそのための惑星なんだからさ。それは当然だろう。あれだけのことをしているひとだったんだから、気に入ったひとはそれだけのことをしなくちゃあならないよ」
なるほど、と彼は思った。そういう感覚か。
「あたし達は、エビータのおかげで、ここに住まいを店を構えて、食っていけるんだ。外でどんだけ大きなことをしているのかはよく判らないけど、とにかくあの方のおかげで、死なずに生きてる。それだけは忘れちゃならないんだよ?判ってるかい? イェ・ホウ」
「判ってますよーっ」
へらへら、とホウは笑った。
「…けどユエメイ、確かに最近、あまり『お召し』はないらしいねえ」
「…ああ、そう言えばそうだねえ」
「『お召し』?」
「知らない?」
ホウは訊ねる。彼は首を横に振った。何の意味だか、無論彼が判らない訳がない。
「それは不意打ちのようなものだけどさ」
イェ・ホウは説明を始める。無論彼は知っているのだ。
「ある日いきなり、第一層の管理人からの呼び出しが来るんだ。第一層に住むように、と。まあだいたい、君らの住む第二層の人間がそう呼ばれることが多いね」
「そうなの?」
彼は素知らぬ顔で問い返す。
「知らなかったの?」
「全く、じゃないけど…」
彼は曖昧に答える。ふふん、とホウはカウンターの方へとぐっと身を乗り出す。
「拒否権はない。そしてその夜は、エビータのお相手をする。無論夜のね。それで気に入られたら、そのまましばらくその第一層に住まわされる」
「…気に入られなかったら?」
「それで終わり」
彼は思わず眉をひそめていた。
「終わり、って?」
「だから、終わり、だよ」
ホウは首の前で手をすっと動かす。
「殺されるんだ」
それは初耳だった。