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第5話 堂々巡りの思考(しかもとても長い時間)

「…あれこのあたりに何か線が」


 不意にイェ・ホウが額に指を当てたので、彼ははっとして顔を上げた。


「はい饅頭」

「…あ、ごめん」

「何謝ってんの」

「…いや、ちょっと嫌なことがあったから、何か今、あんたに当たってたかなあ俺?」


 いいや、とホウは首を横に振った。


「別にそんなこたないけどさ。けどこんなとこに線ができるほど眉をしかめてると、せっかくの綺麗な顔がだいなし」

「よしてよ」


 Gは苦笑を浮かべ、また触れようとしたホウの手をさりげなく払った。


「俺はさ、別にこうゆう顔で生まれたくて生まれた訳じゃないんだよ?」

「でも持ってしまったものは仕方ないでしょ」

「それはそうなんだけどさ」


 もう遅い、閉店近い店の中には、やはり人は少なかった。

 注文は既に終了している。調理人のイェ・ホウがこれ以上客に呼ばれることはない。カウンターを独り占めするような形で、彼は食事代わりの点心を何種類かつまんでいた。

 堂々巡りの考えが、どうもここに来てから、無理矢理掘り起こされたように思えて仕方がない。

 別に墓の中に埋めて、二度と蘇らないようにしていた訳ではないから、最初の疑問が解けない限り、時々起きあがる問いではあるのだ。

 理屈では判っているのだ。これは「良い答え」なんて、決してある訳ではないことを。

 最初に跳んで、墜ちたあの惑星で、ひたすら生きようとしていたあの姉弟。何をしてでも、とにかく自分のできることを。

 あの姿が、あるべきものなんだ、ということは彼は感じていた。生まれてきたこと、生まれた姿に疑問を持つ暇があったらまず動け、生き残れ、と。

 それは彼もよく知っているのだ。

 だが頭が知っているのと、身体が「判る」のとは違う。

 おそらく、どれだけ考えたところで、その瞬間が来ない限り、自分は決して、どれだけ人に言われようが、自分の頭が理屈ではじき出そうが、納得することはないのだ。


「…あんたさあ」


 そしてつい口がすべる。


「何で俺がいいの?」

「何でって」


 イェ・ホウは何でかなあ、と首をくるりと回す。


「だって、そういうことには理屈ってないんじゃない?」

「だって俺は俺のことは好きじゃないもの」

「まあそれでもいいけどさ」


 最後の客が、ユエメイに勘定を払って行く。扉が開く。

 閉じると同時に、彼はふっと自分のあごに手がかかるのを感じた。


   *


 そう言えば、と彼は無意識のうちに考えを巡らせている自分に気付く。


 似ているんだ、この男は。


 目を軽く伏せて、指を相手のその顔のラインに這わせる。でも。

 無論顔かたちがどうとか、声がどうとか、そういうことではないのだ。あの旧友のような声が他に居る訳がない。この自分の上に居る男は、そんな声は、持っていない。

 それでも、自分はこうやって、いつの間にかこの男の腕の中に居るのだ。

 何故、こうしているのだろう、と彼は途切れることのない刺激の中で、とりとめもなくなってくる思考の一部分で考え続けている。

 無論答えを出そうとして考えている訳ではない。ただ、どうしても今は、考えずにはいられないのだ。

 何もかも忘れたくてそうする、あの旧友の時とは違って、自分は、そうしながら、何かを考えたいだけなのかもしれない。


 でもそれだけじゃない。


 疑問はまた前に戻る。


 何処かが似ている。何が似ているんだろう?


 そう言えば、と頬をはさまれ幾度もその上を唇の乾いた感触が行き過ぎるのを覚えながら、再びその言葉が彼の頭を巡る。


 自分はこの男に、どう呼びかけていただろう。


 あんたは、と俺は最初からこの男に呼びかけてなかったか?

 他人に対する呼びかけ方というのは、その相手をどう自分が見ているか、を時々実に素直に反映する。

 「あなた」でも「お前」でも「君」でもなく「あんた」。

 それは旧友に対するそれと同じだった。目上の、それでもややくだけた相手に対する呼びかけのための。


 ああそうなんだ。確かに似てる。


 彼は相手の背に手を回す。その回した時の感覚は違う。背の広さも、そこについた筋肉の感触も、何もかも違うのだ。なのに、その態度だけは妙に似ていた。そして、妙に憎めない。

 あの会った最初の時から自分に対してずうずうしい程の積極さで近づいてきたところも、それをすぐに行動に現すところも。

 彼は知っていた。それは結局、自分がされたいことなのだ。

 認めたくはない。だが彼は知っていた。それは自分がそうされたいことなのだ。

 そう言えば、と三たび彼は思う。

 俺は自分から、誰かにそうしたいと思ったことがあっただろうか?

 そうされたい、と思ったことはある。認めたくはないが、ある。認めたくはない。だってそれでは女のようではないか。誰かが来るのをただ待っているだけの。

 違うのか、と彼の中で何かがつぶやく。違わない、と彼はそれに答える。

 違わないんだ。

 ふと相手の動きが止まったので、彼はゆっくりと目を開けた。


「…どうしたの」


 至近距離の相手の顔は、不安気に自分を見ている。


「いや、何かひどく辛そうな顔していたから」

「別にそんなことはないさ」


 そう言って、自分から相手の首に手を回す。ふと手が、微かな違和感に気付いた。


「…これ」

「あ? ちょっとした勲章」


 肩のあたりから、斜めに背中と胸に向かって、深い傷を縫った痕があった。


「何、今頃気付いた?」

「俺鈍感だからね」


 全くだ、と彼は思う。これでまた、この男が何処かの工作員である確率が上がった。

 尤も、そんなことはどうだっていいのだ。別段この男が格別好きであるのかどうかも、彼にはさっぱり判っていないのだ。

 そもそも、本当に好きな相手と、自分がそんなことをしたことがあるのだろうか。自分を好きな、相手ではない。自分が好きな、相手だ。

 あの旧友は好きだった。だけど、それは何かが違う。好かれていることが嬉しかった。楽しかった。不安を忘れられた。それだけだ。

 現在の盟友は、あの連絡員も好きだ。肌を重ねて、それは心地よい。ただもう感覚的に、快楽だけを純粋に追求する。だけどそれはそういう感情ではない。むしろきょうだいのような、そんな穏やかで、奇妙な愛着というものに近い。

 一度だけ、あったかもしれない、と彼は再び流されつつある感覚の流れの中で思う。

 それはひどく冷たいものだった。触れた肌も、唇も、そしてその思考の流れも、全てが冷たかった。だけど、それが、ひどく心地よかった。それは、覚えている。

 司令、とその時自分は相手を呼んだ。その時まだ、その相手をどう思っているのかすら知らなかった。あったのは、畏怖だ。恐怖とも言える。

 同族の、一番上の世代。血が、無意識にそれに対して畏れるのだ。



「…ごめん」


 ふとそんな言葉が滑り出した。身体が重い、と彼は思った。夜が過ぎて、時計は朝時間に程近い。相手は腕を立てて、彼の顔をのぞき込んだ。


「何? 謝るようなこと、君したの?」

「あんたを誘っていた」

「そんなの」


 くしゃ、と短くなった髪の毛に、相手は指を差し込む。

 髪を切ったのは、無論、煩くなったからではない。

 まるで女みたいだ、と彼は思う。あの髪が長いうちは、あの旧友に対する感情が思い切れない。そんな気がしたから、短くした。もう手に巻き付けることはできない。

 ふっと、あの六弦弾きの姿が目の裏に浮かぶ。あのくらい長ければ、あの長い指は、さぞ楽しそうにそれを絡みつけるだろう。

 今横に居る相手は、どちらかというと、不器用に自分の髪を引っかき回す。きっとこのまま目覚めたら、ひどい寝癖がつくだろうな、と彼は思う。


「俺は誘われたかったんだから、そういう奴は誘っておけばいいの。役得さ。結構、そういうとこを狙ってたのかもしれないぜ?」


 ふふ、と彼はそんな軽口に笑みを向ける。すると相手はやや目を伏せて、声を低めた。


「それとも、何か他に意味あり?」

「別に… でも、落ち込んでは、いたから」

「それで、落ち込みは治った?」

「あんまり」


 やれやれ、と相手は笑って、柔らかい枕に半ば埋まったような彼の顔を動かした。


「何があったんだか、知らないけどさ。綺麗な顔は綺麗なままで居てほしいと俺は思うね」

「綺麗だと思う訳?」

「そりゃあそうさ。そう思ったことはない?」

「言われることはあるよ。それは知ってる。だから客観的に見て、そうなのかもしれないとは思うさ。でも俺は別に自分については、そう思ったことはない」

「そういうもんかね」

「そういうもんだよ。たまたまこの姿は、もって生まれてしまっただけなのに、そればかりを取り沙汰されるってのは…時々疲れる」

「でもそれが君だぜ?」


 イェ・ホウは変わらない軽さでそう言った。


「どんな姿を持っていようが、どんな才能を持っていようが、それが君であって、他の誰でもないんだぜ?」

「それは判ってるさ」


 ふふん、と相手は彼の言葉に対して、そんな笑いを返した。


「判ってないね」  

「判ってない?」


 彼は腕をゆっくりと立てる。

 少しばかり反り返った背中の上を、ブランケットがずり落ちる。顔がようやく見える程度の灯りが、その背中をむき出しにした。


「その綺麗な顔と姿と… どんな才能を持ってるかは知らないけどさ、持って生まれて、それで起こってきたことが、君の今までを作ってきたんだろ?」


 彼は眉を軽く寄せる。それはそうだ。


「パズルのピースってのはさ、一見ばらばらなように見えても、実はちゃんとあるべきところにはまるようになってるんだぜ?」

「でもそれは理屈だよ」

「理屈かなあ。でもものは考えようって言うだろ?」

「…」


 前向きだ、と彼は苦笑しながら思う。


「ホウは前向きだよね。いいよね。羨ましい。俺なんて埒もないことを堂々巡りばかりしてる」


 くしゃ、とまた相手の手が髪をかき回す。こういうのは嫌いじゃない。

 たぶんその前の熱を持った行為よりも。


「判ってはいるんだけどさ。あんたの言ってることはたぶん正しい。いや正しいと思う。正しいんだよ。だけど、何かが、俺の中で納得しなくて、いつも同じとこで立ち止まって、同じ問いを繰り返してるんだ」


 うん、と曖昧にホウはうなづく。


「俺もそれは判ってる。だけど、何に対して納得していないのか、それがいつも曖昧で、それをどうすることもできない。それが何か、俺をいつも立ち止まらせてるような気がするんだ」

「それは、何か、納得していないものがあるのかい?具体的に」

「…あると言えば、ある。居ると言えば、居る」

「居る。人?誰か、かい?」

「誰か… そう、誰か、かもしれない」


 その人物の姿が、彼の脳裏に浮かぶ。


「俺はその相手に対して、いつも一つの問いを用意しているんだ。だけど、それを言う機会が無い。…いや機会はあるのかもしれない。きっとあるんだよ。だけど俺はそれがどうしてもできないんだ。機会はある。作ればあるんだよ。だけど、その機会を俺は作ろうとしていないんだ… 何故だろう?」


 彼は再び立てていた肘を寝かせてしまう。自問自答の闇が、また自分を襲いつつあるのだ。

 だがここには、自分一人では無かったことを、すぐに彼は思い出させられるのだ。


「怖い? その誰かに、問いただすのが」


 彼は微かにうなづく。


「そうかもしれない。俺は怖いのかもしれない」

「何で?」

「何故だろう…」

「そのひとが、好き?」


 彼は思わず目を大きく開いていた。投げ出していた手が、ぐ、と枕の布地を強く掴む。


「…判らない…」

「好きじゃない?」

「…判らない…」

「大切?」

「大切… だとは思う。だって、俺はそのひとのために、全部捨てたんだ。今まで生きてきた場所も、友人も、俺を好きだったひとも全部…その時、それでいいと、思ったんだ」

「うん」


 相手の手が伸びる。彼は身体が起こされるのを感じる。


「大切だと、思っていた。それでいいと、思ってたんだ…」

「うん」

「だけど」


 相手の手が、そのまま背中に回り、自分を抱きしめるのが判る。別にそれ以上何をするという訳ではない。ただ、その大きな手は、所々が飛んだ油で火傷のあとのあるような、その手は、自分の背を強く、抱きしめている。それが彼には判った。


「俺は…」


 自分の話している言葉が、既に過去形であることに、彼は気付いていた。

 長い間、自分が迷っていることに、彼もずっと、気付いていたのだ。

 迷っていたからこそ、この、今居る時間に近づいた時、あの組織に接触することを決めた時、自分の記憶を封印したのだ。

 その迷いを、気付かれてはいけない、と彼はその時強く思ったのだ。

 長い長い、時間の中を跳んでくるたびに、彼は誰かの目がそこにあることに気付いていた。

 自分の行動は、あのひとに、ずっと見張られている。

 それは当然だ、と彼も思わなくもない。あのひとは、未来の記憶を持っていたのだから。

 盟主が「司令」だった頃。まだ自分が自分の持つ特性も知らなかった頃、その未来の記憶の中に、自分を見付けた。

 居たからこそ、彼はその時、そこに自分の役割を見付けたと思った。その役割のもとに、生きていてもいいのだ、と思ったのだ。

 だが彼は結局、その役割の、本当の意味を知らなかった。知らなかったから、彼はその時、その役割を自分から受け入れた。正しいと思ったのだ。


 だが。


 跳んできた時間の中、彼は、自分が跳び、過ぎて後、そこがことごとく破壊されていることに気付いた。

 最初はあの惑星だった。ハンオク星域の惑星オクラナ。戦旗製作で知られた惑星。今ではそれは遠い昔の手工技術だ。

 それを初めとして、自分の跳んだ場所で、必ず騒乱は起きた。

 その騒乱に乗じて、天使種は覇権を握った。その後の天使種の中でも起きた権力闘争や、粛正の嵐の中でも、同じことが起きていた。

 物事は、確かにあの当時の司令が見ていた未来の記憶通りになっている。正しく、歴史はその通りに動いているのだ。

 そして、自分は、あの盟主が物事を起こす時のきっかけなのだ、と現在の彼は既に知っている。そう使われている、駒なのだ、と。

 どんなに自分で自由に動いているつもりでも、結局は抜け出せない、網の中でもがいているだけなのだ、と彼は知っている。

 自分で選んだことだった。後悔をしないつもりだった。だがその選んだこと自体に、彼は疑問を持ってしまった。

 どうにもならない。蜘蛛の巣の上。袋小路だった。


 どうにもならない?


 自問自答の日々。


 だが。


 ある時彼は、あの流し込まれた未来の記憶をひっくり返してみた。

 それは、ある時点より先が無かった。

 それは、見事なまでに、ある時点より先には、何も無かったのだ。

 彼はその時点を待った。

 無論ただじっと待っていた訳ではない。やはり彼の身には、その都度危機がおとずれ、そのたび、時間を越えて、前へ前へと跳んできたのだ。その時が来るのを、ずっと、彼は待っていたのだ。

 そしてその時が来た時、彼は自分自身に暗示をかけた。伊達に長い時間を渡ってきた訳ではない。自分自身にその程度のことをすることは覚えてきた。

 絶対に、彼という「駒」が居る筈のない、その元々の種族のたむろす「血族」の社会の中に、彼は自分自身と周囲に暗示をかけて、入り込んだのだ。

 もうその先どうなるのかは、彼自身さっぱり判らなかった。暗示をかけて、忘れている自分自身に期待していた、とも言える。

 結局、忘れていた中で動いていたことで、気付いたことが、幾つかあった。

 それでもあの盟主は、自分に伝えていない何かを持っているということ。

 そして、自分がひどく、未練がましい人間だ、ということ。


「…嫌になる」


 彼は抱きしめる相手の、傷跡の残る肩に頭を乗せると、低い声でつぶやいた。何が、と相手もまた低く訊ねる。

 腕をだらん、と下ろしたまま、彼は目を軽く伏せて、それに答えた。


「堂々巡りだ。繰り返しだ。どれだけ長い時間かけても、俺は何も変わらない」

「それはそうだよ」


 相手の声が、すぐそばで聞こえる。


「変わろうと思わなくては、変わりはしない」

「変わろうと思ったよ」


 襟足を、相手の髪の毛がくすぐる。黙って、首を横に振る気配。


「本当に変わる時には、何もそんなこと、考えやしないんだ」

「矛盾してるよ」

「そうじゃなくて」


 相手はゆっくりと腕の力をゆるめ、彼の顔を下からのぞき込む。


「頭が考えるんじゃない。そういう時は、身体が、よく知ってるんだ」

「何か、よく知っていそうな口振りだね」


 ホウは黙って首を傾けた。


「そんなことが、イェ・ホウ、あんたにはあったの?」

「あった」


 イェ・ホウは短く答えた。どんな、と彼はやはり短く問い返した。


「昔、ほんのガキの頃かな。ちょっとした間違いをしでかして、俺は仲間達と、どうしようもない状態に追い込まれたことがあった。だけどその時、助けてくれたひとがそう言ったんだ」

「助けてくれたひとが」

「綺麗なひとだったよ。とっても。でも厳しいひとだったね。手詰まりで、どうしようもなくて、ただもう自分を責めるばかりで迷っていたら、綺麗な目でじっと見て、まず何をしたいのか、と俺を問いつめたよ」


 ひどく相手の口調が懐かしげに、優しげになる。これが芝居だとしたら、目の前の相手は、かなりの役者だ、と彼は思う。


「俺がどうであるかとか、失敗したらどうだろう、ということはとにかく今だけは、放って置けばいい、って言ったね」


 そして何を考えているのか、それまで背を抱きしめていた指が、そのまま、彼の乱れた髪をかき上げた。


「綺麗な目のひとだったよ」


 言われているのは、他人のことだ。なのに彼はその言葉に、一瞬目を細めた。


「そんなこと考えてる間に、事態は悪くなっていくんだから、今は自分自身のことは放って置け、と言われた。それで後で責められようが、それそ全て済んでから考えればいいんだ、って」


 その論法。彼はあの長い髪の盟友の姿を思い出す。やっぱり、あの盟友は、昔、こんな風に自分に熱心に言ったのだ。


「とにかく目の前にある問題を片づけるにはどうすればいいんだ、ってそのひとは俺を一つ一つ問いつめた。…俺にとってはさ、そのひとはいつも優しくて、穏やかなひとだったから、…そのひとがそんな風に怒ったのは初めて見たから、もう必死。問われるままに、俺は自分の頭を一生懸命使ったね。あんなに考えたのは初めてだったよ」


 何となく、彼にはその図が予想できるような気がした。


「全て答え終わった時、そのひとは、俺の背を抱きしめて、言ったよ。自分の力を少しでも分けてやれればいいけど、それはできないから、って。ごめん、って」


 何か、少しばかり胸が痛むのを彼は感じた。イェ・ホウは口の端をきゅ、と上げた。


「でもそれで充分だったね。そのひとはそれからすぐにいなくなってしまったけど、俺は忘れなかった」

「そのひとを好きだった?」


 さっき自分がされた問いを、彼は今度、相手に投げかける。うん、とホウは大きくうなづいた。


「俺は、好きだったよ。そのひとがどう思っていたかなんて、さっぱり判らないけど、とにかく、俺は好きだった」

「それで、いいの?」

「だって俺は知っていたからね。そのひとはずっとここに居る訳にはいかないんだって。それでも好きになってしまったんだから、仕方ないだろ?」

「でも」

「俺にできるのは、好きになることだけだったし、それで見返りが欲しい訳じゃなかったんだ。ただ、好きでいたかったんだ。そのひとを」


 ふうん、と彼はうなづく。


「そういうふうに、好かれる奴ってのは、幸せだろうね」

「さてどうかな。俺は、絶対にまた会ったら、絶対に見付けられるって思ったけど」

「自信あるんだ?」

「自信はあるよ?そのくらい、そのひとは俺にとっては重要だった。そのひとにとっちゃはた迷惑かもしれないけどね」


 くっ、と彼は肩を微かに上げて笑う。何がおかしいの、と相手はまた彼をシーツの上に転がす。


「何となく、妬けるね」


 だがその彼の感想には、相手はふふん、と笑って答えなかった。

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