がらん、と大きく扉の鈴が音を立てた。
「もう今日はしまいだよ…」
やや赤みのかかった電灯のついた扉の方へと顔を向けながら、イェ・ホウはそう言いかけた。扉の外にはもう注文は終わり、の看板がかかっているはずだ。それはこういった店によくある、祖先の言葉の文字を使って、やや装飾的に書かれている。もうそういう時間なのだ。店に居るのは、もう食事を半ば以上終えた人々ばかりだ。
だが彼は言いかけて、言葉を止めた。
「サンド…?」
ホウは彼の偽名を呼んだ。いつもとは違い、その表情はひどく動揺していた。肩が上下し、白い顔に、脂汗がだらだらと流れていた。イェ・ホウは慌ててカウンターの中から飛び出すと、彼の両肩を掴んで揺さぶった。
「どうしたんだよ!」
「…何でもない…」
「何でもないって顔かいそれがっ!」
もしもそうだとしたら、不覚だ、と彼は思う。だが自分が動揺していることは、彼自身一番よく知っていた。Gはホウの手を、それでもまだぐっしょりと汗をかいたままの指先で避けた。
「お茶くれる? イェ・ホウ」
「…お茶… あ? ああ」
何ごとか、と食器を洗っていたユエメイも顔を出す。そしてお茶だね、と言って再び厨房へと引っ込んだ。Gはホウから離れて、いつものようにカウンターの席へと座った。
「…いきなりごめん」
「いや俺はいいけど。…だけど君、サンド、ひどい顔してる。綺麗な顔が台無しだ」
彼の前に、土瓶と湯呑みが置かれる。彼は茶を半分だけ注ぐと、近くの注水器でそれを半分薄め、一気に飲み干した。そしてはあ、と息を吐き出す。
「何か、幽霊でも見たような顔だったよ」
「幽霊… うん、似たようなものかな」
げ、とホウは肩をすくめた。
幽霊ではない。だがそれに近いものを、彼は確かに見たのだ。少なくとも、自分の目が間違ってなければ。
*
いつものように、この店に食事に来ようとしていたのだ。おそらくは、もうじき来れなくなる。だから、その前に。これは他愛ない感傷だ、と彼も思っていた。
水曜日の舞台で彼が友人としたことは、確かに少女を助けたいという気持ちが全く無かった訳ではないが、目的はデモンストレーションだった。
何にしろ、自分の目的は、第一層に入り込み、エビータに会わなくてはならないのだ。
だが、ここに入ってからさりげなく収集する情報、そして自分の足で歩いてみて、「目をつけられ」ない限り、入り込むのは厄介だ、という結果を導き出した。少なくとも、自分のピアノ弾きという立場からしたら、そうなる。他の職業を表向き持っていれば、それなりの方法があるのかもしれない。例えばあのハウスキーパーのように。踊り子のように。第二層までなら、おそらくそれは比較的抜け道はあるのだ。
ところが、その上となると。
…さて前の週のショウの後、彼は苛立ちと、不快感を胸に抱えたまま、舞台に上げられた少年と少女が何処に運ばれるのか、さりげなく後をつけてみた。
すると、何故か、少年と少女は別々の車に乗せられ、送られていった。二台の車は、途中で道を分けた。一台は、そのまま、おそらくは少女の住処があるだろう第二層の中の地区へ。そして少年を乗せた一台は…層境のチューブの方へと向かったのだ。
第一層へ送り込まれたのだ、と考えるのは単純かもしれない。だが、考えられないことではないのだ。
あの小楽団の四弦弾きのシェ・スーあたりに、何げなく彼はこの事について聞いてみたことがある。青い髪の彼は、こういうショウを、あの小楽団の中では一番嫌いそうだったからだ。
「そうだなあ。だいたい男の子と女の子、どっちもいるんだ。連れてこられる」
「連れて」
「ただやっぱり綺麗な子が多いね。だけど綺麗な少年少女、っていうと、さすがにこの惑星じゃ少ないだろ? それであちこちの層で、金と引き替えに連れてこられることが多いらしいよ」
「何だって少年少女なんだろう?」
彼が聞くと、シェ・スーは大げさな程に顔を歪めた。
「それは決まってる」
「何」
「世の中には悪趣味が多いってことだ。…俺の知ってる奴ももの凄い悪趣味が居るがねー」
へえ、とその時は曖昧に目を丸くしてみせただけに終わった。シェ・スーもそれ以上付け足そうとしなかった。
「でもその悪趣味っていうのは、単にガキをどうこうするのを見るのが好きってだけなの?」
「いんや」
手をひらひらと振る。
「これはあくまで最近の流行り、らしいよ」
「流行り」
「俺達が入ってくるちょっと前までは、ぼよんぼよんしたねーちゃん達ばかりを一度に五~六人上がらせて共食いさせるってのが流行ったらしいし、その前はあんたみたいに綺麗な野郎ばっか、てのもあったらしい」
ふうん、と彼はその時はうなづいた。つまりはブームという奴があるのか、と納得した。
ピアノ弾きで居るだけでは、せいぜいがところ、カードで誘われる程度である。エビータの気を惹くには、多少の無茶をした方が良さそうなことは、彼も気付いていた。あとはタイミングである。
そしてそのタイミングを合わせたようにやってきた盟友は、ショウの後、泊まっていった自分の部屋で、こう言った。
「お前変わったね」
何が、と彼は訊ねた。さんざん、舞台の上で絡んだ後だったので、部屋に戻ってまで何かしらしようという気は起きなかった。身体も疲れていたし、一緒のベッドに潜り込んだとしても、それだけだった。
そしてそのベッドの中で、寝ころんだまま、見えるか見えないか程度の灯りの中で、連絡員は、口だけを動かした。音声は立てない。
何が、と彼は訊ねた。
「気持ちよさそうだったじゃない」
ああ、と彼はうなづいた。
それなりに彼は彼でその舞台の上で楽しんでいたのは事実だ。この意外と曲者の連絡員が上手かったというのも確かにあるが、奇妙に、衆人環視の中で演じる濡れ場という奴につきまとう、集中した視線にさらされている、さらし者になっているという感覚は、彼に自虐的な快感を覚えさせたのだ。
無論それに味をしめる訳ではないが、自分にそういう面があったことを思い出したのは事実だった。
「俺はさ、お前はこういうことは好きじゃあないと思ってた」
「何で?」
「だってお前、俺と再会した頃は、全然熱くならなかったじゃない。この間までそうだったじゃない。それなのに何よ」
それなのに何よ、と言われても。
実際、自分でも判らないのだ。
「そんなに俺、熱くなっていた?」
「…んじゃないの?」
「かもしれない」
「自分のことなのに、何だよ」
そう言って、スイッチを切ったように、連絡員は寝入ってしまった。そして彼は残される。
俺は、変わったんだろうか?
盟友は、その晩は泊まったが、次の日にはもう自分の仕事へと戻って行った。彼は木曜日を、一人で過ごした。
ハウスキーパーのエルディは来なかった。キャサリンは居たが、ひどく不機嫌な表情に、彼はやや自分から近づこうという気を無くした。クローバアの姿は無かった。
「…んでもびっくりしたあ」
小楽団の小柄な打楽器奏者のニイは、ばんばん、と彼の背中をはたいた。
「びっくりしたよ俺。でも聞いたよ。知り合いの女の子の代わりだったって?」
「…まあね」
「身代わりなんだって? …凄いなあ。俺絶対できない」
「しなくたっていいよ、あんなことは」
彼は苦笑を返す。だがその単純な明るさは何となく嬉しいものがあった。
だが。
「…けど」
その時、聞き覚えの無い声が、彼の耳に飛び込んできた。声の方には、オリイが居た。長い髪のせいか、その表情は見えない。
「気をつけた方が、いい」
それはひどくたどたどしい言葉に感じた。あれ、とそれを聞いたニイは目を丸くする。
「珍しいね、オリイが人に話しかけるのなんて」
「俺なんか、半年ぶりに聞いたぜっ!」
ジョーは腰に両手を当ててあきれ果てた顔で言った。するとオリイは顔を上げた。長い前髪が、ざらりと揺れた。ややその動きに不自然なものを感じたが、彼はその時は気がつかなかった。
そしていつものように、退けた後、第三層へと向かった。もうあまり時間が無い、と思うと、妙に彼はあの調理人に会いたい、と思ったのだ。
それは単純な感覚だった。確かにあの旧友と似た所はあるんだが、それだけでなく、何かイェ・ホウには、また会いたいと思わせる何かがあったのだ。
それが何だろう、と彼は道々考えてみる。
惹かれている、というのはたぶん間違いないとは思う。だがそれは、強烈な気持ちではない。少なくとも、自分があの盟主に感じる…感じずにはいられない、あの気持ちとは別のものだ。
だが、あの旧友とも違う。好かれるのは楽しい。心地よい。だがそれだけだった旧友とは。それ以上になることを無意識にお互いに拒んでいただろう、あの声を持つ男とは、また別のものが、感じられるのだ。
何だろう、と彼は思う。考えて答えの出るものではないとしたら、身体が知っているのだろうか。
盟友は言った。お前変わったよ。
俺は変わったのだろうか。
何となく、そのまま中華料理店へ行くより、彼は歩いていたかった。賑やかな街をふらふら、と彼の足はさまよっていた。この街は、特有のにおいがする。濃い、それは、何処か懐かしさを感じさせるものだ。決してそれが自分の育ってきた文化圏には無いというのに、彼にとって、そのざわめきは、懐かしいものに感じられた。
幾つかの角を曲がり、幾つかの小径を入った。
その時だった。
彼は、自分の目を疑った。
足が、地面に縫いつけられたように、動かない。逆に、手が、指が、宙に何かを掴もうと、自分の意志に反したように動く。
相手は、綺麗な目をしていた。
見覚えのある目だ。だがこの顔を直接見たことは、一度もない。それはそうだ、と彼は思う。
自分の顔を正面で見たことなんて、誰も無いのだから。
相手の綺麗な目は、自分を見て、大きく見開かれていた。髪は自分より少しだけ長かったような気がする。白いシャツを着て、黒い細身のズボンを履いていた。
そして、彼は逃げたのだ。それも、ひどく無様にも、背中を向け、体勢を崩しながら、段差やちょっとした道路のくぼみにつまづきそうになりながら。
罠かもしれない、ということは頭からすっかり消えていた。とにかく、自分の姿が正面に居る、という事態を信じたくなかった。何故なら、それが自分であるということだけは、彼はどうしようもなく、納得できたのだ。自分であるからこそ、自分の姿が、本物であると。
*
て気がついたら、この店の前に来ていた。
何杯かの茶を口にして、ようやく人心地ついたような気になる。思考も冷静さを取り戻してくる。
…あれが、俺ではなかった場合。
そうではない、と自分の中の何かが叫んでいる。あれは本物だお前だ、と叫んでいる。だがとりあえずはその叫びは押さえ込み、冷静に頭を働かせる。実際その可能性はあるのだ。彼という存在を、各組織の上層部は知っていてもおかしくはない。あの水曜日の舞台に出た効果が、妙な形で出た可能性はあるのだ。
自分の中では、それは違うと確かに叫んでいるのだが。
…そして、俺だった場合。
彼の中では、それは既に決定事項だった。他の者だったらともかく、自分に関しては、その可能性はあるのだ。ドッペルゲンガーではない。確かにその時の恐怖は、ドッペルゲンガーを見た時の感覚とも言えるかもしれない。見えたら、死が近いのだと。
だが違う。自分に関しては、その後の寿命が長かろうと短かろうと、その可能性があるのだ。
髪は長かった。だが、少し前までの自分ほどではない。
としたら。
あれは、未来の俺だ。
時間を飛び越えることのできる自分だから、それはあってもおかしくはないことだ、彼は気付いていた。
だとしたら。
短い髪に指を差し入れ、彼は思う。
俺は、また時間を飛び越える予定があるというのだろうか。
飛ぶのは、生命の危険がある時だ。それも、突発的で、避けることによってしか致命傷を負うことが判っている時。例えば爆撃。例えば墜落。
からん、と音がして、最後の客が扉を開けた。ありがとうございます、とイェ・ホウとユエメイの声がした。ユエメイは後頼むよ、と言って、厨房の奥へと引っ込んで行った。その場にまた自分達だけが残されたことに彼は気付いた。
「お茶はもういいかい? サンド」
ホウはそう言うと、カウンターの中から、彼の座っている横へと降りてきた。腕まくりをしたままの調理人は、その腕をカウンターのテープルに乗せた。
「うん、ありがとう」
彼はそう言うと、ふっと横に座った相手の顔を見た。本当に、何処も似ていないのに。
あの旧友の横顔は、鋭角的なラインだった。イェ・ホウが全くそうではないとは言えないが、あの旧友程ではない。声も違う。あんな声は、二人と居ないだろう。それだけで自分の思考を奪ってしまう声。この男はそんなものを持ってはいない。短い髪。大きな手。所々に傷跡があることを、この間知った。おそらくは、何処かの組織の人間だろう。もしくは過去にそうだった。
だがそんなことをどうでもいい、と彼は自分が思っていることに気付いていた。
足はこっちを向いてしまったのだ。
「…昨日は大変だったんだって?」
「聞いたの?」
「聞こえてきたよ」
ふうん、と彼はうなづく。さすがに耳が早い。上の層の話が、きっとここに通う客の中にも入っていたのだろう。そうでなくイェ・ホウ自体が掴んだ情報とも取れなくもない。
「失望する?」
彼は首を傾け、相手の方をじっと見る。見られた方は、だがそれに動じる様子はない。黙って首を横に振り、逆に彼に問い返す。
「どうして?」
「あまり気持ちがいいもんじゃないだろ? する側もさせる側も悪趣味だ」
「でも女の子を助けたかったんだろう?」
「…俺はそんな善人じゃないよ」
そうだ善人じゃない。あれは仕事だ。
「それじゃ何、君はそうしたかっただけ、というの?」
彼はふっと目を逸らし、軽く伏せた。無意識だった。
「かも、しれない」
「ふうん」
イェ・ホウの声が、変わらぬ軽さで彼の耳に飛び込んだ。と。
くっ、と彼は自分の顎が強い力で動かされるのを感じた。
「じゃあ何で、目を逸らすのかな」
大きな手が。
「…ホウ」
「こんな、綺麗な目なのにさ」
彼は苦笑する。口の減らない奴だ。だが確かにそう見えているのかもしれない。あの時見た自分自身は、客観的に見たら、確かに綺麗だったのだ。
「…本当に」
目を伏せたまま、彼はつぶやく。
「何で俺、ここに来たんだろうな」
それは殆ど、自分自身に対する問いでもあった。迷いがそうさせるのかもしれない。自分にとっての、あの絶対的存在に対する迷い。記憶を自分自身にも隠したあの時、一体自分はあのひとに対して、どうすることを選んだというのだろう。
単純に敵対するとか、単純にそのままついていく、とかだったら何て簡単で、何て気楽だろう。
自分は迷っているのだ。ただ迷っているのだ。
では何故迷っているのだろう。それは簡単だ。自分はまだ、あの盟主の口から、何も聞いてはいないのだ。
「…もしも」
彼は相手の手が、顎から頬に伝うのを感じながら、言葉を探した。
「もしもあのひとが、本当に俺のことを…」
駒としてしか思っていないとしたら。一欠片も、そこに、いれ以外の感情が無いとしたら。
それだったら、自分はおそらく、あの組織を後にするだろう。
「こないだ君が言った、大切なひとのことかい?」
そう、と言うつもりだった。だがそれは微かにうなづくことで返すしかできなかった。相手の指が、耳元にと移動していた。
でもこれでは駄目なんだ、と彼は自分の中の叫ぶ声を聞いていた。
相手の指が心地よい。そのまま、冷静な意識を飛ばしてしまう程、この目の前の相手がすることなすことは、ひどく心地よいのだ。
でもそれではいけないのだ。それでは、あの旧友に自分がしていたことと同じなのだ。
だって。
彼は自分の混沌をすくい上げる。
俺の身体は、どうしてここに向いていたんだ?
彼は相手の手を取ると、そのまま自分の方へと引き寄せた。がたん、と相手の椅子が倒れる。パランスを崩した相手の身体を引き寄せ、強く抱きしめると、彼はやや驚いた顔の相手を真っ向から見据えて言った。
「あんたが好きだよ」
「…サンド」
「好きなんだ。あんたが欲しいんだ。どうしようもなく、今、俺は、あんたが欲しいんだ」
そうだ、と彼は言ってから思う。
身体が、一番良く知っているのだ。