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第7話 見てはならないものを見た時、足は欲しいものの方へ向かう

 がらん、と大きく扉の鈴が音を立てた。


「もう今日はしまいだよ…」


 やや赤みのかかった電灯のついた扉の方へと顔を向けながら、イェ・ホウはそう言いかけた。扉の外にはもう注文は終わり、の看板がかかっているはずだ。それはこういった店によくある、祖先の言葉の文字を使って、やや装飾的に書かれている。もうそういう時間なのだ。店に居るのは、もう食事を半ば以上終えた人々ばかりだ。

 だが彼は言いかけて、言葉を止めた。


「サンド…?」


 ホウは彼の偽名を呼んだ。いつもとは違い、その表情はひどく動揺していた。肩が上下し、白い顔に、脂汗がだらだらと流れていた。イェ・ホウは慌ててカウンターの中から飛び出すと、彼の両肩を掴んで揺さぶった。


「どうしたんだよ!」

「…何でもない…」

「何でもないって顔かいそれがっ!」


 もしもそうだとしたら、不覚だ、と彼は思う。だが自分が動揺していることは、彼自身一番よく知っていた。Gはホウの手を、それでもまだぐっしょりと汗をかいたままの指先で避けた。


「お茶くれる? イェ・ホウ」

「…お茶… あ? ああ」


 何ごとか、と食器を洗っていたユエメイも顔を出す。そしてお茶だね、と言って再び厨房へと引っ込んだ。Gはホウから離れて、いつものようにカウンターの席へと座った。


「…いきなりごめん」

「いや俺はいいけど。…だけど君、サンド、ひどい顔してる。綺麗な顔が台無しだ」


 彼の前に、土瓶と湯呑みが置かれる。彼は茶を半分だけ注ぐと、近くの注水器でそれを半分薄め、一気に飲み干した。そしてはあ、と息を吐き出す。


「何か、幽霊でも見たような顔だったよ」

「幽霊… うん、似たようなものかな」


 げ、とホウは肩をすくめた。

 幽霊ではない。だがそれに近いものを、彼は確かに見たのだ。少なくとも、自分の目が間違ってなければ。



 いつものように、この店に食事に来ようとしていたのだ。おそらくは、もうじき来れなくなる。だから、その前に。これは他愛ない感傷だ、と彼も思っていた。

 水曜日の舞台で彼が友人としたことは、確かに少女を助けたいという気持ちが全く無かった訳ではないが、目的はデモンストレーションだった。

 何にしろ、自分の目的は、第一層に入り込み、エビータに会わなくてはならないのだ。

 だが、ここに入ってからさりげなく収集する情報、そして自分の足で歩いてみて、「目をつけられ」ない限り、入り込むのは厄介だ、という結果を導き出した。少なくとも、自分のピアノ弾きという立場からしたら、そうなる。他の職業を表向き持っていれば、それなりの方法があるのかもしれない。例えばあのハウスキーパーのように。踊り子のように。第二層までなら、おそらくそれは比較的抜け道はあるのだ。

 ところが、その上となると。

 …さて前の週のショウの後、彼は苛立ちと、不快感を胸に抱えたまま、舞台に上げられた少年と少女が何処に運ばれるのか、さりげなく後をつけてみた。

 すると、何故か、少年と少女は別々の車に乗せられ、送られていった。二台の車は、途中で道を分けた。一台は、そのまま、おそらくは少女の住処があるだろう第二層の中の地区へ。そして少年を乗せた一台は…層境のチューブの方へと向かったのだ。

 第一層へ送り込まれたのだ、と考えるのは単純かもしれない。だが、考えられないことではないのだ。

 あの小楽団の四弦弾きのシェ・スーあたりに、何げなく彼はこの事について聞いてみたことがある。青い髪の彼は、こういうショウを、あの小楽団の中では一番嫌いそうだったからだ。


「そうだなあ。だいたい男の子と女の子、どっちもいるんだ。連れてこられる」

「連れて」

「ただやっぱり綺麗な子が多いね。だけど綺麗な少年少女、っていうと、さすがにこの惑星じゃ少ないだろ? それであちこちの層で、金と引き替えに連れてこられることが多いらしいよ」

「何だって少年少女なんだろう?」


 彼が聞くと、シェ・スーは大げさな程に顔を歪めた。


「それは決まってる」

「何」

「世の中には悪趣味が多いってことだ。…俺の知ってる奴ももの凄い悪趣味が居るがねー」


 へえ、とその時は曖昧に目を丸くしてみせただけに終わった。シェ・スーもそれ以上付け足そうとしなかった。


「でもその悪趣味っていうのは、単にガキをどうこうするのを見るのが好きってだけなの?」

「いんや」


 手をひらひらと振る。


「これはあくまで最近の流行り、らしいよ」

「流行り」

「俺達が入ってくるちょっと前までは、ぼよんぼよんしたねーちゃん達ばかりを一度に五~六人上がらせて共食いさせるってのが流行ったらしいし、その前はあんたみたいに綺麗な野郎ばっか、てのもあったらしい」


 ふうん、と彼はその時はうなづいた。つまりはブームという奴があるのか、と納得した。

 ピアノ弾きで居るだけでは、せいぜいがところ、カードで誘われる程度である。エビータの気を惹くには、多少の無茶をした方が良さそうなことは、彼も気付いていた。あとはタイミングである。

 そしてそのタイミングを合わせたようにやってきた盟友は、ショウの後、泊まっていった自分の部屋で、こう言った。


「お前変わったね」


 何が、と彼は訊ねた。さんざん、舞台の上で絡んだ後だったので、部屋に戻ってまで何かしらしようという気は起きなかった。身体も疲れていたし、一緒のベッドに潜り込んだとしても、それだけだった。

 そしてそのベッドの中で、寝ころんだまま、見えるか見えないか程度の灯りの中で、連絡員は、口だけを動かした。音声は立てない。

 何が、と彼は訊ねた。


「気持ちよさそうだったじゃない」


 ああ、と彼はうなづいた。

 それなりに彼は彼でその舞台の上で楽しんでいたのは事実だ。この意外と曲者の連絡員が上手かったというのも確かにあるが、奇妙に、衆人環視の中で演じる濡れ場という奴につきまとう、集中した視線にさらされている、さらし者になっているという感覚は、彼に自虐的な快感を覚えさせたのだ。

 無論それに味をしめる訳ではないが、自分にそういう面があったことを思い出したのは事実だった。


「俺はさ、お前はこういうことは好きじゃあないと思ってた」

「何で?」

「だってお前、俺と再会した頃は、全然熱くならなかったじゃない。この間までそうだったじゃない。それなのに何よ」


 それなのに何よ、と言われても。

 実際、自分でも判らないのだ。


「そんなに俺、熱くなっていた?」

「…んじゃないの?」

「かもしれない」

「自分のことなのに、何だよ」


 そう言って、スイッチを切ったように、連絡員は寝入ってしまった。そして彼は残される。


 俺は、変わったんだろうか?


 盟友は、その晩は泊まったが、次の日にはもう自分の仕事へと戻って行った。彼は木曜日を、一人で過ごした。

 ハウスキーパーのエルディは来なかった。キャサリンは居たが、ひどく不機嫌な表情に、彼はやや自分から近づこうという気を無くした。クローバアの姿は無かった。


「…んでもびっくりしたあ」


 小楽団の小柄な打楽器奏者のニイは、ばんばん、と彼の背中をはたいた。


「びっくりしたよ俺。でも聞いたよ。知り合いの女の子の代わりだったって?」

「…まあね」

「身代わりなんだって? …凄いなあ。俺絶対できない」

「しなくたっていいよ、あんなことは」


 彼は苦笑を返す。だがその単純な明るさは何となく嬉しいものがあった。

 だが。


「…けど」


 その時、聞き覚えの無い声が、彼の耳に飛び込んできた。声の方には、オリイが居た。長い髪のせいか、その表情は見えない。


「気をつけた方が、いい」


 それはひどくたどたどしい言葉に感じた。あれ、とそれを聞いたニイは目を丸くする。


「珍しいね、オリイが人に話しかけるのなんて」

「俺なんか、半年ぶりに聞いたぜっ!」


 ジョーは腰に両手を当ててあきれ果てた顔で言った。するとオリイは顔を上げた。長い前髪が、ざらりと揺れた。ややその動きに不自然なものを感じたが、彼はその時は気がつかなかった。

 そしていつものように、退けた後、第三層へと向かった。もうあまり時間が無い、と思うと、妙に彼はあの調理人に会いたい、と思ったのだ。

 それは単純な感覚だった。確かにあの旧友と似た所はあるんだが、それだけでなく、何かイェ・ホウには、また会いたいと思わせる何かがあったのだ。

 それが何だろう、と彼は道々考えてみる。

 惹かれている、というのはたぶん間違いないとは思う。だがそれは、強烈な気持ちではない。少なくとも、自分があの盟主に感じる…感じずにはいられない、あの気持ちとは別のものだ。

 だが、あの旧友とも違う。好かれるのは楽しい。心地よい。だがそれだけだった旧友とは。それ以上になることを無意識にお互いに拒んでいただろう、あの声を持つ男とは、また別のものが、感じられるのだ。

 何だろう、と彼は思う。考えて答えの出るものではないとしたら、身体が知っているのだろうか。

 盟友は言った。お前変わったよ。


 俺は変わったのだろうか。


 何となく、そのまま中華料理店へ行くより、彼は歩いていたかった。賑やかな街をふらふら、と彼の足はさまよっていた。この街は、特有のにおいがする。濃い、それは、何処か懐かしさを感じさせるものだ。決してそれが自分の育ってきた文化圏には無いというのに、彼にとって、そのざわめきは、懐かしいものに感じられた。

 幾つかの角を曲がり、幾つかの小径を入った。


 その時だった。

 彼は、自分の目を疑った。


 足が、地面に縫いつけられたように、動かない。逆に、手が、指が、宙に何かを掴もうと、自分の意志に反したように動く。


 相手は、綺麗な目をしていた。


 見覚えのある目だ。だがこの顔を直接見たことは、一度もない。それはそうだ、と彼は思う。


 自分の顔を正面で見たことなんて、誰も無いのだから。


 相手の綺麗な目は、自分を見て、大きく見開かれていた。髪は自分より少しだけ長かったような気がする。白いシャツを着て、黒い細身のズボンを履いていた。

 そして、彼は逃げたのだ。それも、ひどく無様にも、背中を向け、体勢を崩しながら、段差やちょっとした道路のくぼみにつまづきそうになりながら。

 罠かもしれない、ということは頭からすっかり消えていた。とにかく、自分の姿が正面に居る、という事態を信じたくなかった。何故なら、それが自分であるということだけは、彼はどうしようもなく、納得できたのだ。自分であるからこそ、自分の姿が、本物であると。



 て気がついたら、この店の前に来ていた。

 何杯かの茶を口にして、ようやく人心地ついたような気になる。思考も冷静さを取り戻してくる。


 …あれが、俺ではなかった場合。


 そうではない、と自分の中の何かが叫んでいる。あれは本物だお前だ、と叫んでいる。だがとりあえずはその叫びは押さえ込み、冷静に頭を働かせる。実際その可能性はあるのだ。彼という存在を、各組織の上層部は知っていてもおかしくはない。あの水曜日の舞台に出た効果が、妙な形で出た可能性はあるのだ。

 自分の中では、それは違うと確かに叫んでいるのだが。


 …そして、俺だった場合。


 彼の中では、それは既に決定事項だった。他の者だったらともかく、自分に関しては、その可能性はあるのだ。ドッペルゲンガーではない。確かにその時の恐怖は、ドッペルゲンガーを見た時の感覚とも言えるかもしれない。見えたら、死が近いのだと。

 だが違う。自分に関しては、その後の寿命が長かろうと短かろうと、その可能性があるのだ。

 髪は長かった。だが、少し前までの自分ほどではない。

 としたら。


 あれは、未来の俺だ。


 時間を飛び越えることのできる自分だから、それはあってもおかしくはないことだ、彼は気付いていた。


 だとしたら。


 短い髪に指を差し入れ、彼は思う。


 俺は、また時間を飛び越える予定があるというのだろうか。


 飛ぶのは、生命の危険がある時だ。それも、突発的で、避けることによってしか致命傷を負うことが判っている時。例えば爆撃。例えば墜落。

 からん、と音がして、最後の客が扉を開けた。ありがとうございます、とイェ・ホウとユエメイの声がした。ユエメイは後頼むよ、と言って、厨房の奥へと引っ込んで行った。その場にまた自分達だけが残されたことに彼は気付いた。


「お茶はもういいかい? サンド」


 ホウはそう言うと、カウンターの中から、彼の座っている横へと降りてきた。腕まくりをしたままの調理人は、その腕をカウンターのテープルに乗せた。


「うん、ありがとう」


 彼はそう言うと、ふっと横に座った相手の顔を見た。本当に、何処も似ていないのに。

 あの旧友の横顔は、鋭角的なラインだった。イェ・ホウが全くそうではないとは言えないが、あの旧友程ではない。声も違う。あんな声は、二人と居ないだろう。それだけで自分の思考を奪ってしまう声。この男はそんなものを持ってはいない。短い髪。大きな手。所々に傷跡があることを、この間知った。おそらくは、何処かの組織の人間だろう。もしくは過去にそうだった。

 だがそんなことをどうでもいい、と彼は自分が思っていることに気付いていた。

 足はこっちを向いてしまったのだ。


「…昨日は大変だったんだって?」

「聞いたの?」

「聞こえてきたよ」


 ふうん、と彼はうなづく。さすがに耳が早い。上の層の話が、きっとここに通う客の中にも入っていたのだろう。そうでなくイェ・ホウ自体が掴んだ情報とも取れなくもない。


「失望する?」


 彼は首を傾け、相手の方をじっと見る。見られた方は、だがそれに動じる様子はない。黙って首を横に振り、逆に彼に問い返す。


「どうして?」

「あまり気持ちがいいもんじゃないだろ? する側もさせる側も悪趣味だ」

「でも女の子を助けたかったんだろう?」

「…俺はそんな善人じゃないよ」


 そうだ善人じゃない。あれは仕事だ。


「それじゃ何、君はそうしたかっただけ、というの?」


 彼はふっと目を逸らし、軽く伏せた。無意識だった。


「かも、しれない」

「ふうん」


 イェ・ホウの声が、変わらぬ軽さで彼の耳に飛び込んだ。と。

 くっ、と彼は自分の顎が強い力で動かされるのを感じた。


「じゃあ何で、目を逸らすのかな」


 大きな手が。


「…ホウ」

「こんな、綺麗な目なのにさ」


 彼は苦笑する。口の減らない奴だ。だが確かにそう見えているのかもしれない。あの時見た自分自身は、客観的に見たら、確かに綺麗だったのだ。


「…本当に」


 目を伏せたまま、彼はつぶやく。


「何で俺、ここに来たんだろうな」


 それは殆ど、自分自身に対する問いでもあった。迷いがそうさせるのかもしれない。自分にとっての、あの絶対的存在に対する迷い。記憶を自分自身にも隠したあの時、一体自分はあのひとに対して、どうすることを選んだというのだろう。

 単純に敵対するとか、単純にそのままついていく、とかだったら何て簡単で、何て気楽だろう。

 自分は迷っているのだ。ただ迷っているのだ。

 では何故迷っているのだろう。それは簡単だ。自分はまだ、あの盟主の口から、何も聞いてはいないのだ。


「…もしも」


 彼は相手の手が、顎から頬に伝うのを感じながら、言葉を探した。


「もしもあのひとが、本当に俺のことを…」


 駒としてしか思っていないとしたら。一欠片も、そこに、いれ以外の感情が無いとしたら。

 それだったら、自分はおそらく、あの組織を後にするだろう。


「こないだ君が言った、大切なひとのことかい?」


 そう、と言うつもりだった。だがそれは微かにうなづくことで返すしかできなかった。相手の指が、耳元にと移動していた。

 でもこれでは駄目なんだ、と彼は自分の中の叫ぶ声を聞いていた。

 相手の指が心地よい。そのまま、冷静な意識を飛ばしてしまう程、この目の前の相手がすることなすことは、ひどく心地よいのだ。

 でもそれではいけないのだ。それでは、あの旧友に自分がしていたことと同じなのだ。


 だって。


 彼は自分の混沌をすくい上げる。


 俺の身体は、どうしてここに向いていたんだ?


 彼は相手の手を取ると、そのまま自分の方へと引き寄せた。がたん、と相手の椅子が倒れる。パランスを崩した相手の身体を引き寄せ、強く抱きしめると、彼はやや驚いた顔の相手を真っ向から見据えて言った。


「あんたが好きだよ」

「…サンド」

「好きなんだ。あんたが欲しいんだ。どうしようもなく、今、俺は、あんたが欲しいんだ」


 そうだ、と彼は言ってから思う。


 身体が、一番良く知っているのだ。

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