チ… ン、とグラスの音は、人気の少ない店内の空気を震わせた。薄い、よく磨かれたガラスの音だ。
キムはその音にちら、と視線を走らせた。するとその音の主は、手をひらひらと振る。それだけではない。顔には非常ににこやかな笑みをもたたえて。
だがその相手に対して、キムは即座ににこやかに笑うという訳にはいかなかった。条件つきの笑いが、顔中を一瞬にして被うのを感じる。自分の愛人があまり好きではない、この表情なのだが、ある種の人間に対しては非常に有効ではある。
「何か俺に用?」
明るい声の調子。わざわざ立ち上がり、キムはそのグラスの男に近づいた。テーブルに手をつくと、緩く編んだ三つ編みがざらりと背中からすべり落ちた。
奇妙なバランスだ、とキムは思った。顔全体の骨格のはっきりした男だった。そしてその男は、自分同様、その顔の上に、得体の知れない笑みを一杯に浮かべている。
「いや、とりあえず君自体には今は、無いよ」
なるほど、と連絡員は思う。金色のトランペット、と盟友が評したことがあったが、確かにその声質は、高音を張り上げれば出せばそのタイプだろう。レプリカントの耳は即座に判断する。
「ふうん」
キムは曖昧にあいづちを打つと、男の斜め前に座った。そこは先日同僚と話した席だった。座ってからやっと、その事に気付く。
同僚の姿は今日はこの店内にはない。ピアノの前は空席だった。
そのせいなのか、店内の客の数はやや少なかった。あの同僚目当ての客も少なからず居たとということだろう。だが彼が「エビータのお召し」で第一層に向かったことは、既にこの店中に知れていた。
連絡員はその良い耳で、それらの噂を既に聞き知っていた。無論自分もその一端を担っていた訳だが…それは連絡員にとっては大した問題ではない。あの時も、客の視線は、自分よりも、同僚の姿に注がれていたはずだから。
そしてもう一人、この店内から消えていることにも、キムは気付いていた。
流れている六弦の音が、いつもより単純なのだ。いつもだったら、タイプの違う音が、絡み合って、面白い音色になっているはずなのに、どうも今日は一人しか六弦弾きがいないらしい。
「つまり今日は、俺には用はない訳ね、鷹さん」
「そう。君には用は無いよ、キム君」
腕を前で組んで、およそ傲慢な程な笑みを浮かべ、帝国内調局員は、反帝国組織の幹部に、自分の正体を宣言した。
名前を公言するということは、自分がその正体である、という情報を相手に手渡したことになる。つまりは、情報の取引である。それを相手に渡した時点で、取引材料を一つ手渡したことになるのだ。
この場合は、敵対するつもりはない、という中立の意志が材料である。確かに、キムにとっても、この場所で内調局員と対立する気は無かった。
内調は帝都における国家直属の最高の情報機関だが、情報のために動いているのであるので、直接反帝国組織に手を出す特高や軍警とは別の行動理念を持つ。時には、任務のためには反帝国組織と手を組む場合もある。そしてそれは彼らの正義には決して反しないのだ。
「はじめまして、と言うべきかな」
そして無造作に鷹はキムに向かって大きな手を差し出す。キムはそれをやはり無造作に取ると、ぐっと握りしめる。強い力だ。そしてその皮膚からは、長い闘争の経験が感じ取れる。
「顔を合わせるのは初めてだ。だけど俺はあんたの存在は知っていたよ」
「おやおや。彼は俺のことを言っていた?」
「固有名詞を出す訳じゃあないけどね。だけど奴の身体が言ってたよ。もっと自分を熱くさせる相手が居るんだって」
ふうん、と実に面白いとでも言いたげに、内調局員は目を細める。
「仲がいいんだね君達」
「仲はいいけどね。妬ける?」
「いや」
そしてひらひらと再び手を振る。
「今更」
「今更、かなあ?」
「今更、さ。過去は、過去に過ぎない」
そう言うと、鷹は良い音を立てたグラスを掴んで、一息に飲み干した。
ずいぶんと濃いものであったように見えたのだが、確かにこの類は大して効かないだろう、とキムは思う。この内調局員は同僚と同じ種族なのだから。
「であんた、お目当ては? まさか、うちの同僚じゃないだろ?今更」
キムは足を組み替える。内調局員は、ふふん、と鼻で笑いを浮かべた。
「目的はね。目的自体は違う。ただちょっとだけ利用させてもらったけどね」
「ふぅん。そんなこったろうと思った。気付かないあいつも馬鹿だけどさ。目的は、アレかい?」
「そう、アレ。さすがにアレは、うちでも興味の的でね」
それはそうだろう、とキムは思う。ただ、内調の必要とするものは、「エビータの好意」ではないことは確かだ。彼らには、わざわざそれを取り付ける必要はない。
内調の不気味な程の、事実に対する態度の平たさというのは、実にキムには判りやすかった。必要とされるのは、情報であって、そこに関わる人間ではない。だから彼らはどんなものでも利用するのだ。
まあそこまで徹底すれば、なかなか気持ちいいものも無くはないのだが。
「で、奴に発信器でもつけたの?」
「発信器? そんなもの」
くくく、と鷹は頬杖をついて笑う。と、その大きな目は、不意に天井に視線を飛ばす。猫科の動物を思わせるその瞳は、何やら、ここでない何処かを見ているかのようだった。
「…さて、そろそろ彼らはエビータの宮殿の玄関か」
「…あんたテレパシイなんかあったっけ」
「いや」
ひらひらと鷹は手を振る。
「俺は、見ているだけさ」
「ふうん」
そう言うと、キムはいきなりその拳を前に突き出した。拳は真っ直ぐ目の前の相手の首の前、3センチくらいのところで止まる。
「本当に、それだけ?」
キムは全く口調を変えずに訊ねた。
はめている銀色の指輪から、細い針が飛び出していた。殆どそれは、相手の喉に当たるか当たらないか、というところである。それに気付いているのかいないのか、鷹は相変わらず頬杖をついたまま、不敵に笑いを浮かべている。
そして言う。
「なるほどね。でもやめといた方がいいよ」
どういう意味だ、とキムは問いかけようとした。だが、その意味を耳にするより、両頬に金属の感触を感じる方が早かった。
「…おいおいやめてくれよ。ほっぺたに丸く跡がつくのは御免だよ?」
「あっそう。背中ならいいのかい?」
やや高めの、元気な声が背中から聞こえてくる。
いつの間にか、あの小楽団の三人が、三方から自分に銃を突きつけているのに気付いた。気配は無かった。さすが訓練された内調局員である。
それでいて楽器も弾けるなんて、色々才能があるもんだ。
そして悠長にそんなことを考えたりもしてしまう。だが、それは言葉には出さない。言ったところで怒らないとは思うが、まあ後で言うことにしよう、ととりあえずキムはこんなことを言ってみる。
「どっちも嫌だね。俺を殺す奴のことは俺が決めるもん」
「決めてるのかい?」
意味ありげに鷹は口元に笑みを浮かべる。そしてふふん、と今度はキムが鼻で笑いを浮かべた。
「そう言われたからね」
そして指輪の針を引っ込め、拳を下ろしてテーブルの上に置く。
するとあっさりと三方の銃も身体から離れた。
ジョーはそのまま腰にすっとそれを差し、ニイはくるくると回してからもう一度構え、それからベストの下のホルスターにしまった。
シェ・スーだけはそのまま銃を握ったまま、それで威嚇するかのようにキムを眺めていた。なかなかこの青い髪の男はだるそうに見えて迫力があるな、とキムは思う。
まあ元々、敵対する気は、今回はさらさら無いのだ。肩をすくめ、指輪をくるりと反対側に向けた。それを確認すると初めてシェ・スーは銃を腰に納める。
「で、どぉなの?リーダー。奴は今」
「んー? 玄関で、『ごめんください』してる頃かなあ」
再び遠い目で、内調局員は、そう仲間に告げた。
*
「ごめんください」
と聞こえた。少なくとも、Gの耳には。
門がどうも今度は自動には開かないので、どうしたものか、と彼が思案していたら、この長い髪の、無口な六弦弾きは、あちこち触れていたと思うと、植物を象った、曲線を描く金属の部分が取り付けられている石造りの柱へ近づき、突然ぼそっとそう言った。
さすがに彼は気抜けした。そして更に気抜けすることには、その言葉に呼応したように、門は… 開いたのだ。
時々こういう気抜けを起こさせる人物というものは居るものである。例えばあの海賊放送のよく口の回るパーソナリティ。免疫はついてきていたはずだが、さすがに目の前でやられると、彼は思わず眉間にシワを寄せてしまう。
「開いたね」
するとあっさりと当たり前のことのようにオリイは言う。
「…そうだね」
そして彼はそう答えるしかなかった。
開いた門の向こうには、「宮殿」とか「城」というにふさわしい、大きな館があった。
決して小さくはない幾つかの棟が、渡り廊下をつけてつながれている。一つ一つの館は決して背は高くない。平屋建てと言って間違いない。ただ、一階建ての一階としては、ひどくその天井は高い。常識で言う二階分は充分ある。
そして面積的にも、ひどく大きく、屋根の瓦も豪勢なものではあるし、あちこちに植えられている木々は手入れがされ、時には形をもきっちりと直されているようなものもある。
渡り廊下に使われている木材も…そう、基本的にこの一つ一つの館の主素材はどう見ても、木材なのだ… 遠目に見ても、磨き込まれたものである。
ある意味、ひどく非合理的な建築にも見えなくはない。何せ、あちこちが開け放たれているような作りなのだ。窓と呼べるような窓がきちんとある訳でもない。
だが、気温が調節させている所で、しかもたった一人の主人のために設計されたものなら、これはこれで合理的なのかもしれない。これだけあけすけならば、賊の存在もすぐに判るだろう。隠れ場所が見付けにくそうだった。
ざく、と足を踏み出すと音がした。細かい玉砂利が、一面に敷き詰められ、足の動きをやや鈍くする。ざくざくと音をさせながら、二人はそのまま、館の本当の玄関らしい所まで歩みを進めて行った。
そう言えば、とGは思う。隣を歩いている六弦弾きは、実に足取りは軽かった。戸惑う様子も無い。だがその目は、絶えずあちこちを見回していた。
ふとその視線が一瞬自分の方に向く。その時彼は、何処かで感じたような感覚が背中に走るのを感じたが、それが何なのか、どうしても思い出せなかった。
「…サンドリヨン」
不意にオリイが口を開いた。何、と彼は問い返したが、その聞き慣れない発音に、彼はそれを名付けた少女の口調を一瞬思い出した。
「この街で、誰かと寝た?」
そして質問は唐突である。唐突すぎて、一瞬何を言われたのか、頭はなかなか判断しなかったので、同じ質問を彼はもう一度聞くはめになってしまった。
「…そりゃやっただろ… ステージの上ってのもあったし…」
「それではなく、もっと別の」
「あるさ。あっちゃ悪いか?」
「別に悪いなんて、言ってない」
「じゃ、別にいいだろ」
今は、その話題を口にして欲しくはなかったのだ。
だがオリイはそんな彼の内心など全く気付かぬように、同じ口調で淡々と言葉を次いだ。
「ただ、俺には感じ取れなくなったから、何故かなあ、と」
?
「サンドリヨンの中に残る、彼の、を」
誰の何だって?
彼は思わず、目を丸くしていた。
*
「…俺な、ほんっとうに時々思うんだけど」
小型の都市車の助手席に乗り込みながらシェ・スーは、運転席のジョーにため息混じりで言った。
「何」
ジョーは同僚に向かって問い返す。既に前方には、内調の、彼等のチームのリーダーが、隣にニイ、そして後部座席の窓からは、長い栗色の髪が見えている。
「悪趣味だよなあ…」
「何、リーダーの悪趣味は始まったことじゃないでしょ」
ジョーは車を発進させながら、当然のことのように答える。そして何を今更、と言いたげな調子でちら、と同僚の方を見た。
するとシェ・スーは顔を露骨に歪めながら首を大きく振った。
「いんや、リーダーの悪趣味は俺もよぉく知ってる。俺が言ってるのは、オリイの方だ」
「んー? そうかなあ?」
答えながらも、ジョーはなめらかな運転をしていく。カーブに差し掛かる時も、それは非常に穏やかだった。…そしてその一方、シェ・スーの視界に入る前方の車は、実に心臓に悪い運転をしていた。
状況は判っている筈なのだから、そうそう焦ることもないだろうに、とシェ・スーは思う。何せリーダーの目は、さっきからずっと、平行して向こう側をも見ているのだから。
「リーダーはオリイとつながってるんだろ? 詳しいこた俺はどうだっていいけどよ」
「らしいね」
「だけどそれは、オリイがリーダーを選んだってことだろ?」
「そういうことになるけどさ」
前方の車が、いきなり左に曲がる。おおっと、と声を立てつつ、目を開けつつも、ジョーは鮮やかにハンドルを操った。ととととと、とシェ・スーはバランスを崩したらしく、何やら腰砕けの体勢になっている。
「おいシェ・スー… 大丈夫か?」
「…だ、大丈夫… ったく奴らっ!!」
「俺が安全運転に勉めてもそういうのを全て破壊するからなあ… あのひとは」
「だろ? 何を好きこのんでオリイは…」
「そりゃまあ、好きこのんでいるんでしょ」
意外にもあっさりとジョーは言った。
「所詮俺達だって、あのリーダーの元で結構長く働いている訳だし」
「…よせよせよせよせ」
シェ・スーは身震いする。
「そらなあ、リーダーは確かにうちの局員としちゃあ実に立派よ。内調は何ったって、この広い帝国内でさ、隠密裡に動く集団の中じゃ、一番節操無しって言われてるんだし、そういうとこは実にあの人は合ってるよ」
「類友だろ?」
シェ・スーは憮然とする。まあ間違ってはいないのだ。
「そういうのは、今頃言うことじゃないだろ? シェ・スー、何か聞いたのかよ? リーダーとオリイのことでさ」
うー、とシェ・スーはうめく。
「どーせお前、そこまで言いかけたんだから、言いなさいって。言いたいんでしょ? そこまで言うってことは」
「…へいへい」
全くまあ、とシェ・スーはため息をつく。しばらくは直線の道だ。いきなり中断させられることもないだろう。
「…ほら今回の仕事は、リーダーが何かいきなりお出かけした後に来たろ?」
「あ? うん。そーいやそうだったね」
「お出かけ先を言わないのはいつものことだからいいけどさ…結構今度は曖昧だったじゃねえの。行き先が」
「…そーだったなあ」
「お前覚えてないの? で、オリイに行き場所決めさせたろ?」
「まあそーだったね。オリイはそういうの、感じ取る力はあるし。何だっけ、お前よく言うじゃん。種族的能力がどーとか」
「言ったよ」
「別に、何処に問題があるのさ。ターゲットをオリイがその能力で捕捉して、俺達はそれを追う。間違ってないじゃん。セオリイからは」
「…ジョーお前さあ、オリイが何に反応して、ターゲットを今回捕捉したか、知ってる?」
いや、とジョーは首を横に振った。
「…すぺるまだよ」
え、と一瞬ハンドルを持つジョーの手は凍りついた。
だがさすがに内調局員をやっているだけある。ジョーはほんの数秒自失しただけで、すぐに視線を前にやり、現状を再認識し、安全を確認した。
「…ほらお前も凍った」
「…シェ・スー…」
「…さすがにそういうのを聞いてしまうような偶然に出くわすって、嫌だよなあ…それで居て俺、何っかそういうのに出くわす確率高い自分が時々いやになるよなあ」
「…全くだよなあ…」
そしてしばらく、車内は実に気詰まりな空気が流れた。確かに、聞かなくてすむことなら聞かないほうが良かっただろうし… 聞いてしまったら、言ってその憂鬱を人に半分渡してしまいたい、この同僚の気持ちはジョーにも非常に良く理解できた。
「…ガッコの時の生物学の時間に習ったろ? 一つの個体に他の奴のが入ってくると、すぺるまってのは、互いに殺し合う性質があるだろ。だからそういうのが起こる前に捕捉して、肉眼で捕らえられる範囲に接近しろ。それが今回の、リーダーがオリイに言った命令」
はあ、とジョーはつぶれたため息を漏らした。
「…けどリーダーってオリイとそういう仲じゃなかったっけ?」
「…だから悪趣味だって言ってるじゃねーか」
「…全くだ」
任務は任務だ。よぉく彼等も判っている。だが。