言われたことの意味を把握しかね、彼が絶句していると、オリイはふっと左を向いた。つられるようにして彼も顔を上げる。
すると、館の中から、数名の男女が、ひどくたっぷりした布の服を引きずりながら、磨かれ、光すら放っているような木の廊下をやってくるのが彼の目に映った。
立ち止まる。ずらりとその男女が素通しの廊下に並ぶ様は、なかなかGにとって新鮮だった。見慣れないものを見た時の、あのどう反応していいのか戸惑う感覚である。
そしてその中の一人が、ゆっくりと、段差を降りてくる。その動作はひどく緩慢で、見ている彼自身、苛立ってきそうな程だった。そして段差を降りると、それまで何もつけていなかったのか、履き物を足につけた。
ざくざくと音をさせ、その者は、彼等の前まで歩み寄った。小柄な、老人に見える。白いたっぷりした衣服を着、頭には帽子というにはやや固そうなものが乗せられている。
老人は黙って彼等に向かって会釈をすると、こちらへ、と言うように、大きな袖に隠していた紙製の扇を開き、ゆっくりと動かすと、再びゆっくりと玉砂利を踏みしめて行く。
来い、ということなんだよな、と彼は思う。実際行くしかないのだ。どうも文化の違いが多すぎるものに関しては、それだけで戸惑いが大きい。
一体あれは何処の文化圏のものだったろう、と彼は歩きながら考える。あの紙製の扇は、以前一度だけ見たことがある。盟主が、ゆったりとそれを揺らせていた。かと言って、それが盟主の… ひいては彼自身の出身の文化圏とは限らない。
ただ、戸惑っているのは、「エビータ」という、この建物の持ち主の名前と、この奇妙な文化の違いだろう。おそらくは自分はその落差に戸惑っているのだ、と彼は思う。エビータという固有名詞から感じられる、明るい南の文化とは確実に違う、今この場所。
段差を昇る際に、二人は目線で、履き物を脱ぐことを指示される。オリイは戸惑うことなく、それに従って靴を脱いだ。Gもそれにならうが、何となく足が心許ない気分になるのは何故だろう。
靴を脱ぐのは、彼の過ごしてきた世界では、ベッドに入る時だけだ。つまりは無防備な時間だ。
そう考えて、彼はやや苦笑する。そう考えれば、ここで靴を脱ぐのは妥当なのかもしれない。
磨き込まれた木の床は、裸足に微妙な振動を伝え、時々きゅっきゅっと音をさせる。
廊下は長かった。彼等は前後に、付き人達の衣装のさわさわという音を聞く。進む左側に、いつも何かしらの部屋の境がある。
ただその境は、紙と木でできている、見慣れないものであったので、彼はなかなかそれが扉の役割をもしているとは判らなかった。
そういえば、イェ・ホウの店の窓とも似ている、とふと彼は考える。あの店の窓にも、やや違うが、系統的に似ていそうな形で木の桟が取り付けられていた。
右側には、神経を尖らせている状態の彼でも、ちょっとはっとするような、美しい庭園が広がっていた。木や花だけではない。そこに植えられている芝や、池の回り、玉砂利に描かれた模様、そういったものにも、ここの持ち主の一貫した考え方が反映されているようにも彼には思われる。
やがて、廊下は一つの館に突き当たった。彼等はそこで、やはり無言の別の集団に引き渡された。ものものしいにも程がある、と彼は思う。
だが今度の集団は、先の集団とはやや違っているようだった。
「お召し替えを」
その中の一人が声を立てた。同じ様な衣服をつけ、同じ様うな帽子もどきをかぶっていたから一瞬彼は気付かなかったが、今度の集団は女ばかりだった。
そのうちの一人が、彼等にそう口を開いた。
「何に…」
「それは私どもが用意致します。お二人はどうぞ先に湯浴みを」
「何処で?」
「案内いたします。ですがその前にお召し替えを」
女は顔を上げる。若くはないが、まだ中年には差し掛かっていないだろうその顔は、奇妙なほどに無表情だった。
「お召し替えって、脱げってこと?」
オリイはぼそっと言った。女ははい、とうなづいた。
そう言われるのなら仕方ないだろう。彼は無表情な女達の前で、ボタンを外しだした。オリイもまた、するりと、いつも着ているゆったりした衣服を外しだした。と、女達がその脱いだ衣服を揃えようとする。特に持っていて問題のあるものはなかったはずだ、と彼は思う。そもそも、あの時、殆ど着の身着のままで逃げだしたのだ。上着など、あの管理局員に借りたままだった。
「髪を…」
女の一人が、緩く編んだオリイの髪に触れようとした。
ん?
彼はふと違和感を覚える。女はあっ、と小さな声を立てたと思うと、手を押さえた。オリイはその声に気付いたのか、平然とした顔で振り向く。
「髪には、触らない方がいいよ」
彼はふと、自分の手の甲に触れてみた。忘れていたが、痛みは確かにまだ残っていた。
何だろう?
まるで毒虫に刺された時のような刺激だった。自分は治癒力が半端ではないから、既にこの状態なのだろうが、そうでない者だったら?
とは言え、彼がこの周囲の女を心配している訳ではないのは言うまでもない。オリイは髪を編んだまま、衣服をすっかり取り去ってしまうと、躊躇無く彼の前に立った。そしてまたじっとGを見る。この視線。
*
ふむ、とハンドルを面倒くさそうに動かしながら、内調局員は、意味ありげにうなづいた。
「移動しました?」
助手席でニイは訊ねる。後部座席でキムは二人の会話をじっと聞いていた。
「移動はしているんだけどねえ…」
何処かおかしそうな声音が鷹の口振りには感じられる。背中ごしでよく判らないが、右手で顎をさすりながら、言わない何かをひどく面白がっているかに見えた。
「でも大丈夫ですか? リーダー」
「何が?」
「サンドリヨン君」
「それは何に対して、言ってる? 同僚の心配じゃなくて?」
「まあそぉですけど」
ちら、とニイは後部座席を盗み見た。キムはそれに気付かないふりをする。
「まあ、大丈夫だろ。殺すな、とは言ってある」
「ならいいですが」
「ちょっと待ってよ」
何、と鷹は前方から目を離さずに後ろの声に答えた。
「危険なのは、あの長い髪のにーちゃんなのかい?」
「危険?」
ふっ、とまた鼻で笑う気配がした。
「そう危険は危険だね」
「そういう風には見えなかったけど」
「あれは危険だよ。俺の敵に対してはね」
リーダー、とニイは思わず顔をおおって、ため息混じりに吐き出した。
「別に言ったところで大した問題はないさニイ。言っても言わなくても同じ、なんてことは幾らでもある。長く生きていればね」
長い、ね。キムは苦笑する。おそらくはこの前方に座る男は、自分と同じくらいの長さを生きてきているはずなのだ。そしておそらくは同僚の延べ生存年数よりも長く。
「では聞いてもいいのかい?」
「幾ら出す?」
キムは一瞬言葉に詰まる。冗談だよ、と鷹はすぐに付け足した。
「シャンブロウ種のことを、君は知っているかい? キム君」
「シャンブロウ種?」
キムは記憶回路を加速させる。聞き慣れない単語は、抽出するのに時間がかかる。それはほんのコンマいくつ下秒のレベルなのだが。
「確か、例の戦争で絶滅した種族の一つだったよな」
そう、と鷹はうなづいた。
「あの戦争の時に、『絶滅』と公表された稀少種族には何があったか覚えてるかい? …ああ、君もそうだっけ」
「うるさいよ」
憮然としてキムは言い返す。
「絶滅させられた種族自体は、73種。その中で、特に『稀少』と言われていたのは、6種だったよな」
「そう。何があった?ニイ」
俺ですか?とニイはいきなり振られた質問に声を高くする。
「華祭種、銀の歌姫種、イェギュギュフォラファン種、燈陶種、VV種、それにシャンブロウ種、でしたか」
「よく舌噛まずに言えました。正解」
「そらまあ、間違うとリーダーはたくから」
するとぱん、と車内にいい音が響き、ニイは頭を押さえた。
「まあレプリカントを入れると7種なんだろうけどね。悲しいかなレプリカントは『人間』の範疇には入っていない」
「別に入れる必要なんてないのよ」
「ふうん。いいの?」
「どう転んでも、レプリカントは人間じゃない。人間になろうとしてた訳じゃないからね」
「じゃああの時、君ら反乱を起こしたのは何で? 俺はその時ずいぶんと痛手を被ったけれど?」
「そうだよな。あんたは俺達が脱出した後、奴を追ってきた」
「ふうん、俺がそれだって、知ってたの。見ていたの?」
「見てる訳ないだろ。あんたじゃない。出歯亀め。結局あれからどうなったんだ?俺は詳しいことは知らない。奴も詳しいことは言わない」
「無粋じゃないかなあ?もしかしたら、久々の再会に、何かしらしていたかもしれないだろ?」
は、とキムは首を横に振る。長い栗色の髪が、ざらりと揺れた。
「別に逢い引きしていたなら、俺は何も聞かないさ。でもあんた達は違う。あん時奴は、どう見ても差し違える覚悟に見えた。ひどく辛そうだった。俺は今でも記憶している」
「だろうな」
「知っていたんだろ?」
黙って鷹はハンドルを切った。いきなりの行動に、キムはバランスを崩し、扉に身体をぶつける。痛みも相まって、珍しく連絡員は感情的に叫んだ。
「知っていたんだろ?!」
「知っていたさ」
リーダー、と不安気な声が、ニイの口から漏れる。知らなかったのか、とキムはこのどう見ても天使種以外の局員を見て気付いた。
「俺は彼と対決し、彼は墜ちた。その時は、物理的に、落ちただけだと思った。だが違った。彼はそれで自分の中の天使種の何かを起こした。彼の意識には無関係にね。そして俺は退場した。アンジェラスの軍を脱走した。無論それは、あの君らの偉大なる盟主サマにはよぉく判っていたことさ」
「Mが」
「判っていて、俺には、奴の能力を目覚めさせる役割だけを振ったのさ」
「でもそれは、必要だったからだ」
「必要」
あっはっは、と唐突に鷹は声を上げて笑い出した。
「何がおかしいんだよっ!」
キムは声を張り上げた。だがなかなかその笑いは止まらない。思わずぐっと、前のシートをぐっと握りしめる。び、と備え付けのカバーが、悲鳴を上げた。
耳障りだ。あの高い声が、黄金のトランペットのようだと彼が形容したあの声が、ひどく今のキムの耳には耳障りに感じた。
「必要。そうきっと必要なんだろうな。あの戦争で、たくさんの種族が抹殺されたのも、戦争が終結した後に多くの同胞を粛正したのも、きっと必要だったんだろうな」
キムはぐっ、と言葉に詰まった。それは、確かに、そうだ。起こったことだ。だがキムにとってそれは大したことではないのも事実だった。
「俺には… 関係ない」
「ああそうだろうな。君には言う資格がある。君には関係ない。君は抹殺された側の稀少種族だし、そもそも君は人間じゃあない。君には言う資格がある」
「鷹、あんたは…」
「だが俺からしてみれば、ただの大量虐殺だ。ニイ、お前の故郷は、そもそもは何で集団で移民しなくてはならなかった?」
不意に振られた部下は、はっと顔を上げた。そしていつもの元気からは想像もできない様な声を立てる。
「…大戦中、俺の祖父やそのまた上の人々の住んでいた惑星は、アンジェラスの軍勢によって、絨毯爆撃を受けました。生き残ったのは俺の祖父と、ほんの僅かな人々だけです」
「そうだったよな」
ニイは首を縦に振る。
「祖父は移民した惑星では、それまでとはまるで違った風習や、外見のためにずいぶんと苦労しました。そもそも外見が違いすぎました。…俺はこうやってまだ色の濃い方に混血されてきたけど、祖父は、移民した惑星にはそういない、薄い色の髪の種族でした。そのせいもあってか、祖父の、故郷でのその逆の観念のせいか、そのあたりは判らないけれど、どれだけがんばっても、貧しさから脱却できなかった。だからその娘だった俺の母親は、子供の頃から苦労したそうです。俺が今の職につけたのは、軍に入ったからです」
「そうだったな。こいつが少しでも社会的地位をつけるためには、そういうところにとりあえず潜り込むことしかなかった。正規軍は、一応赴任地は全星域を宛てている。建て前として、どの種族であろうが出身が何処であろうが関係はない。おかげで俺は、出来のいい部下をスカウトすることができた」
「感謝してます」
「よせよ照れるじゃないか」
そう言うと、ハンドルから両手を離した。ニイはあ、と声を立てる。にや、と部下に笑いかけると、鷹はすぐに手を元に戻した。
「さて、そういう例はニイだけじゃない。稀少種族に例を取ろうか? 例えばキム君、君は、『銀の歌姫』種を知ってるだろう?」
「母星からことごとく連れ出され、大戦中の色んな勢力のプロパガンダに使われたって連中だろう? あの場合は、種族そのものが絶滅したってことではなく」
「そう。あの場合は、その声に強力な力を有する個体が産まれなくなった、というのが正しいんだけどね。条件の厳しい惑星に移民せざるを得なかった場合、人間は案外しぶといもので、どうやってでも生きようとするらしい。この場合は、身体の方を変化させている。我々と同じくね」
共生体だ、とその昔、自分のリーダーが言っていた。
天使種は、自分達と同じ様に、別の生物との融合体なのだ、と。
「まあ我々と違って、あれは何かと融合した訳ではない。純粋なる変化、だ。生きるために、元々あったらしい能力を、気の遠くなるようならせんの遠い彼方から呼び起こし、増幅させたらしい。そのあたりの詳しいことは判らない。何せもう、そのサンプルたる『歌姫』はこの我々の知る星域の何処にも存在しないのだから」
「一体何を言いたいんだよ」
「では本題に入ろうか」
今までのは本題ではなかったのだろうか、とキムは内心思う。
「今例に出したのは、純粋な変化を起こした稀少種族の場合だ。さてここで、変化を起こす場合には二種類あるのを君は知っているね?」
「体内の遺伝情報の中から、生活条件に合うものを掘り起こして増幅させる型…」
「それはさっき言った。もう一つ」
「共生体。あんたらのような」
そしてキムは重ねて言う。
「天使種のような、共生体だよ」
そしてある意味、自分達のような。
「そうだね」
キムの念押しに対し、鷹は軽く答えた。
「だが天使種が共生体であることは、現在は機密事項になっている。口に出すことは可能だ。だがそれは現在においては大した意味を為さない。何故だと思う?」
「何故だ?」
「彼等はあの大戦中、そして粛正の季節において、特に共生体種族を狩った。何故だと思う?」
今度は自分が念を押されたことにキムは気付く。判らない、と口には出す。出すしかない。
「判らないはずはないよ。キム君。いや、君は言いたくないんだ。天使種は、共生体の情報を歴史の中から抹殺するために、それを行った。自分達がそうであることを悟られないために。人間より優れた能力を持った、長く若く、『死なない』種族。その存在を人間以上のものと定義づけるために、同じ様なタイプの変化した種族を狩ったんだ」
「…違う」
キムは首を横に振る。
「何が違う?」
違う、と言いたかった。もう一度言いたかったのだ。リーダー、とニイが声をかけた。
「まあいいさ。さて、その共生体の中に、シャンブロウ種というのが居た。どういうものか、知っているだろう?」
「…ああ」
「オリイはあの生き残りだ」
「そんなはず」
だって、あの種族が全滅したのは。
「昔すぎる、と言いたいかな?」
「…ああ。だって、シャンブロウ種が絶滅したのは、200年も前じゃないか」
「公的にはな。もう少し幅はある。だけどまあ、だいたいその辺りだ。俺があれに会ったのは」
「つまり」
キムはやや苦い顔になると、ざらりと長い髪をかき上げた。
「それはあんたを選んだから、ということか?」