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第11話 内調局員の微妙な嫌がらせと、「お召し」の現場

 「お召し替え」として彼等が与えられたのは、白い服だった。

 それは何と言うだろう。ひどく変わった衣装だ、と彼は思った。

 袖を通すと、前で大きくそれは開く。さっと片側を上にして、軽く止められると、くるくるとやはり白い、長い帯を腰に巻かれる。その帯一つでその服は留まっているらしい。

 促され、たっぷりとした袖ごと腕を上げると、無表情の女達がその帯を巻くのにまかせる。

 この女達は、湯浴みの際にもその広い浴場の中、彼等の周囲に居た。木製の、やや特徴のある香りが全体に漂う、湯気がこもった室内で、やはり無表情のまま、一糸まとわぬ彼の身体を洗い出した。

 さすがに彼も一瞬戸惑ったが、やはり木製の桶に湯を汲み、手には何やら粉状のものを入れた袋を手にした、その一連の作業をする彼女達の姿を冷静に観察する。隙が無い。彼は警戒を強める。だがそれは同業者に対する警戒とはやや異なっている。何が、という訳ではない。だが何かが、彼の中で違和感と危険信号を同時に発していた。

 一方で顔を上げると、同じことをされているオリイの姿が目に入る。髪以外の全てを、彼と同じ様に女達の手で扱われている。だがその目は、女達を素通りして、彼の姿を映していた。

 ずっと気になっていた。この視線。

 髪を洗おうとする女の手を軽く振り払うと、オリイは自分で頭に湯を掛け、専用の洗い粉を手にした。解いた三つ編みは、水に濡れ、思った以上に長い。手に髪の束を取り、丁寧にそれを洗う姿は、奇妙に他を寄せ付けない雰囲気がある。

 何度か浴槽に入れられ、これ以上はないというくらいに肌をこすられた後、彼等はようやくその室から出ることを許された。やはりたっぷりの布で全身をくるまれ、水気を取られる。つやのある濃いえんじ色の台には、換えの服が置かれていた。

 彼等が着ていた服は何処にも無かった。あったのは、白い、たっぷりとした服だけだった。

 女達は皆、うつむき加減に作業をする。それは「お召し」にあずかった者に対する敬意を表すものなのか、それともそう命令されているだけなのか。

 椅子に腰掛けさせられ、髪を乾かされながら、彼は思考をめぐらす。それがそんな場所であったとしても、髪を乾かすための暖かな風というのは何故こんなに心地よいのだろう?

 オリイはやはり髪に触れられるのを拒否しているらしく、ただ周囲で女達はたっぷりした暖かい風を送るしかなかった。それを受けながら、長い髪は、時にざらり、時にふわりと揺れる。

 生乾きの髪は、白い服に絡み付き、絶妙のコントラストを描き出す。

 女の一人が、彼に向かって、軽く紅を指そうとする。頭にはやはり固そうな、奇妙なかぶりものをつけているので髪の色は判らない。そしてちょうど、見下ろす彼の視界からは死角になるから、どんな瞳の色をしているのかも、彼には判らない。

 だが、その白い指が目の前に突き出された時、彼はそれに見覚えがあるような気がした。

 気がしたので、彼は一瞬、突き出される白い指の先端の紅を避けた。その拍子に、女の手にしていた紅の容器が、落ちた。

 あ、と女の声が微かに耳に飛び込む。彼はその瞬間を逃さなかった。

 ああ、と彼は声に出さずにつぶやく。確かに綺麗だ。宝石の様な色だ。


 上等の、ペリドット。


 かなりの茶番だ、と鏡に映る自分ともう一人の姿を見て彼は苦笑する。何でここまでする必要があるのだろうか、と呆れずにはいられない。

 鏡の中の自分は薄化粧を施され、普段の顔よりずいぶんと濃いものになっている。

 お綺麗ですわ、と女の一人が彼等に言葉をかける。なるほど確かに綺麗かもしれないな、ともう一人を見ながら彼は思う。

 オリイは、と言えば、彼よりさらに濃い化粧を施されていた。もともと大きな瞳が、目の周囲の色によって、さらに強烈なものになっている。やや厚手の唇にも、色が足され、色気とはまた別の妖艶さまで漂わせていた。

 そのまま促され、彼等は更に奥へと歩みを進めた。

 やがて、彼はふと、何か甘い香りが漂うのを感じた。甘い。いや甘いどころではない。甘ったるい。またその中に、森の中に入った時に感じるあの香りまで奇妙に入り交じっているようなのが、彼にはやや不気味に感じる。

 そして次第に辺りが薄暗くなっているのに、彼は気付いた。自分達の回りに居る女達も次第に少なくなっているかのようだった。はじめは前後左右に二人三人とついていたはずだ。だが一人消え二人消え…

 彼等がその天井の高い、薄手の白い布が幾重にも張られた部屋にたどり着く頃には、前を歩く二人しか、そこにはいなくなっていた。

 薄暗い部屋の中で、その白い布の向こう側は充分に明るいらしく、薄い布を重ねても、その光は漏れ出てくる。高い天井から、垂らしているのだろう。彼にはそれは大きな演劇を行う舞台に使う垂れ幕のようにも見えなくもない。


「…お方様、御所望の者どもを連れて参りました」


 アルトの声だ、と彼は思う。

 そして中から。


「ご苦労」


 男の声だ、と彼は片方の眉を微かに上げる。するとやっぱり今の「エビータ」は男なのか。

 彼等を連れてきた女達は、ゆっくりと後ずさりしながら、幾重もの布をそっと左右に開いた。

 どうぞ、とアルトの声がつぶやいた。



 第二層から第一層に向かうチューブの入り口では、数名の管理局員が気を失って倒れていた、ということで人だかりがしていた。

 正確に言えば、それを発見し、その場の捜索をしている数名の管理局員と、大多数の野次馬である。

 その野次馬の中に紛れ込み、内調局員達は車から降りて、合流した。


「一体何があったんですか」


とキムは人懐っこい口調で、背伸びをして見ていた物見高い中年女性に向かって訊ねる。


「…いやね、何かこのチューブの出入りを管理する局員さん達が、変な倒れ方していたっていうんだよ」

「変な倒れ方?」

「何か首に巻き付けられたような… でも別に命に別状はないっていうし…」

「首に」


 ありがとね、と軽く礼をいい頭を下げると、中年女性はにっこりと笑い、油で染みのできた手をひらひらと振った。キムは振り向かなかったので、その女性がその後にどんな表情になったのかまでは気付かなかった。

 そして内調組に近づいて訊ねる。 


「…あれは、あんたらの仲間のせいか?」

「人聞きの悪いことを言わないでよ」


 ニイはにっこりと満面の笑みを浮かべる。殺すな、と言ったというのはこのことか、とキムは思う。一応連絡員は、シャンブロウ種というものがどういうものかは知っていた。知識として、知っていた。

 だが実際見たことはない。それは口に出さない類の事項だ。そんな機密事項をべらべらと喋ってしまうなぞ、一体この内調局員は何を考えているのだろうか、とさすがのキムも思わない訳ではない。


「さて行くか」


 物騒な笑みを口元に浮かべると、鷹はポケットから薄い手袋を出すと、それをきゅっとはめた。


「行くって…」

「俺達の任務は、情報を得ることだ。他の何でもない。何処かに居るはずの居る本物のエビータを探し出し、明らかにすること。それが俺達の今回の役目なんだよ」

「…それで『目』を送り込んだな」

「その時本物のエビータは、それを楽しんで見ているはずだ。それに奴もそろそろお腹を空かせている頃だろうからね。君も来るだろう? 大切な友達が貞操の危機だよ」


 そしてにやり、と鷹は笑う。


「なるほど」


 キムはようやくこの内調局員が自分をからかうのを楽しがっているのだ、というのに気付いた。

 自分に、Mが何をしてきたのか、など説いても無駄なことを、この男は知っている。知っていて、わざわざ突きつけているのだ。キムにとって、Mがどんな者であり、何をしてきたか、そして何をするつもりなのか、ということは、どうでもいいことなのだ。

 連絡員にとって、盟主はその存在だけで絶対だ。

 キムにとってMは、この世界にひきずり戻してくれた、たった一人の人間なのだ。

 どんな策略をもって何をしてかすつもりなのか、など幾らでも疑問を持とうと思えば持てるのだ。実際、そんな謎すぎる命令は多すぎるし、結果として起こしたことが決して人道的に許せることなのか、と言われれば判らなくなることだって多い。だがそんなことは、どうだっていいのだ。

 それは自分の愛人にしても同じだろう。そこに意味は無いのだ。

 そしてそのことをこの内調局員は知っていて、わざわざ突きつけるのだ。…何故か。

 キムは考える。わざわざ、何故今何で俺に。



 背後で布のさわ、とずれる音がした。幕が上がった。

 布は降りたのに、幕は上がったのだ、と彼は思った。

 入り込んだ白い幕の中は、さらに幕が広がっていた。いや、雲だ、と彼はこんな折りであるのに思っていた。広い、天井の高い部屋全体にやはり白い、薄い布が垂れ、広がり、敷き詰められている。

 一体何処に光源があるのだろう、と思うくらい、その広い部屋の中は明るかった。だが何処に灯りの元があるのか判らない。Gとオリイは兎にも角にも、足を進めるしかなかった。

 素足に触れる床は、今まで歩いてきたところと同様、板張りである。生の樹木からできたものである。

 あの香りは一層濃くなっていた。何処から来るものだろう、と彼は視線をめぐらす。

 …花の姿が見えた。

 白い布の陰に、白い、細かな花がレースのように広がっている。だがこの花に香りが無いことは彼も知っている。それにこの香りは花よりはむしろ木の香だ。甘すぎる、毒々しい匂いに混じった、何処か奇妙に清々しい香りは、木のものだった。


「来たか」


 不意に男の声がした。

 その声の方を向く。ありふれた声だ、と彼は思う。薄い布の向こう側に、いつの間にか、人の姿があった。


「…お呼びに預かりまして…」


 彼は語尾をぼかす。さて、とひとまず疑問は棚に置く。


「話は聞いている。こちらに来るがいい」


 はい、と彼は答えて、声の方へと進む。するとふっと足が止まる。バランスを崩し、彼は白い雲の上に、倒れ込んだ。

 何故転んだのだろう、とGは思った。何かの気配が、消えたのだ。隣に居たはずのオリイの姿が、あの視線が、消えている。

 どうなっているんだろう、と彼は思いながらも、身体を起こそうとする。だがそれはできなかった。反転させられ、肩を布の雲の上に押し付けられる。雲の上だから、痛くはない。


「なるほど、確かに希に見る者だな」

「…お誉めに預かって恐縮…」


 襟元に手をかけられ、目を半分伏せる。連絡員にも度々注意されたが、そこで観察する視線になってはいけないのだ。自分の視線が、どれだけ時には強烈なものになるのか、彼はよく知っていた。そしてそこに、決して情動に溺れていないことが見えてしまうことも。

 だが相手の姿は、思っていた以上に、ありふれた男のものだったのに、彼はやや落胆を覚えなくはない。これが、「エビータ」なのか?

 やや苦笑したくなる。何か自分は期待していたというのか。

 開きやすい前開きの服は簡単に、彼の身体を露わにしていく。彼はつい、天井に視線をやる。光は一体何処から来るのだろう。上にも布はあちこちに張られ、それ自体が天蓋のようだった。そしてその布を通しても、光が降りてくる。

 彼はふと、触れられていない側の自分の腕に目をやる。磨かれたせいなのか、いつもより妙に白く見える。


 …影は?


 ふと、彼は手を動かしてみる。

 影は何処にあるのだろう。

 上から光が降りてくるなら、手の下に、影ができていいはずだ。だがそれが見あたらない。全方位から、柔らかだが、光が当てられているのだ。

 これはこいつの趣味だというのだろうか? 彼は自分の上に居る男にちら、と視線を移す。

 ありふれた男だ、と彼は再び思う。回される腕の感触、乾いた唇、固い髪、年の頃は、中年にはなるかならずか。その割には筋肉の衰えはさほどに無い。

 そういったものが、彼に「学生」をやらせていた頃の記憶を思い起こさせる。

 相手が身にまとっているものは、色こそ違うが、彼が着せられたものに近い。着ているもので判断はできない。だが彼の知っているありふれた男、というのは、決して特権階級のものではない。

 彼はもどかしげに身体を動かす。腕を回そうとする。すると相手はそれをどう取ったのか、その腕を取って、手を握りしめようとした。

 相手の、やや汗ばんだ手が、彼の手を。


 …!


 相手の身体が離れたのを彼は気付いた。


「…どうしたの?」


 乱れた髪をかき上げながら、彼は穏やかに笑った。


「それ以上続けなくて、いいの?」

「…あなたは」


 なるほど、と彼は思った。目の前に居る男は、急に体勢を崩したせいか、ひどく情けない格好になっている。彼はそれを見て、ひどくおかしくなった。こうなると、もう止まらない。彼は自分の顔が化粧のせいで、どれだけ強烈な印象を残すか、気付いていた。

 重ねた手から、信号が感じられた。

 相手の顔から、脂汗がだらだらと流れるのが目に映る。なるほど、「入れ替わり」ね。彼はオリイが何気なく言った言葉を思い返す。


「…『エビータ』が我らが組織に与しているとは知らなかったがな。何故貴様はここに居る。答えろ」


 彼は凶悪な程の笑みを浮かべ、はだけた服のまま、目の前で萎縮する相手を見据える。口調はあくまで穏やか。だがそれが一層に、相手の恐怖心を刺激する。


「重ねて問う。答えろ」

「…わ、私は…」

「連絡員の部下だな。奴の命令も無視して、貴様はこんなところで何をしている!」

「…わ… わかりません…」

「判らない?」

「…私もまた、『お召し』にあったのです。そしてここに連れてこられ… ですが、やはり、そこに居たのは、違うのです」

「違う」


 続けろ、と彼は短く命じた。


「そこに居たのは、その時は女でした。しかしやはり私のような、何処かの組織の構成員でした」

「ふん。それで気に入られたというのか」

「…いいえ、そうではありません。女は、逃げたい、と言ったのです」

「…逃げたい?何故だ。そもそも何故、その女はそこに居たのだ?」

「我々は、本物の『エビータ』に見られるためにここに連れて来られたのです。今この様子も、見られているはずです」


 なるほど、と彼は思った。合点がいく。このふんだんな灯りは、舞台の照明なのだ。


「それで女はどうした。何故お前がその女に変わって、こんなところに居る」

「女は、逃げられなかったのです」

「逃げられなかった?」


 つん、と鼻を木の香りが強く刺激した。


「…そう… 逃げられない…」


 男はそうつぶやくと、自身の喉と胸を強く押さえた。はっ、と彼は顔を上げる。濃度が、上がっているのだ。

 うぉぉぉぉぉ、と男は喉の奥から突き上げるような声を発して、彼に掴みかかってきた。彼は一瞬早く横に避ける。だが、雲の上は、ひどく頼りなく、避けた身体をも柔らかく抱き込んでしまう。

 彼は慣れない場所に、体勢を崩した。立て直そうとしたが、今度は一瞬、彼の方が遅かった。相手の手が、自分の首にかかるのを感じる。彼は引き離そうと、手首を掴むと、思い切り力を込めた。なのに、その手はびくともしない。普通の力ではない。

 薬を使われている、と彼は気付いた。この中に漂っている匂い。これを長い間、この男は吸わされてきたのだろう。おそらくは、何処かから命令が、男に飛んでいるはずだ。それを突き止めなくては…

 だが、力が入らなくなってくるのを彼は感じる。空気を、新鮮な空気を。

 視界が、赤くなってくる。

 天使種も、こんな所に弱点があるんだな、とその一方で、冷静に考えている自分が居る。

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