「まあったく」
女は後ろ手にワンピースのボタンを留めながら言った。背中にボタンがついているタイプなんて選ぶんじゃなかった、と内心つぶやく。
ちょうどひざの上に切り替えが来る、ローウェストの、ベージュとダークブラウンのツートーンのワンピースだった。
椅子の上には、同じベージュのクロッシェハットが、薄手のコートと一緒に置かれている。
そしてその帽子でいつもは押さえている髪が、ぱらりと落ちてくる。短いが、短いなりに気を抜くと跳ね回るその髪を、彼女はうるさそうにかき上げる。
「ああ全く。貴方っていつもこうなんだから。もう少しゆったり、余韻に浸らせてくれたっていいんじゃない? 鷹」
「だってあなたは、仕事の話で来たんじゃなかったの?」
小気味いい程のよく通る声が、彼女の前を通り過ぎながら、楽しそうに問いかける。
もう、と彼女はぱん、とベッドを両手ではたきながら、ややすねた表情をしてみせる。
視界の中で、既に相手の男は細身の黒いパンツを身に付け、ベルトのバックルまで留めている。実に冷静。それだから腹が立つ。
むき出しになった上半身に残る幾らかの跡が、それまでの自分との行為を思い出させる。だがそれ以外には何一つとして、鷹と彼女が呼ぶ男の上には無い。鍛えられた体。細身なのだが、それは無駄な肉が無いということでもある。
「…はいはい。どうせ私は貴方にとってはただのお仕事仲間ですものね。ふん」
「いえいえ、マルタは非常に有能なお仕事仲間ですよ」
「おだてたって、何も出ないわよ」
鷹はにやり、と口の端を上げる。
部屋の隅の小さなアイスボックスがぱた、と音を立てる。彼はそこから小さなびんを彼女に投げた。
「危ないわね!」
「あなたこれ嫌いだった?」
「アルヘン産のフラカジュース? …ったく」
こういう所が嫌なのよね、ときりきりとフタの周りの金属を切りながら彼女は思う。それは前の仕事で会った時に、これは好きだ、と何気なくもらしたものだった。
ちゃんと覚えていることをこの男はわざわざ自分に見せつけるのだから、始末に負えない。
淡い黄緑の液体。ふたを開けると、しゅっ、という音とともに、爽やかな香りが彼女の鼻をくすぐった。全く。
「…ルナパァクよ」
彼女は一口含むと、そう切り出した。
「ルナパァク? 月の公園?」
鷹は同じ大きさの、色の違うびんのフタを開けながら問いかける。
「とぼけるんじゃないわよ。そこが何だか貴方知ってるくせに。今回の仕事はそこよ」
*
扉を開けた時、マルタは思わず息を呑んだ。
この仕事仲間の被保護者兼同居人が、自分の方に視線を向けている。扉を開けた瞬間だ。
いつものことなのに、まだ慣れない。
部屋から出てきた自分を、じっと見つめる大きな目の、何処か奇妙な形をした光彩が、時々彼女は怖くなる。
声でも掛けてくれれば、まだいい。だが、この同居人は、言葉を発しない。鷹が拾ってきてからこのかた、まだ一言も言葉を発しないのだという。
言葉を解さない訳ではない。だから、発声器官に支障があるのかもしれない。
だが本人がかたくなに医者にかかることを拒否するので、様子を見ているのだ、と仕事仲間は以前彼女に言ったことがある。
彼女はじっと自分を見据える視線にやや圧迫感を覚えながらも、ぽん、と同居人の肩を叩いていく。
「またねオリイ。お仕事がんばって」
するとオリイ、と呼ばれた同居人は、小さくうなづく。殆ど、この同僚の部屋を出る時に必要な儀式のようなものだ、とマルタは感じずにはいられない。
彼女が出て行った後の部屋は、音もさほど無く、静まり返っていた。オリイは扉の鍵を閉めると、まだ自室に居るはずの保護者兼同居人の姿を視界に探した。
扉を開ける。鷹は椅子の背もたれに大きく背をまかせると、胸の上で長い指を組み合わせながら、天井を見上げていた。オリイは扉をこん、と叩く。途端、鷹の視線が自分の方を向くのに嬉しくなる。
身体を起こした同居人に近づくと、オリイはその大きな手を取って、「お仕事?」と書き付けた。そうだよ、と鷹はうなづいた。それは穏やかな口調だった。
そして続けて「何処?」とオリイは書き付ける。
「それなんだけどね…」
鷹は苦笑する。オリイは首を傾げる。真っ直ぐな髪の毛が、さらりと流れる。
「ルナパァク。マルタの奴、よりによって、あそこが今度の仕事だって言っていたよ」
オリイは眉を、微かに寄せた。
「さすがに俺も断りたかったんだけどね…」
よりによって、切り札を出してくるとは。
だけどもしかしたら、今度こそ、「そう」かもよ?
鷹はやや苦々しい気分で、何度も肌を重ねている相手の口調を思い出す。
「だから、今度はお前はついて来なくてもいいよ」
すると鷹は次の瞬間、自分の頭がいい音を立てるのに気付いた。
「…何するのよ」
オリイは首を大きく何度も振る。髪が軌跡が描いて揺れる。
まあそう意志表示するんではないか、と思ったけれど。鷹は苦笑した。
「…はいはい、判った判った。…俺はあまりお前を連れて行きたくはないんだけど
ね…」
*
粛正の時代だった。
戦争が終わったと思ったら、次はそんな時代だった。
星間共通歴579年。
数年前、その戦争を終結させたのは、人類が進出した宇宙の中では、片隅にあたるアンジェラス星域に住む少数民族だった。
誰が、いつ、何のために戦争を起こしたのかすら、長い年月の中でそれは曖昧になった。
理由はその場所ごとに違い、その時間ごとに異なっていた。
ある場所のある時間では、それはあくまで防衛のためだったし、ある場所では、それに乗じた革命やクーデターだった。またある星域では、それは覇権争いであり、さらにまたある場所では、稀少種族狩りの名目と化した。
「戦争」という名をつけて、混乱は正当化され、その混乱がまた更なる混乱を招いた。
そして「戦争」というものの実体は、次第に空洞化した。
戦争が始まってから生まれた人間は、その時代が果たして「普通」のなのかそうでないのか、考えることができない。そこに「在る」時代、それが彼等の現実であり、日々の暮らしなのだ。
たとえ、軒を並べるお隣同士が実は監視しあう間柄であったにせよ、それが日常ならば、それを続けなくてはならない。
人間は慣れる。たいていのことには。
…さてそんな「日常」を破壊したのが、その一種族だった。
現在の「帝国」の中心である帝都本星からは、やや離れた所にその星域はある。
アンジェラス、とその星域は呼ばれている。
辺境だった。現在の帝都本星から360゜の星間地図を立ち上げた場合、その方角には、アンジェラス以外、何一つとして、居住可能な星域は存在しない。
そもそもの人類の移民の歴史においても、その方角へと船を出したという記録は存在しない。
流れ着いたのだ、という説もある。だが当のアンジェラス星域の人間は、その事については口を閉ざす。彼等は自分達の過去については口を開かない。
過去だけではない。彼等は、現在の自分達に関しても、決して口を開こうとしない。
その理由というのが。
その辺境の一種族にすぎなかった彼等が、この戦争のせいで、急激に力を持った理由というのが。
彼等が不老不死の身体を持つ、ということだった。
最強の兵士とは、死なない兵士である。
彼等はその特性と、その出身の星域の名をもじり、「天使種」と呼ばれ、怖れられるようになった。
その最強の兵士達は、やがて最強の軍隊となり…なりゆきのように参加していた戦争は、やがて彼等が主役となった。
最強の軍勢は、やがて全星域をその手に入れた。
当時軍を掌握していた司令官クラスがそのまま占拠した地を「帝都」として、母星への航路を塞いだあたりから、次の行動は始まっていた。
彼等は、決して一枚岩ではなかったらしい。
見かけは皆変わらぬ彼等ではあったが、その中には、強固なヒエラルキーが存在したらしい。
「らしい」。それは彼等種族の中のみに存在するものらしいが、それは外部の種族には判らないものだった。
だがそれは彼等の中では絶対的なものであり、そのヒエラルキーの中で「下」である者は、「上」の者に逆らうことはできなかったのだ。
…できなかった。
それができるようになった時。
下士官が、上官に向かって銃を向けることが、彼等の無意識の圧迫を突破して、可能になった時。
それが粛正の時代の始まりだった。
*
その駅に降り立った時、ふう、と鷹は立ち止まり、大きく天井をふりあおいだ。
高い天井。屋内にあるというのに、プラットホームは何線もの車体が頭を並べている。
これは「チューブ」と呼ばれる近距離小衛星間軌道の、人類の進出星域あまたある駅の中でも、この線の特徴だった。あずき色をした、四角い形の車体が、数両並んで軌道を走る。
久しぶりだった。
と、背中に衝撃を感じて、彼は振り向く。相棒が、ぶつけた顔を指の腹でさすっていた。
どうやら不意に止まられたので、バランスを崩したらしい。何やってんだよ、と言いながら彼は相棒のさすっていた頬に触れる。
「さて、行くか」
オリイは保護者兼相棒の手を取って、うなづいた。
プラムフィールド、とその駅は呼ばれている。
星間位置的には、そこは「辺境」ではないが、帝都本星からはある程度の距離をおいた星域だった。ただ、その星域は、その母星よりは、その周辺によって人々には知られていた。
鷹は駅舎を一歩出た時に、そこから見える多数のチューブが交差する姿を見た。
「ほらごらんよ、またずいぶんと慌ただしく出てくもんだね」
オリイは首をかしげる。
「前に来た時より、また本数が増えてる。だいたい五分に1本の割合だな」
確かにそうだ、と鷹は自分の中で繰り返す。確か前に来た時は、チューブの各線は、十分に1本くらいの割合だったはずだ。もっともその時期は、戦争も全面的に終結したばかりだったので、その復旧に追われていたのかもしれない。
だがそれにしても、本数ばかりではない。このプラムフィールドの駅舎も、あの頃とはやや変わっている。ずいぶんと現在のこの支配人はがんばったのだろうな、と彼は素直に考えた。
実際、あの戦争の初期、百を越える数のコロニーがここにはあったはずなのだ。
この星域… ウェストウェストと呼ばれている… は、その本星よりは、その周囲に多数置かれている筒型コロニー群によって、よく知られている。
そしてこのコロニー間は、船ではなくチューブで結ばれているのだ。その方が当時高速で、コストも安かったのだ、と彼も聞いたことがある。
ただ、それは戦争が無かった頃の話だった。
その「高速で安価」なチューブは、無論敵の目標となったのだ。そして結構な数の軌道が破壊され、その駅である各コロニーも何十と破壊された。
現在残っているのはおよそ三十足らず。その殆どが、一般庶民の生活区よりは、それ以外の目的で開発された所である。
そしてルナパァクも、その一つだった。
手を取られる感覚があって、鷹は相棒に視線を移す。オリイは彼の手の中に、「彼女」「来るの?」と書き付けた。
「ああまあ。俺達より先に来ているはずだな。…オリイお前マルタを嫌いなの?」
「NO」と単語がつづられる。
「…ならいいけどさ。同僚と言ってもありゃ一応俺の上司みたいなもんだからね。も少し愛想よくしてくれない?」
オリイは首を曖昧に回す。鷹は大げさに眉を上げると、肩をすくめた。
「…ま、いいけどさ、今夜食事を一緒にしようって言っていたから」
鷹は、まあそれでもいつものことさ、と内心つぶやいた。オリイが彼女に対してこうなのは、今日に始まったことではない。
相棒は、相棒になる前、まだただの被保護者であった時から、彼女のことは避けているふしがあった。人見知りする質なのだろう、と思って慣れるまで放っておいたら、どうやらそういうものでもないらしい。
だがそれは放っておいてしまってからでは後のまつりである。
ただマルタは彼の同僚であり、上司でもある。あまり疎遠にするのも何だかな、と思っていた。
一応、彼女が上からの仕事を持ってきて、適切な配置を自分に指示するからこそ、自分が今の仕事を上手く遂行でき、生活できるのだ、という意識はある。
その上でまあ彼女とそれなりの関係を持ったとしても、まあそれはそれである。向こうもこっちもその瞬間は楽しいのだから、責められる筋合いはないだろう、と彼は思わずにはいられない。
ちなみに、そんな彼の仕事は、「粛正狩り」だった。
現在の天使種が主権を握る「帝国」において、粛正する側があって、される側があるなら、する側に対抗する組織があってもいい。
もっとも鷹も当初は、粛正される側だったのだ。
一応彼は、決して数が多い訳ではない天使種であり、しかも脱走兵だった。最終階級は少佐だった。
だが数十年前にある星域で起きたレプリカントの反乱の混乱に紛れた形で、彼は自分の所属していた軍を脱走し、そのまま船を奪って逃走した。
戦争の間は、傭兵をして日々を暮らし、戦争が終わったら終わったで、天使種とは無関係な顔をしてふらふらと暮らしていた彼のもとに、粛正の手が伸びてきた。
天使種は「死なない兵士」だから最強なのである。確認されない死は、何十年経とうが、「脱走」と見なされてもおかしくはない。彼は追われる身となった。
そして今から5年前に、「ただ」追われる身から、「追う側を追う」側へと転じた。
その頃、そんな粛正される天使種…主にそれは生存年数敵には「若い」者が中心だった…を救出し、「正式の」IDを出して、逃走の手伝いをする組織があった。
その名前を「Secret Garden」という。