「なかなかいいお店じゃない、ここ」
テーブルについて、ウェイターが食前酒を注いで立ち去ると、彼女は大きく天井を仰いで感想を述べた。そうでしょう、と鷹はにっこりとテーブルに両肘を立てながら笑う。
マルタはだが、その笑みにそのままにっこり、と返す訳にはいかなかった。そのテーブルにはもう一人居たのだ。
「あなたあまりこのプラムフィールドは知らないんじゃなかったの?」
「いやいや、来る前にあらかじめ情報収集しておくのは、基本中の基本でしょう」
「ま、それはそうだけどね」
それが例えば、旅行者のガイドブック的なものまで守備範囲が広がっているとは。
「それにしても、何かずいぶんとにぎわってない? 俺今日着いて思ったんですけどね。街中も、ずいぶんと飾り付けられていて。何かの祝日?」
「やあだ。そういうことこそ先に調べることじゃなくって? …あなたいつもそうよ。マリーヤもそう言ってたけど」
「彼女、元気?」
「元気よ。あなたにまたいつか直接会いたいとか言っていたわ。用事があるらしいの」
そう言ってから、彼女は慌てて付け足す。
「あ、オリイも一緒よ」
やがて食事が運ばれてくる。真ん中に置かれた平たい鍋に、赤いとろりとした煮物が入っている。やや甘酸っぱい香りが彼等の周囲に漂った。お皿貸して、と鷹は彼女に手を伸ばした。
手を動かしながら、彼は何だろう、と花園の園主のことを思い出す。マリーヤ・Rと名乗るその女性が、彼をこの組織に導いたのだ。
花園の園主は、現在三十代前半。この目の前に居るマルタとそう変わらないくらいである。どちらも「変化」もしくは「進化」した種族ではないから、生きてきた年月が、そのまま身体に現れる。
ただ違うのは、マルタは未婚であり、マリーヤは既婚であることだった。
ただその既婚の相手が問題だった。園主のマリーヤの夫は、天使種だったのである。しかも、「やんごとない」類の。
そのせいなのかどうなのか、彼には判らないが、マリーヤは数年で夫と別れ、その後、この組織を立ち上げたという。
ただ、この組織が、その夫の力で成り立っていることは確からしい。スポンサーは、その「やんごとない」一人なのだ。彼はそれを聞いて初めて、この組織に参加することを決めた。
天使種の、一番上。最初に入植し、最初に変化した、その世代。変化して、最も強い力を得た、その世代。数えるのも容易なその人数のその世代の中でも、どうやら内部には様々な思惑が存在していそうだった。
「また、伺わせてもらう、と言っておいてね」
鷹は彼女に皿を渡しながらそう言った。
彼女はそれを受け取ると、脇の大きな、細い長いパスタを盛った皿に、今度は自分で手を伸ばす。少しだけそれを取り、受け取った赤い煮込みに入れた。そしてくるくる、とフォークで綺麗に巻き、口に入れる。幾度かそれを繰り返すうちに、彼女の目には別の光景が映った。
「あら鷹、オリイには取ってあげないの?」
杓子が手渡されるところだった。オリイは黙って、受け取ったそれで自分の皿を満たす。
「こいつ偏食激しいからね。俺が取ってもつまらないのよ」
「あらそうなの。…だからそんなに細いのよ。ちゃんと食べなくちゃ駄目よ」
オリイはまたふらり、と彼女のほうを伺う。そしてん?という顔をして、ポケットから紐を取り出すと、やや邪魔そうに髪を後ろ手で器用にくくった。
「…で、祝典には日にちがない訳だよね」
不意に鷹はつぶやいた。手はくるくるくるとパスタをフォークに巻き付けている。
「何だやっぱり知っているんじゃないの」
「まあね。歩いてくれば、それなりに垂れ幕やら何やら目に飛び込んでくるし。親切な可愛い女の子は聞けば教えてくれるし」
「どうせ私は親切ではありませんよ。年増だしね。…そう、とにかくもうあまり日は無いようね。本当は、ここに今回回されるのはあなたじゃなかったのよ」
「と言うと」
「予定が狂っちゃったわ。ここに回るはずのひとが、いきなりいなくなったものだから」
鷹は目を伏せて、グラスを口にする。なるほど消されたか。
「それで俺達に回った訳ね。それはそれでいいけど。何だってわざわざここいらくんだりまで、あの方々は、いらっしゃる訳?」
「さあ。そこまでは一介の事務員には判らないわよ」
マルタはそらとぼける。
「でも、ずいぶんと警護関係が、増えてるようね。…無駄なのに」
「そうとも限らないでしょ」
「そう思うの?」
「まあね」
祝典が近づいているのだ。鷹はオリイと宿泊先に向かう途中、通ってきた道の光景を思い出していた。
あちこちに、迎祝のムードが漂っている。街灯には造花が飾られ、道の両端の店々には、歓迎の文字が踊っている。
そしておそらくこのプラムフィールドの公会堂であろう、四角い、クリームを塗りたくったケーキのような大きな建物は、何かしら、業者が入り込んで改装の仕上げをしている、という雰囲気だった。
ここ数年、そういった祝典があちこちで行われている。「皇室」もしくは「帝室」のやんごとない人々は、交代であちこちに視察に出向く。おそらくその一つだろう、と彼は考える。
そして、それを狙ったテロリストもそのたびに現れ、それはまず、必ずと言っていい程検挙され、実際の数よりたくさんの人数が、戸籍を消される。
無駄なのに、とマルタは言った。そう、確かに、ただのテロリストでは、それは「無駄」な事なのだ。
「だとしたら、あなたやっぱりカンがいいのね」
「昔っからそう言われているよ」
「そう。あなたの思う通り、それを何とかできるのは、そういないわ。だけど全くいない訳じゃない。そうでしょ?」
彼はぱく、とパスタを口に入れながらうなづいた。オリイは黙々と自分の前の皿の中身を片づけていく。極端な程に、その中にはそのメニューのメインのような海産物が欠けていた。
「つまり、あなたには、それを見つけだして、無駄なことはやめる様に説得して、連れてきて欲しいの… それに、あなたが探している人の条件にも」
とん、と彼はフォークのお尻をテーブルについた。マルタは慌てて言葉を止めた。心臓の鼓動が高鳴るのを彼女は感じる。
「で、その相手の、現在位置は判るの?」
「判るわ」
マルタはうなづいた。
「このウェストウェスト全般のチューブを経営している、LB社に居るのよ」
「LB社」
彼は繰り返す。
「あまり外では聞いたことのない名だね」
「割と最近よ。元の輸送専門の、MA電気軌道が名前を買えたの。総合企業体を目指しているのかしらね。…で、ここ数年で、急速にあの会社がここいらのチューブをとりまとめるようになったのは。サーティン・LBが出てきてからね」
「ここいらでは名士?」
「いいえ、出身は違うみたい。でもしばらく、こっちの銀行やら企業で色んな役を経てきたみたいね」
「経験豊富」
「というか、トップに立たない限りはただの器用貧乏、というタイプかもしれないけどね。保守的な上層部には嫌われるタイプってあるでしょ」
彼は全くだ、と実感を持ってうなづいた。
「それが本当の器用貧乏なのか、才能の一端しか見せていないか、ということを見分けられない上司の下に居るんじゃ不幸、ってタイプってことだよね」
「たぶんね」
マルタはフォークとナイフを斜めに置き、ちら、と半分無くなったグラスに目をやる。
鷹はそれに気付いたのか気付かないのか、さりげなく近くにあった深い緑色のボトルを手に取ると、彼女のグラスに注いだ。
「ありがと。あなた時々、職業間違えたんじゃない、って思うわよ」
「俺だってそう思うな」
すっ、とボトルの液体を、こぼさずに引き上げながら、彼は全くだ、と自分の中で繰り返した。それで済めば、世界は自分にとって、とても平和なのに。
「その、サーティン氏と、あなたの言うその人物は何か直接に関係があるの?マルタ」
「五年前は、ただの一事務員だったのよ。ところが、今年になって、いきなりその社長付きの秘書の一人に抜擢されてるのよ」
「ふうん?」
「確かに能力のある者は抜擢する、という風潮はあるのよね。結構飛び級的に良い役に付く人もいるし、その逆に、業績悪化や、客に悪い印象を与える所動をした人は降格。だけどある程度の家庭事情とかそういうのは考えられているし…」
「サーティン氏一人でそうそう目が行き届く?」
「ああそれは、内部にそれなりにちゃんとそういう内部監察の組織があるみたいね。ただし隠密裡にらしいけど」
ふふ、と彼女は笑った。
「で、その能力のある人でも、初めは、履歴も隠されて下っ端に回されることが多いみたいね。それで現状を良く知った上で、それぞれの能力に見合ったポストを用意する、っていうか…」
「すると、その人物は、当初から能力を見込まれていたってこと?」
「という可能性もあるし。その内部監察の集団が、その人物の特異性に気付いて、社長に上申したってことも考えられる訳よ」
なるほど、と彼はうなづいた。
天使種にとって、その正体を隠したいのなら、一所には留まらないのが原則だ。一つの企業で精を出して働くなど、もっての他だ。
最高十年というところだろう。大抵が、最も活動に適した肉体の時間で止まっている筈だから、それ以上に老いない、ということは、周囲の人間の疑惑を持たれるもととなる。
今の彼の属している組織は、その種族であることが前提だから、それは問題にはならないが、普通の、変化も進化もしない人間達の間では、それは致命的なものだろう。
「その人物は、それじゃどうして、馬鹿なことをたくらんでいるんだろう」
「それは判らないわ。それは鷹、あなたのほうがよく知っているんじゃないの?」
「どうかな」
彼もまた、フォークとナイフを、斜めに置く。オリイも既に、半ば退屈そうに、二人の話を聞いていた。
するとウェイターがやってきて、食器を片づけ、代わりに小さな皿が置かれた。
大皿に盛られた小さな、色とりどりのデザートが、彼等の前に差し出される。乳製品の香りがややきついかと思われる一片と、香り高い赤い実を使ったタルトを選んだ彼女の後で、オリイは果物がふんだんなデザートを数種類選んだ。そして鷹は丁重に手を振る。
「相変わらずあなた、果物は好きね」
オリイはうなづいた。
「…それで鷹、話は戻るけど」
「まだるこっしいね」
唐突に口調が変わったのを、彼女は気付いた。
「あなたはあの時ルナパァク、って言ったよね、マルタ。だけどここはプラムフィールドだ。そしておそらくは、直接的に危険があるのは、ここだろ?」
「そういうことになるわね。ここがチューブのターミナルですもの。チューブという形を取る交通機関では、おそらく居住空間一じゃないかしら、総合発停車駅というものとしては」
「だけどあなたはルナパァクと言った。つまりは、その相手は、現在ルナパァクに居るという訳?」
「あら、もうそんなこと気付いているかと思っていたわ」
くすくす、とマルタは口に手を当てる。
「そうなのよ。ルナパァクにその私達が探す相手は居るわ。シェドリス・Eと呼ばれている筈ね。あの辺りが、LB社の戦後再開発の、ちょっとした問題になっているの。それで、彼が抜擢されて、そこを何とかするべく、苦闘しているって訳」
「なかなかやりがいのありそうな仕事じゃないの」
「ねえ。全く。それだけやっていれば平和じゃないの。でも私達は彼じゃあないから、何でそんなことするか、なんて判る訳じゃあない」
「じゃあ何で、彼がやらかす、なんてあなた達は推測できる訳」
「それは私には判らないわ」
彼女はぱく、とチーズの香りのする菓子を口に入れる。濃そうだな、と鷹は思い、あの菓子を食べられた後にはキスはしたくはないな、と頭の片隅で考える。
「マルタ」
「本当にそれは私は知らないのよ。それを知ってるのはマリーヤのほうだわ。聞くなら彼女に聞いたほうがいいわね。動機までは私は決して推測はできないもの。それこそあなたのほうがよっぽど判るんじゃないかと思うわよ」
鷹は眉を軽く寄せた。
するとふっと柑橘系の香りがするのに彼は気付いた。オリイはオレンジの皮にくっと爪を立てている。その皮から香りが飛んだのだ、と彼は気付く。
オレンジを食べられた後なら、きっとキスしてもいい感じだろう、とやはり彼は頭の片隅で思う。
「だから、その上で、阻止して、…まあその上で、ずっとこのLB社に居着くつもりなら、それはそれでいいのよ。ただ、そうでないなら、そうでないなりに考えなくてはならない」
「で、俺はそれを考えなくてはならない訳ね」
「それはそうでしょう」
そして彼女は再びさっくりとチーズの香りのするデザートにフォークを差し込む。
「それがあなたの仕事なのだから」
*
寄っていかないのか、という問いにマルタは首を横に振った。
「今回の私の仕事はここまでよ。でも用があったら連絡して」
「うん。この仕事片づけたら、マリーヤに会いに行くと伝えてね」
そして彼女は手をひらひらと振った。さて、と鷹は大きく息をついた。
彼女には、いつもほんの少し、悪いと思う。だけどそれ以上の気持ちは彼は持たなかった。
彼女だけでない。誰に対しても、深い気持ちを持ったことはない。全く今までに無かった訳ではないが、もう長いこと、そんな気持ちが自分の中を埋めることは無かった。
ぱぁ、と路面電車が左右に走り抜けていく光と音が、ぱかぱかとけたたましく過ぎていく。その拍子に生まれた風が、ふっと彼の脇を通り過ぎて行った。
ふと、オレンジの香りがしたので、彼は振り向いた。後ろに居たオリイが、くくっていた髪を解いているところだった。彼は近づくと、その手を取って、オレンジの香りが残る指先に軽くキスをした。
するとオリイはほんの少し首を傾け、首に手を回すと、彼が指にしたのと同じくらいに軽いキスを唇に返した。
鷹はかすめるようなそれを平然として受け止めると、肩をすくめ、相棒兼被保護者の髪に手を入れる。
「お前髪、相変わらず伸びないね」
オリイはそれを聞くと、ほんの少し、唇の端を上げた。
本当に、伸びないのだ。
最初に出会った時、まだほんの子供だった時も、背中の半分に行くか行かないか、くらいの長さだった。それから切った様子も無いのに、それから十年以上は経った今でも、やはり背中の半分に行くか行かないか、だった。
気にはなったが、気にしないことにしていた。気にしたところで何かなるという訳でもないし、それ以上に気にしている余裕は彼にはなかったのだ。
だが時々、こんな仕事のすき間の様な時間に、ふっと、その疑問は彼の中をかすめて行く。
長い、黒い髪は、誰かを思い出させる。
自分が好きだった、自分を好きだった、そして自分を裏切った相手。
出会ったことで、自分の運命まで、どうも変えてしまったらしい相手。
その相手に今でも会いたいのは事実だ。この仕事をしている理由の一つだった。
花園の園主は、何をどれだけ知っているのか知らないが、彼に、そのことをほのめかした。あなた誰か探しているということはない?
何故そのようなことを聞くのか、と訊ねたら、マリーヤは落ち着いた笑みを浮かべ、そんな人が多いのよ、と答えた。さほど美人という訳ではないが、頭の切れる女性だ、という印象を彼は受けた。
ただ、何故会いたいのかは、彼もよく判らなかった。
何せその相手と、最後に顔を会わせたのは、戦場だった。
自軍と自分を裏切ったその相手は、ひどくやるせない表情を浮かべながらも、それでも本気で自分に立ち向かってきた。
自分がかつて教えた生き残り方を、忠実になぞって。そして忠実だったから、相手に勝ち目は無いことは、判っていた。
そして、相手は「墜ちた」。文字通り、戦っていた、高層の建物の屋上から、身を翻した。
だが、その相手は、その空間から、姿を消した。
鷹はその時、相手が同種の中でも、特別な存在であることに気付いた。
死んではいないだろう。死なせはしないはずだ。天使種であるならば、その身体は、その持ち主を。
その足で彼は自軍を脱走し、居たくない地平を後にした。50年も昔のことだ。
もっとも、ずっとその相手を探していた訳じゃない。それどころでもない日々が殆どだった。本当に忘れている時もあった。だが、やはりこんなふうにふっと気を抜くと、あの姿が、まざまざと自分の前に現れるのが判るのだ。
そして思う。
いつか必ず、会わなくてはならない。
その時、まだその相手に執着があるのか、それとも殺したいくらい憎いのか、自分の気持ちの正体が判るのかもしれない、と彼は思っていた。
そんな風にとりとめもない考えを巡らせていたら、今度はもう少し深く、被保護者はキスを仕掛けてきた。
「お前意味判ってやってるの?」
離れた唇で、彼はつぶやく。
オリイの目はほんの少し楽しそうに細められる。彼にしか判らないくらいに、それは僅かなものだった。この相棒は表情が少ない。いつの間にか、彼はその僅かな変化を読みとるようになっていた。
繰り返される。だがそれは日常茶飯事だった。とは言え別段それ以上の関係になることはない。
十年少し前に拾った子供は、彼の止まった時間を越える手前で、保護者兼相棒にそんなことを仕掛けてくる。鷹はそんな相手にやや戸惑いつつも、したいようにさせていた。
胸の中には、乾いた砂が、広がっている。ほんの僅かな水では、決してそこは生き返ることが無い。