「遅くなるの?」
戸口で声がした。ディックはほんの少し驚きながらも、扉を開けようとした手をポケットの中に戻す。
「ま、ね。一応幼なじみと会うわけだし」
ふうん、と彼女は後ろで手を組みながら、気の無さそうな声で返した。
「何、まだ怒ってるのかよ、サァラ」
「別に怒ってやしないわよ」
そう言ってぷい、と彼女は横を向く。嘘付け、と彼は黙って肩をすくめる。頬が赤い。
「昔からの友達だったらはじめっからそう言えばいいのに」
「そんなこと言ったってなあ」
別に自分にとっては、昔なじみじゃないのだから。彼は内心つぶやく。
まあいい。何にしろ彼女はすねているだけなのだ。上から下までざっとその身体に視線を走らせる。短い、黒い髪が乱れている。シャツがしわだらけだ。彼は苦笑する。そして彼女に近づくと、くしゃ、と乱れた髪に指を差し入れた。それに釣られるように、彼女は目を細めて彼の顔を見上げる。
「仕事、忙しいのか?」
「ちょっとね。ううんそれはあたしのせいなんだけど… うん、それはいいのよ。別に」
はいはい、と言いながら彼はサァラを引き寄せ、回した手で背中をぽんぽんと軽く叩く。
彼女はディックの胸に顔を埋めると、しばらく黙ったまま、目を閉じていた。彼はその間ずっと、背中を撫でたり叩いたりしている。彼は彼女がそれで安心することを知っていた。出会った頃からそうだった。そして今でもそうなのだ。
もういいかな、というタイミングを見計らうと、彼はゆっくりと掴んだ彼女の肩を外に押し出す。彼女はうつむき加減に、ごめんね、とつぶやいた。
「いいよ別に。いつものことじゃん。んでも、着替えてこいよ。もうじき、レベッカやアーミィが来るんだろ?」
「うん。そうよね。お仕事、…彼女達が、手伝えるようにはしなくちゃね。ごめん」
この同居人兼恋人は、部屋の中に小さなオフィスを持っている。同じくらいの女友達二人をスタッフにして、彼女は端末を数台置いて、電脳世界のデザイナーをしていた。
忙しくない時は、何をしていいのかさっぱり判らないくらい暇なのだが、忙しい時には、それこそ時々眩暈を起こして倒れてしまうくらい忙しい。
むらが多く、しかもいつも自分の気に入る出来になるとは限らない。そんな自分の気に入らないものでも、向こうはそれなりに評価したり、自分ではこれだ、と思った時でも向こうが気に入らなかったり…
スタッフの二人にしても、友人としてはともかく、彼女よりは腕が劣るのはディックの目から見ても確かだったので、そのあたりに彼女は時々苛立ちを覚えるらしい。
だったら別の仕事にすればいいのではないか、と彼もさすがに時々思う。
だがよくよく考えると、それはもっと難しいことに彼は気付くのだ。彼女には、その別の仕事を手に入れるための手腕はあっても、公的な身分が無いのだ。
彼女はこの街にはよく居る、戦争で身よりを無くした流れ者の一人だった。この元遊園地コロニーのルナパァクは、流れ来た者を、手を広げて迎え入れはしないが、追い出しもしない。
おまけに、やって来た当初は、どんな世界をたどってきたのか、記憶がずいぶんと混乱していた。
さすがに、最近はやって来る少し前のことも、ぼつぼつ思い出すだけの余裕ができたようだが、子供の頃のことなると未だにさっばりであるし、何故わざわざこのコロニーを選んだのかということになると、時間的には最近なのに、全く判らないのだという。
過去が、ふわふわとして掴みどころが無い。
彼女の不機嫌の理由が、自分の会う相手が「昔なじみ」であることにもあるのは彼も気付いていた。それが本物であろうが無かろうが、彼女にはそれは存在しないのだ。
それだけに、自分の腕だけで何とかつながりを作り、その実体の無い世界で…実体の無い世界だから作り出せるものに対して、愛着を持っているのかもしれない、と彼は思う時がある。
ひどく、不安定。出会った時もそうだったし、今でもそうだ。
そしてその部分が、時々ひどく愛しい。
「なるべく早く切り上げてくるよ。だからサァラも、手持ちの仕事、早く終わらせちまいな。晩メシは外に食いに行こう」
「うん。そうだね。うん最近、そういうことなかったね。そうしよ」
彼女はうなづく。そして彼はもう一度彼女を引き寄せて、軽いキスをした。
*
ポケットから手を出して、彼は空をふりあおいだ。とりあえずは仕事だった。
彼の住む、こまごまとした箱が重なりあったような、元々は安ホテルの集合体だったアパートメント地帯から一歩外に出ると、更に雑多な空間が広がる。
顔馴染みのホッブスの店もそうだったが、この街には、公用アルファベットと中華文字が同じ位の比率で空間を埋めている。看板、ネオンチューブ、ポスター…そのほとんど全てが、この二つを同居させていた。
とは言え、話す言葉はやはり公用語が中心だった。流れ来た住民が話す言葉はとりどりだったので、その多様な言語をとりまとめるものは、と言えば、やはり公用語でしかなかったのである。そして中華文字は、このルナパァクの、戦争前の遺物でもあった。
原色の、強調された、決して流れない文字が、そこには在る。
ウェストウェスト星域には、公用語を使う文化圏の人間が多かったのだが、このルナパァクに関してはそうではなかった。いや、公用語を使う文化圏の中でははじき出された、別の文化圏の人間が仕事を得るには良い所だったのかもしれない。それが現在も、入るも自由、出るも自由という気風を作り出している。
彼はそんな雑多な街に、いつものように、足を踏み出す。仕事の時間なのだ。
十階には満たないビル達が、灰色のコンクリートの肌を剥き出しにして、僅かな背の差を比べるようにして並んでいる。彼はその一つに入った。
曇りガラスの入った重い扉を開ける。ガラスには、やや植物的な曲線で「Dear People」と書かれている。
それが彼の勤める会社の名であり、そこから出している雑誌の名前だった。無茶苦茶に部数の多い雑誌でもないし、決して全星域にどうの、という類ではない。このルナパァクに基盤を置き、ルナパァクに住む人々のために出している総合誌と言ってもいい。
「お早うございますーっ」
声を張り上げる。すると中でデスクワークをしている数名の同僚が、ふっと顔を上げ、おはよう、と彼にあいさつを返した。彼はそのまま自分の席につき…そして何かいつもと違うのに、気付いた。
「あれ、ドーソンさん…」
彼は自分の前のデスクのドーソン「女史」に語尾をぼかして、親指を立て、ちら、と視線を動かした。
「そうなのよ」
彼女もまた声をひそめる。そして斜め横に視線を移す。いつもだったら空きっぱなしで、物置と化しているデスクに、見慣れない顔があった。
よくよく俺は黒髪に縁があるな、とディックは思う。その見慣れない顔の人物は、背中くらいの黒い長い髪を、緩い三つ編みにしていた。
そしてディックは手にしていたボールペンで軽く、参考書類の山の上を叩く。金色の髪をふわりと後ろに流した女史は眼鏡の位置を軽く直した。
「…あのさ女史… どっちだと思う?」
「どっちって?」
「男か女か」
「…え? あ、あら私、女の子だと思っていたけど…」
「いや俺も、ちとばかりそのへんが怪しくてさ。賭けない?」
「よしてよ。君のカンに私が勝てる訳がないでしょ。…ボスが来たら聞くのが一番ね…」
ひらひらと手を振る女史に、そうだね、と彼はうなづいた。
とは言え、ちらりと見るその新顔は、確かにどちらとも言い難い雰囲気を持っていた。
長い黒い髪だけではない。大きな、ややきついとも言える目にしても、その顔立ちも、女の子と言えば女の子にも見えるし、女顔の男と言おうと思えば言える。身長は割とありそうだ。まあ自分よりは低いだろうが、サァラに比べればずいぶんと高いだろう。
やがて彼等のボスである、この「Dear People」の編集長が入ってきた。そしてお、という表情をすると、ぺこんと無言で頭を下げる新顔に対して、君が彼からの紹介のアルバイト君か、とか声をかける。
ディックはその様子を、耳をそばだてて聞いていたが、どうやらその必要はなかったようである。ボスは低い声を張り上げた。
「ちょっと聞いてくれ」
デスクに向かっていた総勢六人のスタッフは、一斉にボスの方を向いた。
「今日からしばらく情報整理のために来てくれるオリイ君だ。よろしく頼む」
そしてその言葉につられるように、オリイ「君」はぺこん、と頭を下げた。言葉は無い。
「…で、彼はちょっと喉に障りがあって、口が効けないので、承知しておいてくれ。耳は関係無いので、ただ、彼からの話は筆談になるが…」
スタッフ達はうんうん、とうなづいてみせる。そういうのはこの流れ者の多い街では、決して珍しいことではないのだ。
*
だがその喋らない新入りは瞬く間に、彼の仕事場では人気者になった。何せ無駄なことは言わないでよく働くし、端末を扱う指は早いし、間違いも少ない。
そして話しかければ、その綺麗な顔でにっこりとしてみせる。話しかけた相手が気持ちよくならない訳がない。
「それにしてもあの子よく働くわね」
ドーソン女史までも、そう評した。彼女は滅多にこういうアルバイトの端末使いを誉めることはないので、さすがにディックも驚いたくらいである。
「情報の選び方も上手いし… 君、確か今詰まってるんじゃなかったっけ? チューブの件」
「あああああああ… それを言わないで下さいよ~」
ディックはこの小さな会社が出している雑誌の中では、なかなか長期展望にあたる記事を任されていた。彼のマシンとメモの中では、それは「LB社の発展」もしくは「MA電気軌道の展開」という仮タイトルがつけられている。
ここに住み、登録されている人々の姓が全てアルファベットで呼ばれるように、その会社もまた、そのように名がつけられていた。
「何が一体厄介なの? 君こういう関係の記事は好きでしょうに?」
「そらまあそうですがね」
彼はやや口元を歪める。だが現実にそこにある会社について…しかも現在のこの星域において力を持っている会社について書くのは難しい。
以前に住んでいた所では、まだその加減を知らずにキーを叩きまくり、あちこちに睨まれ、とうとう居ることさえできなくなった。ペンは剣より強し、という遠い昔のことわざがあったらしいが、それは嘘だ、と彼は思ったものである。
とはいえ、無論、相手の動静を頭に入れた上の「ペン」には効果があることは彼も知っていた。だからこうやって、流れ来たこの地でも、「ペン」から離れられない。
「まあいいけどね。でも時間はいつまでもある訳じゃあないから、がんばんなさいよ」
へいへい、と彼はドーソン女史の言葉にうなづいた。
*
ボスが時計を見て、もういいよ、とオリイの肩を叩いた。弾かれたように彼はボスを見上げた。そしてにっこり笑うと、ぺこんと頭を下げた。
もうそんな時間か、とディックもまた時計を見た。そして彼は上着を取り上げる。
「あらもう今日は切り上げ?」
「うん、ちょっと今日は人と会うんだ」
「ああディック、出るならちょっと彼を外の停車場まで送ってやってくれないか」
「へ?」
編集長の言葉に彼は思わず問い返す。
「そうよね、送ってあげなさいよ」
「迷っちゃいけないし」
デスクの女性達も面白そうに口々に言う。ディックは肩をすくめつつも、ちら、とオリイの方を見た。すると端末の電源を落としながら彼はまたにこ、と笑った。
ビルから出て、三分ほど歩いたところに停車場がある。そこから路面電車が走っている。この街の、近場の足である。
だがその三分にしても、正直言って、ディックはどうしたものか戸惑っていた。男にしろ女にしろ、普通に会話が続く訳ではない。すると当然のように、彼はあたりさわりの無いことを独り言のように言いながら、歩き続けることになる。
だがふと、その隣を歩いていた相手の足が止まった。そして手を振る。何だろう、と前に視線を飛ばすと、停車場の壁に、細身の男がもたれかかっていた。
何処かで見たことがある、と彼は思った。ぺこん、と頭を下げて、オリイはその男のほうへ駆けていく。ゆるく編んだ三つ編みが駆け出す足取りに合わせて揺れた。
明るい茶色の髪の男は、駆け寄ってほとんど抱きつく勢いのオリイを受け止めると、ぽんぽん、と背中を叩く。その光景にディックは今朝がたの自分達の姿を思い出した。そういう関係なんだろうか、とふと彼は思った。
ふっとその男が、彼の方を向いた。
「ああ、また会いましたね」
え、と彼はその張りのある声に、それが先日ホッブスの店の前で見た男であることに気付いた。
「あんたは…」
「先日はどーも。あれ?もしかして、こいつのアルバイト先の人なんだ?」
「え? ええまあ。…ってことは、あんた」
「いや、先日はおかげさまでホッブスさんと久しぶりに語らえましたよ」
「あ、じゃあホッブスさんが言ってた客はあんたなんだ。…えっと、オリイ君… とは、友達?」
「って言うか、同居人」
ああ、とディックはうなづいた。どうとでもとれる言葉だが、どうとでも取ってもいいような気がした。自分とサァラも一応「同居人」である。
それではまた明日、とオリイの連れはオリイとは比べ者にならないくらい露骨な笑みを浮かべると、手をひらひらと振った。
はて、とディックは何となく、光と闇がそこに一度に置かれたような錯覚を起こした。だがそれは何ってよく似合っていたことだろう。
*
ギ、と音を立てて、上半分しかないような扉を彼は押した。煙草のにおいやグラスを合わせる音、皿を集める音、笑い声がその中に詰め込まれている。
既に夕刻も過ぎ、カバンを持つ仕事帰りの勤め人、起き抜けのような目をしたこれから仕事に出ようとする人々、顔は既に脂が浮いているのに、これからが遊ぶ本番だとばかりに満面の笑みを浮かべている女性達。
彼はこんな時間は好きだった。もっとも、いつもはこの時間は、あくまでもまだ仕事の途中なのだが。
レ・カの映像の記憶を頼りに、彼はあちこちのテーブルに視線を飛ばす。黒髪黒髪…
そしてそんな彼の様子に気付いたのか、一つのテーブルから、黒髪の男が立ち上がった。あああれだ、と彼は焦点を合わせる。
「やあ」
相手は低い声を立てた。
「突然呼び出してしまって悪かったね、ディック」
「いや、…それはいいんだ」
「予定は大丈夫?何だったら手短かに済ませるから」
「あ、それは…うん、今日は食事を約束しているから、ここでは軽く、ということでいいかな?」
「もちろん。無理にとは言わないよ」
ディックはそう言われてようやくほっとして、相手の姿をまじまじと見た。幼なじみというくらいだから、自分と大して変わらない歳のはずだが、そのわりには、ずいぶんと若々しい印象を受ける。黒い髪はやや長めで、ざっと後ろでくくっている。穏やかな笑みを浮かべた顔には、薄い青の瞳。へえ、と彼は今更のように驚いた。彼女と同じ色合いだ。
それが彼に、何なし安心感を抱かせた。
「とりあえず、呑もうか。久しぶりの再会に」