さて同じ店内の、幾つものテーブルを越えた向こう側に、やはり食事をしている二人連れが居た。
「…なかなかいけるなこれ…」
もぐもぐ。
「お前ももっとお食べよ」
首を横に振ると、黒い髪が、揺れた。
揚げたジャガイモとチキンと緑色の花野菜を交互に口に放り込みながら、鷹は時々ビールに口をつけて、そしてその合間に相棒に話しかけていた。
無論相棒は話さない。ただそのたびに、短い単語の集まりを素早くその場に書き付けていく。鷹はそれを見て、言いたいことを判断し、確認してやる。ざわめく店の中では、彼等のやや不自然とも思える会話は、決して目立つものではない。
オリイは時々ジャガイモをつまみ、そして目の前に置かれたフルーツバスケットは独り占めしていた。南国の、香りの強い果物が、スライスされ、これでもかとばかりにてんこ盛りになっている。それに楊枝を突き刺しては、口に次々と放り込む。
『あれがシェドリス?』
「ああ。その様だね」
『違ったの?』
オリイ、と鷹は苦笑いを返す。だが言われた側は、そんな彼に対しては表情一つ変えない。
元々この被保護者の表情の変化が少ないことは彼もよく知っていた。笑顔を作ることは、後で教えて、覚えたことだ。だからそれが何処までこの相棒の本気なのか、鷹自身もよく判らなかった。
いや、何を考えているか、なんて今まで判った試しがないのだ。それが手に取るように読めて、そしてそこがひどく可愛く感じた、あの遠い記憶の相手とはまるで違う。
同じ文字を、テーブルに再びオリイは描く。根負けして鷹は口を開く。
「違ったよ」
そう違った。また違ったのだ。そのことを、誰かを探していることを、相棒は知っている。だがそれを、その行動をどう思っているのかはさっぱり判らない。
それは引き取った時からそうだった。本当に、考えてることが、さっぱり判らない。
ホッブスから無理矢理のように押し付けられた時には、鷹にしても、まあいいか、という程度の気分しかなかった。
実際その「子供」を引き取ったおかげで、偽造IDは入手できた訳だし、その時ホッブスは、とにかく連れ出してくれればいい、その後のことは知ったことではない、という類のことを彼に言った。
だから、途中でいい引き取り先があれば、そちらへ手渡せばいいかな、と軽く考えていたのも事実だ。
だがその「気分」は現実の前に、もろくも崩れ去った。彼が、オリイを連れて、そしてSecret Gardenに入り込むまでの、数年間は、それまでの一人で居た時間より、ひどく長く、密度が高い時間だったのだ。
幾度か、引き取り手になれそうな人々が現れたこともある。その方がオリイにとっても良いのではないか、と鷹も思ったし、手を離しかけたこともある。
だが、気がつくと、その黒い髪は、視線の下にあったのである。その大きな黒い瞳が、自分を見上げていた。
そしてその見上げる視線の位置が、年を追うごとに次第に上がって来る。首をくっと上に向けて、腰にしがみつくようにしていた子供が、今ではその手を自分の首に回す。
やはり、何を考えているか判らない。言葉が無いというのが、時々ひどくもどかしくなる。もっとも、言葉が全てを言い尽くすとは限らない。どれだけ言葉をつないでも、判っているつもりでいても、結局自分は、あの相手が自軍を裏切ったことは読めなかったのだ。
オリイは楊枝にマンゴーの一片を突き刺すと、口の中に放り込む。
気がつくと相棒は、いつもこんなものしか食べていない。
逃走の途中でも、本当に何も無い時以外、動物性タンパク質の食物は口にしないのだ。それで身体がもつのだろうか、と思うのだが、それは全くもって平気らしい。何と言っても、この自分についてくるのだ。
シャンブロウ種か。
一度きちんと調べてみないといけないな、と彼は思う。
*
「きっと忘れられてしまってるんじゃないかなって思っていたんだ」
言いながら、目の前の黒髪の男は、運ばれてきた料理に手をつける。とろりとした具沢山のシチュウの上に、パン生地を乗せて焼いたものだった。
それを優雅な手つきで突き崩しながら、シェドリス・Eはビールにナッツをかじるディックに向かって言った。
「僕一人で、済まないね。さすがに今日忙しくて、お腹が空いてしまって」
「いやいいよ。食事の場所に来て、しない俺も悪いんだし。だけど今日はさすがに約束してしまったんだから、それは守らりたくて。すまないね」
「彼女?」
シェドリスはそう言って目を細める。
「うん、彼女。というか、一緒に住んでる奴。ちょっと最近忙しくて、気持ちが不安定っぼいから…」
「ああ…」
ふわふわとうなづく相手の姿と、彼女の姿が妙にだぶって見えるのをディックは感じていた。時計をちら、と見て、この時間になったら帰ろう、と胸の中でつぶやく。
「…それはそうと、君、今何やってるの? 昔はお互い夢が色々あったねえ」
「夢は、夢さ。今はしがない雑誌記者だよ。このルナパァクの地域誌って感じのものかな」
「へえ、すごいじゃないか」
皿のへりについたパンを上手くはがし取り、相手はそれをシチュウの中に入れた。
「別にすごくはないさ。今だってまあ…」
途端に現在の滞っている仕事が脳裏によぎる。ああ全く何だってあんな題材を引き受けちまったんだ。
「今はどんな記事を担当しているんだい? 地域誌だってことは、色んなニュース? それとも観光案内的な…」
「どっちかというと、社会面。それでもってやや文化面ってとこかな」
「ふーん。例えば?」
「…そうだな、今書いてるのは、ほら、LB社ってあるだろ?」
「LB社? うん」
「あれがMA電気軌道から発展してった時の道のり、みたいなことを、現在のサーティン氏を中心に描いていく、まあ半分読み物みたいなものだよ」
「じゃあ立志伝みたいなものかな」
どうだろうな、とディックはビールに口をつける。
「サーティン氏は、僕は素晴らしい人だと思うけど」
「確かに、調べてみると、面白い人物だとは思うね。だけどそれをまとめるとなると別だけど… ところで、君は、シェドリス、今何をやってるんだ?」
「僕?」
彼はグラスを手に取ると、中に浮かべられたレモンを軽くマドラーで押した。途端にカクテルの色が淡いものに変わる。炭酸の泡が、弾けた。
「たぶん僕は、君に結構協力できると思うよ」
「え?」
「僕は今、LB社に勤めているんだ」
偶然とは、こういうものだろうか、とディックは思った。
「勤めて? …けど君は、確か、D伯に昔、引き取られて…」
「まあね。でもそれは昔のことだよ。あれから、色々あった。D伯の所にずっと居た訳じゃない。君だって、色々あっただろう? 小さい頃から今までには」
「そうだね」
ディックはうなづく。そう、確かにそうだ。
「だからそれはまあ、今はなしにしておかないか? 僕は、ディック、今の君のほうが興味あるね」
「だけどシェドリス、君だって、LB社勤務なら、結構なものじゃないか」
「さてどうかな。まだほんの見習いのようなものさ。何年か、本当に下っ端の下っ端をやってきたんだけど。ようやく、これから、ってところかな。それでここにやってきた次第さ」
「へえ」
ディックは大きくうなづいた。
「まあそれでも、会社に入り込むことは、僕の顔で何とかできるよ」
「…じゃあ、またいずれ、文献とか漁らせてもらおうかな。何と言っても、君の会社、何か実にガードが固くて。…でもそんな会社なのに、いいのかな」
*
いい訳ないだろう、と遠目に二人の会話を読んでいた鷹は、つぶやいた。オリイはそれに気付くと、テーブルの上にするり、と文字を連ねる。
『偶然なんて、無い』
「そうだよ偶然なんて無い。シェドリス・Eと名乗ってる奴は、明らかに、あのディック君を狙ってきてるのさ」
『だまされてる?』
「いや、そうとも限らないだろ。ディック君にしたところで、彼は彼で隠していることはあるだろうし」
『隠している?』
「つまりはね、オリイ。あれはどっちも偽物ってことさ」
オリイはそれを聞くと大きくうなづいた。
「確かにその昔、ディックという子供と、シェドリスという子供が、この街で育ったのは事実さ。だけど、今ここに居る二人はどっちもそれじゃない。ホッブスが言っていたよ。あそこに居るディックは、数年前に、どさくさに紛れて同じ名の人間の籍を入手した奴だ」
まあだがそれはいい、と鷹は思う。それはよくあることだ。
「問題は、何故彼に接触するか、なんだ」
『何で?』
「それがいまいちね…」
ふうん、というようにオリイは首をかしげる。
実際、材料は揃いつつあるのだが、その材料が、どうつながってくるのかが彼にもよく判っていない。
最終的な目的だけが、彼等には判っているだけだ。すなわち、皇族の訪問の阻止。そしてそれを計画するのが、皇族と同じ… 自分と同じ天使種だった場合。
天使種は天使種の弱点を知る。どうすれば効果的に阻止できるか。ひいては完全に抹殺する方法にしても。
『LB社』
「うんそうだ。ポイントはそこなんだけど。それ以前に、何で奴は、シェドリスを名乗ってるのか、っていうのも気にはなるんだよね」
『何で』
「シェドリス・Eってのは、このウェストウェスト星域において、裏でかなりの力を持っているD伯爵の身内の一人の名だからね」
そう。下調べの段階でもそうだったし、ホッブスから聞いた話もそうだった。
あの昔の戦友は、十五年ほど昔のシェドリスとディックを知っていた。
だが彼の持ってきた3Dフォートに映る、現在のシェドリスを見て、同一人物だと判断した。
成長すればそれなりに人間は変わるものだが、どうもポイントさえ同じなら結構同一人物と言われればそう思うものらしい。曖昧なものだ、と鷹は思う。
「…もっとも、D伯の『身内』の、当時少年だった者は、決して彼一人じゃないし、しかもシェドリス・EはD伯の元からある日いきなり消息を絶っている」
『いなくなった?』
「かどうかは判らないんだけどね。とにかく、マルタが言うところには、そうらしい」
マルタは頼んだ情報はできるだけ速く自分の元に送ってくる。Secret Gardenの中において、園主の側に居る彼女は、各地に飛ぶ園丁達に指令と情報を渡す役割だった。
まあ自分に関しては、指令と情報以外のこともしてくれるのだが。
そういえば、と彼は思い返す。
この相棒は、自分がそうやって指令と情報とそれ以外を受け取った後、あまりいい顔をしない。表情が変わる訳ではないが、何となく不機嫌そうなのだ。マルタについても決していい態度はとらない。それは昔からだ。だったら別に慣れてもいい筈なのに、と思うのだが、この態度は本当にずっと変わらない。
何故だろうか、と考えないこともない。考えられない訳ではない。いや、冷静に頭を働かせれば、もしくはそうでなくても、気付くことはたやすい。
ただ考えることを避けているふしがあることに、鷹は自分でも気付いてはいた。
*
扉を開けると、部屋の中は静かだった。だが灯りがついていない訳ではない。ディックはそろそろと中に進んでいく。
デスクに突っ伏して、彼女が眠っていた。すうすうと寝息を心地よさそうに立てて。
このまま寝かせてやったほうがいいんだろうか、と彼は一瞬考える。だがそれでは、気分のほうは切り替わらないのではないか、と思ったので、ディックは彼女の肩に手を置いた。
「…あ、お帰りなさい」
「ただいま。仕事、キリついた?」
「うん何とかね」
だが上げた顔は、少しばかり疲れ以外のものが浮かんでいた。目の下が、赤く腫れている。泣いたのだろう、と彼は思う。
「今から出られる?」
「うんすぐ支度するわ。…ああ、ひどい顔…」
鏡を手にするなり彼女はつぶやいた。そしてそれをデスクの上に戻すと、彼女はぽつんとつぶやいた。
「…ケンカしちゃったんだ」
「ん? 二人と?」
サァラはうん、とうなづく。
「…別に、まあ何ってことないことがきっかけなんだけど…」
彼女はそれから、堰を切ったように喋りだした。ディックは彼女の話を聞きながら、それでも少しは店で腹に入れておいて良かった、と思う。こうなってしまっては、すぐに外に出るという訳にはいかないだろう。
彼女のこういう態度が「いつも」だったら、自分は決してこんな根気強くないだろう、と彼は思う。彼女は弱音を吐くことが少ないから、時々押し寄せてくる疲れのようなものにひどく弱いのだ。
彼はそれを出会った頃から知っていたから、そんな時には、自分が露骨なまでに彼女に優しくなるのは知っていた。意識的にそうしていた。それがそういう時に彼女には必要だ、と知っていたから。
最初に出会ったのは、数年前。まだ彼も、ルナパァクに来てから一年と経ってはいない頃だった。「外」での記者経験が役に立っていた。その頃彼の居るDear Peaopleでは外回りをする記者が一人減ったばかりで、少しでも経験のある彼は、とにかく何処にでも出されていたものだった。
その時は、流れ込んだ身よりの無い女性達のコミュニティの取材だった。古来からあるように、そのコミュニティも、教会絡みのものだった。彼は許可をもらって、その女性ばかりの場所に足を踏み入れた。
そして8:2の割合で、疲れた顔と希望を持った顔が並ぶ中で、彼女は2の方だった。お仕着せの服を身に付け、黒い髪も、戦火から逃げる途中に切ったのか何なのか、不自然に短かったが、その下の薄青の瞳が、ひどく印象的だった。
インタビウに応じてくれた彼女は、やがてそこを出て外に職を見付けた。そのお祝いと称した夕食を一緒に摂った日から、彼等のつき合いは始まった。
そして、幾つかの季節が過ぎ、彼女が自分の仕事を手元に置いた、小さなオフィスを開きたい、と言った時に、彼等は一緒に住むことにした。
長いようで短く、短いようで、長い年月だった。
そして、つき合いだした時に、彼はサァラの中には、ぽっかりと、暗く深い穴が空いていることに気付いた。断片的にしかない過去は、彼女をひどく時々不安にさせた。だがその不安を、周囲の人には悟られないように、なるべく明るく振る舞おうとする。そんなところが、彼はとても見ていて、切なかったのだ。
「…あ、また言っちゃった… ごめんね。お腹空いてるでしょ。すぐ服代えるから」
「いやいいよ。たまには、デリバリー頼もうか」
そう言ってディックは、ぽんぽん、と端末の一つを叩くと、スクリーンにざっとデリバリーのできる店のリストが上がった。
「何がいい?」
「そうね… うん、ピザがいいな」
「ピザ? もっといいもの頼めよ」
「だって店じゃ大口開けて食べられないんだもの」
「俺の前じゃいいのかよ」
「だってあなたの前じゃない」
それはそうだ、と彼は思う。出会った当初は、人前で食事をするのを嫌っていたくらいの人見知りだった。本当にこうやって食べるのが正しいのか判らない、と言っていた。
足下に何も無いような、不安があるのだ、と彼女は言う。何処の星で生まれ育ったのかも判らないから、もしそれがそこでは奇妙だと思われる習慣だったとしても、それに抗弁する術がないのだ、と。
だから行動がひどく臆病になっていたのだ、と最初に一緒に食事をした時に彼女は言った。既に彼等は彼女がコミュニティから外へ仕事探しに行く時などにちょくちょく会っていた。その薄青の瞳が、不安そうに曇ることがあると、奇妙にそれを故郷の空の色に染めてやりたい、と思った。
故郷は、遠い。
そしてもう既に無いのだ。危険な文章を書いたために追われただけではない。既に、彼の居た星域は、人間の住める環境ではなくなってしまっていたのだ。
ただ、彼女と違って、彼は自発的に流れ着いたクチだったから、街に紛れ込み、居ない人間に成り代わるという技が可能だった。彼女は彼自身がそうなっていたかもしれない姿だった。
…だが結局は、どんな理屈も、関係ないのかもしれない、と時々彼は思う。
同じように流れ着いた女はたくさんいる。その中に若い、薄青の瞳の女も居ただろう。
だけど。彼は思う。自分が見付けてしまったのは、サァラなのだ。
つまりは、そういうことなのだろう、と彼は思う。