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第11話 鷹のオリイとの記憶、サァラの失われた記憶の一部の料理

 全く、と彼は思わず舌打ちをする。

 バケツをひっくり返したような雨が、その時の彼等に容赦なく襲いかかっていた。

 一つ一つの雨粒の直径は、きっとずいぶんと大きいだろう。その水の一粒が、シャツの袖に大きな丸い染みを作った時、嫌な予感がしたのだ。

 鷹は横のオリイをちら、と見ると駆け出す。彼の相棒も、すぐそれに続く。自分の駆ける速度に相手がついて来られることは彼は知っていた。

 雨は、彼等の居た「空扇閣」にも降り出していた。

 「空扇閣」は四大プレィ・パァクの中でも、「空」… 屋外で、大気中を駆け抜けるような乗り物が揃っている様な場所だった。入り込むのは訳無かった。そこは使われていないからと言って、閉鎖されている訳でもない。

 特に、この空扇閣は、他の三つのプレィ・パァクと違って、屋外が基本であったので、そこに居住している者も少なかったのだ。

 ただ、そんな場所で雨に降られるのは最悪、ということは、鷹もよく知っていた。

 無論彼も、そんなつもりは無かったのだ。電視台の天気予報は、昼から雨と言っていたのだ。番狂わせは彼のせいではない。

 飛行機がさびついた回旋塔の横をすり抜け、白い木作りの長いコースターを横目に、彼等は走っていた。

 水滴が、髪を伝い、首筋を流れ、胸元に入っていくのが感じられる。あまりいい感触ではない。

 見上げる空は、それでもただ白い。何だったろう、と彼は、走りながら思う。走るしかないから、そんな時には、奇妙に、別のことが頭の中を駆け抜けていくのだ。

 こんな空を、見たことがある。

 耳には、雨の音と、自分の呼吸の音だけが飛び込む。

 ひびの入ったコンクリートのくぼみに、水たまりができている。無数の冠をその上に作り出している上を、足が無造作に蹴散らしていく。

 穴の開いた、元は黄色と赤だったらしい天幕の下に飛び込んだ時には、シャツはぴったりと肌にはりつき、その下の線をそのまま写しだしていた。

 仕方ないな、とつぶやきながら、鷹は髪をかき上げる。長くはないが、短かすぎもしない明るい茶色の髪は、水を跳ね上げる。顔がびしょ濡れだった。伝う水滴は、蒸留された味がする。

 ふと左横を見ると、相棒はシャツの端を絞っていた。黒い、ぴったりとした長袖のTシャツは、ずいぶんと吸水性に富んでいたらしい。見る間に、足下のコンクリートには黒い染みが広がる。

 どうもそこは切符売場の残骸の様だった。破れた天幕からは、時々溜まった水が一気に流れ落ちる。それはちょっとした滝の音を思い出させる。

 滝の音。白い空。

 そういえば、と鷹は相棒の濡れた髪を見ながら、幾つかの場面が頭の中を急ぎ足で駆け抜けていくのに気付く。

 相棒の濡れた髪は、服の水気を絞りとるのに精一杯な持ち主に忘れ去られているように彼には見えた。そして見えたから、不意に。

 その白い顔に貼り付くそれに、彼は手を伸ばしていた。

 指が頬に触れた時に、オリイはぴく、と顔を彼の方に向けた。

 ああこの目だ、と彼は思う。

 ほんの時々、相棒は、一瞬だけ、こんな目をする。何処か奇妙な形をした瞳。目の錯覚か、といつも思ってきた。思おうとしてきた。それは、相棒が変化しない種族であることを否定するものだったから。

 そしてそれだけではない。そうだこんな、空の白い日だった、と彼は記憶をとりまとめる。



 いくら彼が天使種だからと言って、全てが全て、調子が良いことばかりではない。例えば睡眠不足が続いたり、空腹や、乾きに苦しめられた後では、負傷した身体の再生は、そう簡単にはいかない。

 それは、熱帯の戦場だった。

 一日のうちで確実にひどく強い雨の降る時間帯が存在するような場所だった。草と言わず樹と言わず、とにかく植物という植物が、ありとあらゆる場所に、所狭しとその手を伸ばしているような場所だった。

 さすがの彼もかなり疲労していた。その時の彼の体力を奪ったのは、不眠だった。眠る間も無く、敵がいつ何処から来るか判らない状況だった。相棒は既に自分の側に居た。だがその頃はまだ、足手まといになるかならないか、という位だった。

 やっと伸びた背が、自分の肩を越すか越さないか、というところだった。

 そして、その頃も、今と同じくらいの髪の長さだった。

 鷹は相棒にも銃を持たせ、自分の身は守るように、と言い聞かせてあった。里親に引き取られることを強情なまでに拒否した時の条件だった。自分の身は自分で守れ。俺はお前を守る余裕は無いだろう。

 実際には、結構な割合で、彼は被保護者を守っては居た。だが無論オリイも、それではいけない、ということは気付いていたので、隠れろと言われた時には、呼吸の音もさせないように気をつかい、覚えろと言われた銃の分解と組立も必死で覚えた。撃った時の反動の散らし方も、いざという時の食料の調達法も、ナイフで敵を殺す時のポイントも、とにかく覚えられることは何でも吸収した。

 だが鷹は、一つだけ、自分が上手く教えられないものがあるのを知っていた。負傷の処置である。

 知らない訳ではない。だが彼は、それがどういうものなのか、上手く判っていなかったのだ。彼は天使種だった。多少のかすり傷なら見ている間に治る。腕を折ったり、切り付けられても、一定時間安静にしていれば、自分の中の何かが、自分を生かすために必死の働きをしてくれるはずだった。だから、彼には判らなかったのだ。

 無論形としては教えた。だがその口調に、普段自分が相棒に教えていること程の力はないことは、彼自身がよく知っていた。

 だからその時、それが、ひどく悔やまれた。

 血がなかなか止まらない。痛みは薬で散らそうと思えば散らせるが、そうしたら、この状況でいきなり敵が来た時に、とっさに動くことさえできなくなる。それだけは困る。

 雨が降り続いていた。彼等は絡み合う木々の中に身を隠していた。むせ返るような緑。濃いその匂い。時々行き過ぎる虫達。足下の土がずるり、と抜ける感触。

 木々が彼等の身体を、敵と、雨から守っていた。だがそれでも水は、時々彼等に降り注ぐ。そういう雨なのだ。蒸し暑い大気の水を溜めた重い雲が、その臨界点を越えた時に、一気にその中身を大地にぶちまける。そんな雨なのだ。

 自分が死ぬとは、それでも鷹は思ってはいなかった。ただ、時間が必要であることは、ひどくよく判っていた。腹に大きな穴が空いていたのだ。それを埋めるには、この体力では、確実にまる一日は必要だった。

 そして埋まったからと言って、すぐに本調子が出る訳ではないのだ。

 さすがに本気でやばい、と彼は思ったのだ。

 だから、太い蔓に全身を巻き付かれた、大きな樹の一本に身体を任せながら、彼は被保護者に言った。


 お前は早くここから逃げたほうがいいよ。


 だが相手は首を横に振った。髪から水滴が跳ねた。


 今の俺じゃ、何もできない。お前は一人で、自分の身を守ったほうがいい。


 だが相手は首をひたすら横に振るのだ。

 困ったね、と彼は苦笑した。そこで強く言うだけの気力すら、自分に無いことに、その時の彼は笑うしかなかった。

 だがその時、目の前の相手の瞳が、一瞬、見たこともない形に変わったように、見えた。

 目の錯覚だろう、と彼は思った。視界は決して良い訳ではない。

 それに、そんな形、見たことが無い。

 気がつくと、相手の手が、自分の頬に触れていた。黒い大きな瞳が、じっと自分を、泣きそうな顔で見ている。

 そしてその瞳が、ふっと閉ざされたと思うと。

 …それまでも、決して全くそんなふうに触れ合ったことが無い訳ではない。だがそれは、朝起きた時におはようを言う程度のものだった。とても軽い、鳥がエサをくれる人間の手をつつく程度のものだった。

 だが、それは。

 自分の引き取った「子供」は、いつの間にか。

 視界の端に、見えた空は、白かった。



 それからだ、と濡れて重みを持ったオリイの髪をかき上げながら彼は思う。

 それから彼は、Secret Gardenのスカウトに応じたのだ。

 決められた何かの元で働くことにずっと嫌気がさしていたのに、どういう風の吹き回しだろう、と自分でも思った。

 定住する場所が欲しい訳ではなかった、と思う。はっきり言って、彼自身、そうしたいと思った本当の理由が判らないのだ。

 そうするのは嫌がるのを判っていても、マルタを自分の部屋に呼んで、情報収集と、それ以外のことをする。

 自分は何をやっているのだろう、と彼は思う。

 そして、そんな自分を、この元被保護者は、どう見ているのだろうか、と。

 だがその答えは、もう判っているのだ。

 判ってはいるのだけど。

 微かに見上げる視線が、一瞬だけ、あの奇妙な形を描き出す。

 耳の中には、雨の音が、延々続いている。気の遠くなりそうな、一定の高さの音が、心地よい雑音となって、他の全ての音をかき消す。

 髪の毛が、揺れた。服の裾のしわから手が離れた、と思うと、相手の腕が、自分の首に巻き付くのを彼は感じる。時々、相棒はこんなことをする。

 意味は、判っているはずだ。何度も、何度も、そのたびに彼は訊ねた。答えは無い。だが、判っているはずだ。オリイはマルタをどんな目で見ている?

 重ねた唇は、蒸留水の味がする。乾いていない。相手の腕に込められた力が、その熱さが、彼に相手の思いを伝えてくる。じっとりと、濡れた腕の水の、温度も上がっているだろう。

 だから、その熱につられたのだ、と彼は頭の半分で弁解をする。

 腕を回し、その腕に力を込めてしまった、自分について、彼はそう弁解をする。

 そしてそんな彼の力に気付いたのか、相手はより一層の深さで、彼にそれ以上を、求めてくる。唇から離れた唇が、頬をたどり、耳の脇をかすめる。

 だが、その時、目の前の黒髪が、瞬間的に、一つの映像を彼の中に映し出す。

 彼は抱きしめていた手を外すと、相手の肩を掴み、ぐっと押し出す。髪から水滴が落ちる。唇が赤い。赤い。いつもよりずっと。ああとても綺麗だ。

 だけど。

 彼は、ひどく困惑した顔の相棒に向かって、ごめん、とつぶやいた。

 相棒は、首を横に振る。手を取り、何故、と何度も書き付ける。

 嫌い? と短い言葉が、殆ど叩きつけるような勢いでつづられる。嫌いじゃない、と彼は答える。何を言っている。嫌いだったら、今までずっと一緒に居る訳がない。

 好き? と再びつづられる。好きだよと彼は答える。それも間違いじゃない。決して間違いではない。彼はこの相棒が、とても好きだった。居心地が良い。一緒にこんなに長い時間居る相手は初めてだ。

 では、とオリイは別の単語をつづった。

 そして鷹はそこで言葉に詰まった。

 それは、彼が一度として、使ったことの無い言葉だったのだ。 あの、失った相手にも、そんな言葉は使ったことはない。ただの一人も、彼は、そんな言葉を口にしたことはないのだ。

 いや口にしないだけではない。彼は思う。俺は誰かにそんな感情を本当に持ったことがあっただろうか?思わず左手で顔の半分を押さえる。無い。全く無い。本当に無いのだ。

 相手の視線が突き刺さる。まるで咎めているようだ、と彼は思う。

 わからない、と彼はつぶやいた。嘘、と相手はつづった。嘘ではない。彼は本当に、判らないのだ。その言葉の意味する感情が。


「嘘じゃない。俺は、判らないんだ」


 オリイはその言葉に、目を軽く細めた。

 ひどく、雨の音が鷹の耳の中には大きく響いた。



「どうしたの?」


 サァラは食事の手を止めたディックに問いかける。


「え?」

「さっきからシチューがスプーンからこぼれおちてるわよ」


 くすくす、と彼女は笑う。どうやら仕事のほうにはある程度きりがついた様で、彼女の表情はずいぶんと明るくなっていた。


「あれ?」


 自分の皿は、彼女の半分も減ってはいなかった。ディックはそれに気付くと、慌ててかきこむように、シチューを口にする。


「やだ。そんながっつくもんじゃないわよ」

「じゃどうしろって言うんだよ」

「もう少し味わって食べてよ。久しぶりにちゃんとあたし、料理したんだから。冷蔵庫にはジェリーも作ってあるんだからね」


 スプーンを振り回しながら彼女は言う。忙しくなると、彼女は料理もしなくなる。ディックも時々作るが、彼は彼で仕事が忙しいことが多いので、そうなるとどうしても、外食が多くなる。そんな二人にとって、部屋で二人揃ってとる食事の時間は貴重だった。


「はいはい。でも本当、これ美味しい。でもあまり食べたことが無い味だな。何処で習ったの? あそこで?」

「ううん、施設じゃない。何か、知ってたのよ。ぼんやりとだけどね。で、あとは味の記憶」

「へえ。そういう記憶ってのもあるんだ」


 彼は感心した様にうなづく。やや黄色の濃いシチューの中には、色とりどりの野菜が、形をきっちり残して、だけど口に入るととろけるくらいに煮込まれている。

 肉はほんの時々にしか口には当たらないが、それでも決して満足感が損なわれる訳ではない。そしてやや変わったスパイスの香りがする。


「うん。で、マーケットに行ったら、結構ここいらでも、欲しい材料…じゃないかな、ってのがたくさんあったから、じゃ、作ってみようかな、って思って」

「美味しいよ、これ」

「でしょ」


 彼女はにっこりと笑う。


「うん。何か、『おふくろの味』って感じ」

「…じゃやっぱり、あたしこれお母さんから習ったのかなあ?」


 お母さん、と彼は彼女の言葉を繰り返す。


「うん。何となく、ぼんやりとはあるんだけどね。こういう人じゃないか、っていうのは。お父さんは… こっちは全く出てこないんだけど、やっぱりお母さんっていうのは違うのね。ぼんやりとは出てくるのよ。やっぱり黒い髪の毛だったな、とか、それをちゃんと毎日編んでいたな、とか…でもやっぱりその人の名前とかそういうのは判らないんだけど」

「探してみたい?」


 んー、と彼女は首を傾ける。


「どうなのかな。今はどうなんだろ。そりゃ、会えたら会いたいとは思うけど」

「探してみようとは、思わない?」

「うん。まだ、早いと思う」

「早い?」


 どう言ったらいいんだろ、とサァラはスプーンをくわえながら、再び首を傾げた。


「もしも、会っても、その時あたしがその人をお母さんって言えなかったら、何かやっぱり、悪いじゃない」

「きっと判るよ」


 だが、サァラは首を横に振る。


「どうかしら。正直言って、あたしには自信が無いわ。あたしは自分が本当にサァラという人間なのかどうなのか、それすらもよく判っていないのよ。お母さんに会ったところで、本当にそれを実感できるのか、って…自信はないな」

「…そう」

「それより、ディック、あなた今何について調べてるんだった?確か、えーと…」

「LB社のことだけど」

「そう、そのLB社なんだけど、何か今、このルナパァク中のデザイン関係に手を染めてるひとに手当たり次第声をかけてるんだって」

「へえ?」


 彼は食事を再開する。あまり冷めると、この類のシチューは少し固くなってしまうような気がするのだ。それは困る。だから彼はあいづちをうちながらせっせとスプーンを口に運ぶ。


「何で?」

「それがね、遊園地を、また再開させようっていうのよ!だから、その内部の改装に、トータルデザインを担当する人材が欲しいんだって」

「でもトータルだったら、お前の出番は無いだろ?」

「ううん、そうじゃないの。トータルはトータルで公募するんだけど、スタッフに関しては色々あるのよ。あたし、その中の映像関係に申し込もうと思うの」


 へえ、と彼は目を丸くする。


「だけどお前、今抱えている仕事は大丈夫?」

「そっちは何とかなったわ。だけど、ここで、一つ大きな仕事に賭けてみたい、って気がするのよ。そうでなかったら、いつまでも、手間ばかりかかってそれでいて納得のいかないものでも間に合わせてしまうような、そういう感じの仕事ばかりをこなしてくばかりじゃない…」


 ディックはスプーンを皿の上に下ろした。スプーンを守護体を持つように握りしめながらサァラは言葉をつなげた。


「それで、勝算はあるの?」

「無いわ」


 きっぱりと彼女は言った。そして伏せていた目を大きく開く。


「だけど、条件は同じよ。この街に住むデザイン屋にとっては皆ね」


 ディックはうなづく。弱気な時にはとことん弱気なのに、こういう所では強気だ。こうするしかない、と決めた時、彼女は強い。


「そうだな。だったら俺がどうこう言うことじゃない。がんばれよ」

「あ、そう言ってくれるの?」

「うん。実は今日、貫天楼の工事に行ってきたんだ」

「そんな所に入れたの!いいわね!で、どんな感じだったの?今回、そこだけはその公募の中には入って無いのよ」

「どんなって…」


 彼は昼間の記憶を振り返る。


「何っていうんだろう… 何か、眩暈がしたな」

「眩暈?」

「うん。何か、あれは、ひどく奇妙な感覚だった」

「外装はどうだったの?」

「外装はまだ。布の中だったらかね。内装は…うん、綺麗だったな」

「…あなた物書きしてるくせに、表現力ないのね」


 もっともだ、とディックは笑った。

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