どんどんどん、と扉を叩く音で、うたた寝していたムルカートははっと顔を上げた。いかんいかん、と頭をぶるんと振る。この署に赴任してから、最初の夜番だった。
相方は先ほど夜食を買ってくる、と出て行って、署には彼と、あとは掃除をする年寄りが居るくらいだった。どんどんどん、と扉を叩く音は更に大きくなる。彼は立ち上がった。
「はい?」
「すいません~ ちょっとこのひとをかくまってほしいんですが~」
イアサムは明るい声でムルカートに話しかける。何を言ってるんだ、この子供は、という顔でのぞき込むと、その「子供」の背には女が、そしてその後ろには。
「昼間、お会いしましたね」
あの男が、にっこりと笑っていた。
は、はあ、と思わずムルカートは言葉に詰まる。
「俺からもお願いしたいのですが… このひとをちょっと頼みたく」
「…ちょ、ちょっと中へ…」
一体どうしたことだ、とこの都市警察の署員は疲れた頭が混乱し始めるのを感じる。
既に夜時間も真ん中を過ぎ、彼は普段だったらそろそろ寝床につこうという時間である。夜食を買いに行く相棒も、空いているのは屋台だけだろう、と少し遠出しているはずだった。
それにしても。ムルカートはちら、とイアサムが籐の長椅子の上に下ろした女を見る。彼はまだ独身だった。ついでに言うなら経験も無かった。それだけに、顔と足を丸出しにした女の姿は、ひどく視線のやり場に困った。
しかし、さすがに都市警察の署員である。すぐにその女の顔や足に、G達も驚いたあざやら擦り傷があるのに気付いた。
「これは…」
「ちょっとした虐待を受けていたようで… 何やら逃げてきたようなのですよ。しばらくこの署で預かってもらえませんか?」
「そ、それはこちらの一存では」
「預かってやれよー」
明るい声が扉の方が飛んでくる。手に大きな紙袋を掴んだネイルだった。
「運が良かったぜーっ。向かいの通りに肉まんじゅう屋が立っててさあ」
「ネ、ネイル、それよりこの人達」
「お、何かあったのかい… と、おいあんた等、これ、あそこのサーカスンの劇場のマリエアリカじゃないか」
「そーですよ」
イアサムは嫌そうに答える。
「こっちはこっちで夜のお楽しみとしゃれ込んでたのに、この女がいきなり助けてくれってね。冗談じゃない」
「なるほど。じゃあ馬に蹴られてしまえってとこなんですね」
「そうそう。せっかくこの人を誘いだしたところなのに」
Gはイアサムとこの署員であるネイルのやりとりを聞いていてふと目眩がしそうになった。何だってまあ、こう平然と。
しかし目眩がしそうになったのはGだけではない。イアサムの言葉と、その指さす相手に気付いて、ムルカートはふと自分の足元がぐらりと傾ぐような感覚を覚えた。そしてその半面、どうして自分がそんなことを考えてしまうのか判らなかったのだ。
「いいですよ、彼女はここで預かりましょう。そーですね、ちょっと拘置所も空いてますし」
「拘置所、ですか」
Gは思わず問い返す。ええ、とネイルはうなづく。
「さすがにあそこなら彼女も飛び出さないでしょうしね」
「ネイル」
「あのさムルカート、この女はサーカスンの劇場の、脱走の常習犯だぜ? 何はともあれ彼女はちゃんと働くという契約をしてるんだ。『何で』そんなことを毎度毎度するのか、こっちが聞いてみたかったしな」
「ああ、それだったら、聞きましたよー」
ひらり、とイアサムは指を立てる。
「何かねえ、彼女はどーも『逃がし屋』さんの片棒担いでるんですって」
「ふうん」
ネイルはにやりと笑った。
「なあるほどね。だったら拘留の口実もできましたな。どうもありがとう」
「どういたしまして。ところでその情報と引き替えに、一つ教えてもらいたいことがあるんですが」
「何ですか」
イアサムもネイルも、実に見事なまでに顔に笑みを浮かべる。あーあ、という顔でGは二人を見つめる。
「昼間起きた、銀行強盗ですけど、全部捕まえました?」
「いや、逃しましたねえ」
ネイル! とムルカートの声が飛ぶ。それには構わずに、ネイルは言葉を続けた。
「何か途中で邪魔が入ったので、まあ、主犯格の奴、…ああ、スホンソンとか言いましたね。それは捕まえましたがね、もう一人の方はどうしても捕まらないんですよ」
とすると、自分を押さえこんでいた方だ、とGは昼間の記憶をひっくり返す。
「まだ捕まらないのですか?」
Gは眉を寄せる。別に目の前に来たところで撃退できる自信はあるが、下手に顔を覚えられていると厄介だった。だいたいネイルの言う「邪魔」は彼がしたものだったのだから。
あの時都市警察と会うのを避けてわざわざボタンを一つ二つ使ってしまったにも関わらず、今こうやって都市警察の署内に居るのはひどく不思議なものだったが。
そういえば。彼はふと、あの時手を掴んだ女のことを思い出す。
マーシャイ、と女は名乗ったのだ。声を発した訳ではないが、あの綴りはそうだった。イェ・ホウが残したメモにあった名前だった。
しかしその「マーシャイ」だったとしたら、何故あの場に居たのだろうか。偶然、と考えるのはたやすいが、彼は今までの自分の行動の中で、自分わ待ちかまえている相手が多かったことを思い出す。例えばイェ・ホウ。彼はGを待っていたのだ。あの後宮の惑星で。
それを誰から聞いていたのだろう。答えは一つしかない。未来の自分が、彼に言ったのだろう。行って、自分を助けてやれ、と。まだ何も知らない自分を。
知らない。確かに何も今の自分は知らないのだ。
ただ一つ、言えていることがある。自分がこの先、何を起こすのかは判らないが、いつか、そういうことが確実にある、ということだ。その未来は、確かに。
だったら、多少の無茶は構わないよな。
そんな考えがふと彼の中に浮かぶ。何となく彼は、なし崩しの様なこの事態を楽しもう、という気分になりつつあった。その中で「マーシャイ」が現れるならそれもよし。現れないとしても、ここに居る時間を多少なりと延ばす口実になるだろう。
誰に対してでもない。自分に対して、だが。
「まだ、ですね」
ネイルは答える。
「今、足取りを追っている最中ですが」
「追ってるんですよね。ちょっとその候補の場所を教えてもらえませんかね」
「駄目ですよ」
ネイルは両手を上げた。
「判らないんですか?」
「いや、判ってるんですが、一般の人たちが関わると、それはそれで捜査の邪魔なんですよ」
身も蓋もないが、正しいことをネイルはあっさりと言う。ふうん、とイアサムは肩をすくめた。
「何故ですか?」
「いや、このマリエアリカが心酔しまくっている女ってのを一度見たくて」
「女、ですか」
はあ、と気の抜けた返事をお互いにする。
「そうですねえ。でもやっぱり駄目ですよ」
「駄目ですか」
「ええ。だからさっさと帰った方がいい。ナバタ通りなんか通らないでね」
はっ、とムルカートはにこにこと笑みを浮かべる同僚を見た。
「通らない方がいいんですね」
「ええ。特に385番地付近は」
「そうですね、気を付けます」
では、とイアサムはひょい、と頭を下げた。
「あ、その女は多少手荒にしても大丈夫ですからねー」
そして行こう、とイアサムはGの手を掴んで扉の外へと出て行った。あっと言
う間だった。残されたムルカートは、その行動の意味をなかなか理解できなかった。
「…さあて、この女は、と」
ひょい、とネイルはマリエアリカを持ち上げる。その軽々と持つ様子にムルカートは驚く。
「俺、やりますよ」
「あ、このくらいだいじょーぶだって」
そして実際大丈夫そうだった。そのまま拘置所へ向かう廊下をすたすたとネイルは歩いて行く。
「あ、そーだムルカート、連中の後、ついてってくれない?」
「え?」
「俺がせっかく教えてやったんだもの。連中は必ずナバタ385まで行くよ」
「…ってどうして、ネイル…」
「さあ、何でだろうね」
くすくす、と笑う同僚に、ムルカートは一瞬ぞくりとするものを感じる。しかしそう言われたからには、行かなくてはならないだろう。眠気も無い訳ではなかったが、そんなことを言っている暇はない。さっと身を翻して、彼は外へ飛び出した。
「さて、と」
ネイルはにやりと笑った。
*
「こっちなの?」
問いかけるGに、急ぎ足のイアサムはそうだよ、と答えた。
既に夜時間も半分を過ぎている。アウヴァールの中では都会であるこの街でも、さすがにこの時間になると公共交通機関は動かない。流しの陸上車を拾って、ナバタ通りの入り口までやってきたのである。
「慣れてるね」
「まあこの街自体、広いものじゃないからね。俺だって伊達に結構な時間居た訳じゃないもの」
「ふうん。じゃあイアサムは、生まれはここじゃないんだ」
足が止まる。
「判るの?」
「何となく。図星?」
くるりと振り返ると、イアサムは頭の布をぱさ、とかきあげる。
「図星。ここの生まれじゃないよ」
「何処?」
「何処だっていいさ。俺は知らない。ただここに、気が付いたら居た。だから俺の生まれは何処だろうが、俺の故郷はここだよ。ここしかない」
うん、とGはうなづく。
「でもそれが、あんた何か気になる?」
「いいや、何かずいぶんと、フットワークが軽いね、と思ってさ。場慣れしてる。それに、何故あの都市警察の兄さんは、あっさり君には話したの?」
詰問するつもりはGにはない。それはあくまで、他愛ない問いである。ただ疑問に思っていたこと確かだ。あまりにも、物事がどんどん進みすぎるのだ。
「そうだね」
Gの方を向いたまま、イアサムは後ろ向きに歩を進める。背中を向けることはしない。
「確かに物事がとことこと進みすぎるね。ちょっとまずいかな」
「まずい?」
「でもねサンドさん、俺も聞きたいな。何であんた、そんな風に物事に足を突っ込みたがるの?」
イアサムはにっこりと笑う。街灯の弱い灯りの下でも、それは鮮明な程に。
「それは」
「そういう趣味、なんでしょ? 俺も同じ。だったら問題ないんじゃない?」
「かも、しれないけど」
「では一つ。あのね、サンドさん、あの街の人間は、皆、それぞれ降りかかった火の粉は、自分ではらうことにしてるんだよ。俺はあんたに関わった。そしてそのあんたに何か判らないけど火の粉が降りかかってる。じゃあ関わらない訳にはいかないでしょ?」
「そう簡単なもの?」
「もしもタバシがあんたと寝ようと思ってたなら、タバシだってそうするよ。俺じゃなくても」
なるほど、とGはうなづいた。
「都市警察は」
「都市警察は、街の治安を守るべきもの」
イアサムは決めつける。
「街の治安が守られるなら、都市警察は何も言わないさ」
それであっさりと片付けられるものなのか、とGはあきれる。
「ロゥベヤーガは俺達の街だ。俺達皆で守らなくてはならない。ねえサンドさん、アウヴァールで、それほど役所関係が力を持っていないということは気付いたでしょ?」
「何となく」
機能が都市の中心ではなく、離れた所にあるということ。都市警察は迅速で、各地の連携は取れているということ。ということは、行政部とは独立した位置にある、ということが考えられる。
「ここでは始めからそうだった。行政部は人間の出入りを監督するくらいなもので、後のことは大して関わらない。ワッシャードとの植民以来の対立が続くせいで、司法の方が、未だに流動的だ」
「…」
「となれば、俺達の様な住民は、自分たちで自分たちの命と生活を自由を守らなくちゃいけないじゃないか」
きっぱりとイアサムは口にする。
「これが、法に守られた場所なら、そうでもないかもしれない。だけどここはそうじゃない。女を囲い込む風習も、そこからできたんだ。…多少男の都合のいい様に変化はしているけどさ。だけど元々は、女が無闇に傷つけられないように、というための囲い込みだ。元々ここに植民した人々の風習がそれに輪をかけた」
「顔を見せないとか、声を出さないというのはそういうこと?」
「ああ」
イアサムはうなづく。
「確かに、この慣習にまずい部分はあるさ。行動の自由は女だって欲しい。それはよく判る。だけどそれが簡単にできる環境かどうか、連中は考えていない。ついでに言うなら、あのムルカートって奴を見ただろ?」
「ああ」
「マリエアリカの足見ただけで何かおたおたしてる。女の身体そのものに免疫が無いんだ。だいたい普段『劇場』とかに通ったりしないマジメな連中は皆あんなものさ。それがいきなり自由自由って女が顔だの足だの出し始めたらどうなる?」
困るだろうな、とGも考えた。
「まあ実際は、女自体がそうそう足も顔も出したがらないだろうけどね。それでも、一度かっちり出来上がってしまった場所の何かを変えるには時間と労力が要るんだよ。それなのに、単純な考えであんなことされちゃ、たまったもんじゃない」
「君等には君等の考える変化がある?」
「そ」
イアサムは一度大きく伸びをする。
「幾らそれが在ると困るものでも、一度に破壊することはいけないと思うよ?」
「イアサム?」
「あ、そろそろ300番台だ」
壁の一部に345、とか362といった数字が紺色のプレートに大きく書かれ、白い壁に張り付いている。
夜になると、この白い壁は昼間とは違い、しっとりと風景に溶け込んでいる。時々ふっと浮き出して見えることもあるが、街灯の光の、それぞれの僅かな色の違いに、それらは別の顔を見せる。
「あった」
385。同じ紺色のブレートが貼られている。白い壁は、街灯の光に淡い緑に染まっている。Gはそれを見上げる。三階建ての、その建物は、周囲のものと形はそっくり同じだった。
「…だけど」
Gはつぶやく。何? とイアサムは問いかけた。
「窓が少ない」
「ああ、確かにね」
あっさりとイアサムは返す。
「それで、君はここの連中にどうするつもりなの? イアサム」
「さあて、どうしようかな」
胸の前で彼は腕を組んだ。淡い緑の灯りは、彼の顔をもその色に染める。
「場所を破壊するだけじゃ、いけないんだよね」
そうだね、とGは即座に返した。ふふ、と彼の即答にイアサムは笑った。
「そうだよね。場所を破壊したところで、連中の目的と、…それに、誰がこいつらを動かしてるか、が一番の問題だよね」
「だとしたら」
「今回は、偵察」
二人は顔を見合わせてうなづきあった。
「…あ、後ろのムルカート君も、来る?」
Gがそう言った時、背後の壁から影がびょん、と動いた。