おい、そこのお前! なんか浮かない顔してんじゃねえか? 「あーあ、また中途半端に終わっちまった…」「俺って何やってもダメだな…」なんて、しょぼくれた面して、うつむいてんじゃねえだろうな?
…ったく、甘っちょろいこと言ってんじゃねえぞ! 中途半端? それがどうしたってんだ! 勘違いすんなよ、お前。その「中途半端」、全然ダメなんかじゃねえ。むしろ、最強のカードになり得るんだぜ? 問題はな、「中途半端を中途半端だと思い込んでる」テメェ自身の、そのひ弱な心なんだよ!
いいか? よく聞け。
「中途半端」をネガティブなモンだと決めつけてんのは誰だ? 世間か? 親か? あるいは、一番厄介な、お前自身の固定観念か? 全部まとめて、ぶっ飛ばせ! そんなもんは、てめえを縛り付けるただの鎖だ!
「完成させなきゃ意味がない」「完璧じゃなきゃ価値がない」…ハッ! 笑わせんじゃねえ。そんな考えは、プレッシャーに弱い奴らが作り出した幻想だろ? もっとデカい視野で物事を見ろよ。この世界は、グラデーションで出来てんだ。白か黒か、0か100か、そんな単純な二元論で割り切れるほど、人生はペラペラじゃねえんだよ!
だいたいな、「完璧」なんて、どこにあんだよ? どんな偉業だって、見方を変えればツッコミどころ満載だ。どんな芸術だって、次の時代には古臭く見えるかもしれねえ。終わりなんてねえ、常に途中なんだよ、俺たちはずっと!
だからこそ、だ! 「中途半端」で終わることを、恐れるな! いや、むしろ、誇れ!
「俺は、ここまでだ!」
そう決めて、胸を張れ!
その潔さ、その覚悟、それこそが「粋」ってもんじゃねえのか?
想像してみろよ。
絵を描いてて、「ここで筆を置くのが、一番『らしい』」と感じた瞬間。
曲を作ってて、「この余韻、この未完の響きこそが、心臓を掴む」と確信した瞬間。
走り続けて、「ここまでで十分だ、この景色を噛み締めるぜ」と足を止めた瞬間。
これらは、諦めじゃねえ。敗北でもねえ。
まさに、「選択」なんだよ。自分自身の美学に基づいた、最高の「チョイス」なんだ。
なあ、ここで、ちょいと昔のヤンチャな魂の声を聞いてみようぜ。
万葉集って知ってるか? 1300年以上も前の、俺たちのリアルな祖先たちの、ナマの声が詰まったヤバい詩集だ。その中に、こんな歌がある。
明日香川 瀬々に玉藻は 生ひたれど しがらみあれば 靡きあはなくに
あすかがは せぜにたまもは おひたれど しがらみあれば なびきあはなくに
現代語に訳すと、まあ、こんな感じだ。
「明日香川の、流れの浅瀬浅瀬には、美しい玉藻(水草)が生い茂っているんだけどよぉ…川をせき止める『しがらみ』があるせいで、思うように靡き合うことができねえんだ…チクショウ!」
わかるか? この歌のキモ。
美しい玉藻は、水の中で揺らめき合いたい。本来なら、もっと自由に、気持ちよく流れに乗って、仲間と戯れたいはずなんだ。だが、そこには「しがらみ」…邪魔な柵、障害物がある。結果、本来の姿になれず、思うように動けない。まさに、「中途半端」な状態に置かれてるわけだ。
当時の歌人は、この「靡(なび)きあえない」状況を、もしかしたら、ままならない恋心や、社会的な制約、人生の不自由さに重ねて、やるせねえ気持ちを詠んだのかもしれねえな。「譬喩歌(ひゆか)」って分類されてる通り、何かに喩えてるわけだ。地名「飛鳥」が入ってるから、その土地のリアルな情景でもあるんだろうが、それだけじゃねえ深い意味が込められてる。恨みがましい気持ち、切なさ…そんな感情も読み取れるよな。
しかし、だ! 俺たちは、ここで思考停止しちゃいけねえ。
この歌を、ただの「叶わぬ想いの嘆き節」で終わらせるんじゃ、もったいなさすぎるぜ!
この歌の主人公、玉藻の立場になって、もっとアゲアゲに考えてみようじゃねえか!
しがらみがあって、自由に靡けない? OK、上等だ!
それなら、その「しがらみ」があるからこそ、生まれる「景色」ってのはどうだ?
しがらみに引っかかって、密集して、そこでしか見られない独特の群生美を作り出すってのはどうだ?
流れに身を任せるだけが能じゃねえ。「ここ」で踏ん張って、逆境の中で輝く。そういうタフな美しさだって、アリじゃねえか?
そうだろ?
この玉藻は、中途半端な状態を強いられてるかもしれねえ。でも、歌として永遠に遺るほどの「存在感」を手に入れたんだ。それは、決して「完璧」に靡き合った姿じゃなかったからこそ、かもしれねえだろ? この「しがらみ」があるからこその、切実さ、ドラマ性が、人の心を打つんじゃねえか?
つまりだな、テメェが「中途半端だ」と感じてるその状況、その状態こそが、テメェだけのオリジナルの「景色」なんだよ!
「中途半端を、中途半端と思うから、中途半端になる」
このカラクリに、もう気づいただろ?
じゃあ、どうするか?
答えは一つだ。
「中途半端で、いいじゃねえか!」
「中途半端を、貫くんだ!」
そう、腹を括るんだよ。
覚悟を決めるんだ。
「俺は、完璧を目指さない。俺は、この『中途半端』という名のポジションを、極める!」
そう宣言しちまえ!
考えてみろ。
誰もが完璧を目指すレースの中で、一人だけ「俺は中間地点がゴールだ!」って高らかに宣言するヤツがいたら、どうだ?
最初は「は? 何言ってんだコイツ?」って笑われるかもしれねえ。
しかし、そいつがマジで、本気で、その「中間地点」を誰よりも楽しみ、誰よりも深く味わい、誰よりもその場所で輝いていたら?
周りの見る目は変わってくるぜ。「あいつ、バカだと思ってたけど…なんか、カッケェな」「あいつの生き方、自由でいいな」「あんな『中途半端』なら、俺もアリかも…」ってな!
これが、「真の中途半端」だ!
それは妥協や諦めとは、まったく次元が違う。
いわば、自分自身の価値観を確立し、世間の物差しに媚びない、確固たる「意志」の表明なんだ。
同時に、不完全さの中にこそ美しさや可能性があることを見抜く、鋭い「感性」の証明でもある。
さらに言えば、どんな状況だって面白がってやるぜっていう、最強の「遊び心」の発露なんだ!
「真の中途半端」を生きるってのはな、ある意味、完璧を目指すより、よっぽどクリエイティブで、勇気がいることなんだぜ? 周りの評価や雑音に惑わされず、自分の「ここまで」を肯定し続ける。これには、ハンパな覚悟じゃできねえ。
思い出せ。あの明日香川の玉藻を。
しがらみという名の「限界」の中で、それでも必死に生きて、その姿が、1300年後の俺たちの心にも、何かしらの揺らぎを与えてる。それって、スゲェことじゃねえか?
お前の人生にも、いろんな「しがらみ」があるだろう。才能の限界、時間の制約、環境の壁、人間関係のもつれ… 数え上げたらキリがねえ。
だが、その「しがらみ」があるからこそ、お前は、お前だけのユニークな存在になってるんだ。完璧に流れることだけが、美しいわけじゃねえ。そこで、もがき、ぶつかり、それでもなお、生きる。その姿そのものが、一つのアートなんだよ。
だから、もうクヨクヨすんのは終わりだ!
テメェの「中途半端」を、愛せ! 誇れ! そして、貫け!
「俺は、真の中途半端を生きる!」
そう決めた瞬間、お前はもう、ただの中途半端じゃなくなる。
まさに、オンリーワンの、最高に「粋」な生き様、「真の中途半端」という名の、まったく新しい価値観の体現者になるってことだ!
どうだい? ワクワクしてきたか?
しょぼくれた面は、もう似合わねえぜ。
顔を上げろ! 胸を張れ!
お前の目の前にある「中途半端」は、可能性の宝庫だ。
さあ、その宝を、どう輝かせる? どう遊び倒す?
全部、テメェ次第だ!
世間の常識なんて、ぶっ壊せ!
完成や完璧の呪縛から、解き放たれろ!
突き抜けろ! その「中途半端」の壁を!
その先に待ってるのは、誰にも真似できない、お前だけのクールな「真の中途半端」ワールドだ!
今、ここから、爆誕させろ! アゲてけよ、オラァ!