夜中にスマホをいじっていたら、たまたま目に入ったんだ。小難しい見出しの記事がよ。「『終末期』を『人生の最終段階』へ変更、その定義とは」。
……はぁ? なんだそりゃ。日本老年医学会ってとこの旦那方が、クソ真面目なツラして、クソ難しい言葉をこねくり回してるって話か。冗談じゃねえ。俺たちの親父やお袋、じいちゃんばあちゃん、ダチや愛するハニーの命の話を、そんなお上品な会議室の言葉遊びで片付けてんじゃねえぞ、コラ!
「終末期」じゃ響きが悪い? ネガティブだから「人生の最終段階」にアップデートしました、だと? へっ、笑わせるぜ。パソコンのOSじゃねえんだよ、人の命は。言葉を着せ替えるだけで、死にゆく人間の痛みが、見送る俺たちの悲しみが、ミリでも軽くなるってのか? あぁん? 教えてくれよ、センセイ方!
腹が立って、結局隅から隅まで読んでやったぜ。アンタらの言い分はこうだ。「『人生の最終段階』の定義はこれだ!」ってな。
まず一つ、「医学的見込み」。病状や老衰はもう戻らない。何をやっても死は避けられない。…まあ、そりゃそうだろうよ。医者がサジを投げ…いや、最大限の知見を尽くしてそう判断するなら、受け入れるしかねえ場面もある。
もう一つが「人生についての見方」。その医学的見込みを踏まえて、「本人は人生の物語りの最終章を生きていると考えられる」そうだ。物語の最終章、ねぇ…。聞こえはいいじゃねえか。シェイクスピアか何かのセリフみてえで、ちょっと気分がアガる。
だが、ちょっと待て。その「最終章」ってページをめくるのは誰なんだ? 誰が「はい、ここから最終章です!」って線を引くんだ? アンタらか? 医療・ケアチームか? 本人が「表明してきた人生に関する意向を尊重したうえで」とあるが、もう声も出せなくなったダチに、どうやってその意向を聞き出す。震えるまぶたの動きか? かすかに動く指先か? そんな曖昧なもんで読み違えたらどうするんだ。俺たちの人生の物語は、そんなフワフワしたもんの上で完結させられちまうのかよ?
さらに「最善の医療およびケア」と来た。「緩和ケアの考え方と技術を中核」にして、「すべての知的・文化的成果を統合した、適切な医療およびケア」を提供する、だってよ。要は、痛えの苦しいのは全部取っ払って、穏やかに逝かせてやるぜって心意気だろ? リスペクトだぜ。WHOが1990年に提唱して、日本ではまだ非がん領域じゃ不十分? 遅えよ! もっとガンガンやれ! ポリファーマシー、薬のチャンポン漬けがヤバいって話も、ようやく気づいたか。おう、もっと言え、もっとデカい声で言え! 高齢のオフクロが「今日のお薬」つって、小皿一杯の錠剤を震える手で飲んでるのを見るたびに、俺の心臓はギチギチに締め付けられんだよ!
「尊厳」についても定義しやがったな。
(1)「現在のありのままの自分を価値ある存在だとする思い」、つまり「俺は俺のままで最高にイケてんだぜ!」って気持ちを肯定すること。
(2)「尊厳に値するという価値」、つまり「誰にも俺を支配させねえし、指図される筋合いはねえ!」ってプライドを守ること。
…おう、その通りだ! やっと話がわかってきたじゃねえか! 最高だよアンタら! ……だが、そこじゃねえんだ。
言葉を定義すればするほど、理屈を積み上げれば積み上げるほど、そこからボロボロと零れ落ちていく、一番大事なナニカがあるんじゃねえか? どんなに立派なガイドラインを作ったって、俺たちの心のど真ん中には、理屈じゃどうにもならねえデカい空洞がポッカリ空いちまうんだよ。
なぁ、ここでちょっと聞いてくれ。
千年以上も昔の話だ。柿本人麻呂っていう、ハンパねえ歌詠みがいた。そいつが、愛する嫁さんを亡くした時に詠んだ歌がある。
秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み 惑ひぬる 妹(いも)を求めむ 山道(やまぢ)知らずも
俺なりに訳してみるぜ。
「秋の山の、真っ赤に燃える黄葉があまりに深く生い茂って、道に迷っちまった。この山のどこかで死んじまった、愛しいお前を探さなきゃならねえのに。…どうすりゃいいんだ、どこへ行けば会える? 俺にはもう、進むべき道なんざわかりゃしねえよ」
どうだ。
聞こえるか? 人麻呂のしゃがれた声が。見えるか? 途方に暮れ、色づく葉っぱをただ見つめて立ち尽くす、デカい男の震える背中が。
こいつは嫁さんの死を「終末期」だの「人生の最終段階」だの、そんな言葉で納得したわけじゃねえ。ましてや「不可逆的な状態であり、人生の物語の最終章であると考える」なんて、レポートみてえな分析はしちゃいない。
ただ、ひたすらに、愛しい「妹(いも)」(昔は愛する女をこう呼んだ)が、いなくなった。その事実だけが、槍みてえに胸に突き刺さり、目の前の景色を全部ぐちゃぐちゃにする。黄葉は美しいはずなのに、その美しさが道を隠し、愛しい嫁への道を阻む。美しいものが、絶望の象徴になる。皮肉じゃねえか。この、どうしようもなさ。この理不尽さ。どこにぶつければいいか分からない悲しみと、それでも探さずにはいられない愛情の爆発。これこそ、愛する人間の死に直面した、俺たちのリアルな姿じゃねえのかよ。
人麻呂は「山道知らずも」と詠んだ。「道なんざ知るか!」って、泣きながら叫んだんだ。
翻って現代の俺たちはどうだ? 「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」。なげえよ、タイトルが! 俺たちは、死っていうとてつもなくデカくて理不尽なモンを、どうにかして「管理」しよう、「制御」しようとしすぎちゃいないか? 正しいプロセス、正しい定義、正しいケア。その「正しさ」の枠に、人の心や愛を無理やり押し込もうとしてねえか?
大事な人の手が、日に日に冷たくなっていく。昨日まで笑っていた顔から、色が消えていく。その時、俺たちが欲しいのは「立場表明2025」のPDFファイルか? 違うだろ。
結局、俺たちも人麻呂と変わらねえんだ。
愛するヤツが死に向かう時、そりゃ誰もが黄葉の山で迷子になる。「山道知らずも」。それでいい。それが当たり前なんだ。道がわからなくて当たり前だ。どうすりゃいいか途方に暮れて当たり前だ。その、どうしようもねえ迷子の感覚こそが、お前がその人をどれだけ愛していたかの、クソ熱い証明なんじゃねえのかよ!
だからな、老年医学会のセンセイ方よ。アンタらの仕事は、間違いなくスゲェ。夜を徹して議論して、一つの言葉をひねり出して、俺たちみてえなヤツらが路頭に迷わねえようにしてくれようとしてる。その努力と愛情には、最大級の感謝とリスペクトを贈るぜ。
だけど忘れないでくれ。俺たちゃ結局、理屈や定義じゃ救われねえ、ただの感情の塊なんだ。アンタらが作るガイドラインや定義は、俺たちを縛るための鎖じゃない。暗い山道を照らす、おぼろげな月明かりみてえなもんであってくれ。進むべき道を指し示す完璧な地図じゃなくて、「迷子になっても、一人じゃねえぜ」って、ただ隣で一緒に黄葉を眺めてくれるダチみてえな存在であってくれよ。
「人生の最終段階」…ああ、そう呼んでもいい。
だがその言葉を使う時、俺たちは心のどこかで人麻呂になる。秋の山で、愛する人の名前を叫びながら、それでも道を見失っている。
最後に聞くぜ。
もしお前が、真っ赤な黄葉の迷路に一人、放り出されたとしたら。お前の愛する「妹(いも)」が、その葉っぱの向こうに見えなくなっちまったとしたら。
お前は、「人生の最終段階における決定プロセス」を検索するのか?
違うだろ。
きっとお前も、なりふり構わず、ただその名前を叫ぶはずだ。たとえ、その先に道がなくても。
それが答えだ。それが俺たちの「尊厳」、俺たちの「最善のケア」の始まりなんだよ。
山道知らずも。上等じゃねえか。愛を叫ぶのに、道案内なんざいらねえ。