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第8話 亀甲縛り



 もし、ここが老舗ホテルの特別室ではなく、そういうコンセプトの遊郭風ホテルだったら、寿々は迷うことなく、この目隠し男を真っ赤な責め縄で縛りつけ、窓の外にある庭に捨ててやった。


 緊縛師を呼んで、亀甲縛きっこうしばりにしてもよい。それぐらいの辱めを、この男は受けてしかるべきだ。


 しかし、悔しいかなここは、一か月前に見合いをするはずだったホテルの一室で、呼ぼうと思えばこっそり緊縛師は呼べるかもしれないが、亀甲縛りをされて淫靡な声をあげる変態を、手入れの行きとどいた日本庭園に解き放つわけにはいかなかった。


 歯痒さから、ボソリと寿々はつぶやいた。


「この男……世が世なら裸緊縛のうえ、市中引き回しの刑よ」


 しかし、寿々の声は一切聞き漏らさない感度高めの男は、ポッと頬を赤らめた。


「寿々さんに与えられる罰なら喜んで。でも、裸で縛られたら僕は……きっとすぐにイッってしまいます。持続力はあるんですけど、堪え性では無いんです」


 この男、絶対にわざとだろう。


 一部始終を目撃した仲居さんが「何も見ていません。聞いていません」といって、そそくさと退出したあと。


「ちょっと、アンタねえ! さっきから誤解を招くようなことをペラペラと!」


 畳に正座をさせた左近之丞を相手に、ガミガミと口から泡をだす勢いで怒る寿々だったが、怒られている変態はというと、まったく響いておらず、


「ああ、美しい。寿々さんの怒りの波動が伝わって、後光のエネルギーがさらに増していく。視えます。僕には視えるんです! 金色こんじきの尊光が!」


 ますます恍惚な表情となって両手を広げた。


めるときも、すこやかなるときも、いついかなるときも、全身全霊、僕のすべてを寿々さんに捧げます」


「そういうの、マジでいらないからっ!」


「そんな……どうか、そうおっしゃらずに一度くらいお試しで、煮るなり焼くなり縛るなり、寿々さんの思いのままにしていいですから」


 そこに、さっきの仲居さんを先頭に、もう一人、若い仲居さんが酒と料理を運んできて、


「えっ、煮るなり焼くなり……縛るって……」


 寿々と左近之丞の様子に絶句した。


 そこですかさず、ベテランの仲居さんが、


「だいじょうぶ。そういう趣向プレイよ」


 若い仲居さんに耳打ちしたのを聞いて、がっくりとうな垂れた寿々は、運ばれてきたばかりのビール瓶を手にとり、手酌した。


「もう……ガブ飲みしないとやってられない」


 お白洲しらすばりの名場面からはじまって、仲居さんに誤解を与えた目隠し男を怒鳴っていたら、今度はそういう趣向プレイなのだと結論づけられて、手酌で飲むしかなくなった本日の食事。


 ビールの大瓶を二本あけたところで、寿々は冷静になった。


 これ、一か月前の見合いと、どっちがより不運なんだろうか。


 ひとつだけ確実なのは、北御門左近之丞に絡むと碌なことがないということ。


 自身の男運のなさに本当に嫌になるが、テーブルに並ぶ豪勢な料理と床の間にずらりとならぶ銘酒のラベルをみて寿々は——料理は美味いし、美酒は飲み放題だし、まあいいか——となりつつある。


 名酒を前にすると、ほかはどうでもよくなる、というのは、酒飲みの悪いところである。


「寿々さん、こちらは本年の日本酒コンペティションで、内閣総理大臣賞に輝いた銘酒です。さあ、どうぞ——いい飲みっぷり! さてお次は、幻の銘酒『獺祭だっさい』のなかでも稀少な防腐剤なしのプレミア酒でございます」


「あっ、それ! 一度呑んでみたかった!」


「それはよかった! 取り寄せた甲斐があります」


「——くくうぅぅぅ、しみるぅぅぅっ。あっ、ちょっと、そのとなりは?」


「お目が高い! こちらは氷温で十年以上熟成させた酒造こだわりの純米大吟醸! さあ、こちらの江戸切子でどうぞ」


「かあぁぁぁぁっ! いい、この辛口! キレてる! もう一杯!」


「はい、どうぞ! まだまだ、どうぞ! お次は、いよいよ米どころ新潟のぉ~」 


 帰りは運転があるからと、酒をそそぐ御奉仕に専念する左近之丞は、利き酒ばりに日本全国の名酒を、「さあ、どうぞ」と寿々にすすめてくれる。


 ちなみに料理も酒もすべて左近之丞のおごりで、用意されている酒は、どれもレア中のレア。入手困難度S級の幻酒がならぶ床の間は壮観さを愛でながら吞むというのが、また大層良い。


 江戸切子を傾ける寿々が、嬉々として御奉仕する男に訊いた。


「それにしても、どうやってこれだけの名酒をあつめたの?」


 つぎの名酒をそそぎながら、左近之丞はサラリといった。


「金とコネです。それさえあれば、この世の中、たいていのモノは手にはいります」


 学生時代ならば「世の中、それだけじゃないよ」と、キレイごとを口にしていたかもしれないが、社会人5年目ともなれば、世知辛い世の中が身に染みてきているわけで、


「それは否定できないわね」 


 酒をグビリとやって、寿々は肯定した。


 一方、左近之丞は伏し目がちに、憂いのある表情をみせる。


「そう……僕もずっと、そうだと思って生きてきたんです。でも、金があっても、コネがあっても、手に入らないものがあると知りました」


 ——ん? 


 なぜか寿々の手に、あたらしい硝子製の御猪口が手渡された。そこに淡いピンク色の酒がそそがれた。


「銘柄は……『恋わずらい』いまの僕です。さあ、どうぞ」


 硝子製の御猪口をのぞけば、底にはピンクのハートがひとつ。今夜そそがれた酒で、口に運ぶのをためらったのは、これがはじめてだった。


 あざとさに染まった赤茶の瞳が、チラチラとこちらを見てくる。おそらく、この桜色の酒は絶対に美味いのだろう、というのはわかる。


 しかし、どうにも気がすすまないのは、


「さあ、遠慮なく。僕の想いをグイッと味わってください」


 この男の存在がゆえ。


「さあ、寿々さん、ひとおもいに!」


「う、ぅぅ~ん」


「恋に狂った男の酒をご賞味あれ!」


 おごりの酒を飲みたくないと思ったのも、今夜がはじめてだった。








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