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第9話 酔い醒め



   ◇  ◇  ◇




 結局、左近之丞が推してきた名酒『恋わずらい』には口をつけないまま、午後6時半。


 食事を終えたふたりは、笑顔の仲居さんに見送られて特別室をあとにした。


 そこから車で送ってもらうことになった寿々は、もうバレているのだろうなと思いつつ、


「わたしがいま住んでいるのは、鶴亀商店街ではなくて高原駅のそばにあるグリーンガーデン高原ヒルズで……」


 正直に話したところ案の定。


 わかっていました、と顔にかいてある左近之丞は、


「では、そちらに送らせていただきますね」


 ついに教えてくれましたか、といわんばかりの満面の笑みで車を発進させた。


 その車内では、寿々と真理愛の学生時代の話になった。


「とっても楽しそうです。ああ、僕もそんなキャンパスライフを送りたかった」


「北御門さんはどんな学生生活だったんですか」


「僕はずっと寮生活をしていました。まあ、ふつうの学生寮だったのですが、僕が二年生のとき、上級生が飲酒のうえ、寮内でバカ騒ぎのパーティーをして、酔った勢いでガラス窓を叩き割るという、器物破損の大騒動があったんです」


「ええっ、それは大変」


「そうなんです。夜中に警察もきて、怪我人もでて。納得できないのはそこからで、信じられないことに寮生全員の連帯責任になったんです。で、それから一年間、寮内禁酒、夜10時には強制消灯っていう謎の罰が課せられて……」


「あらら~」


「学部も男子学生が8割だったので、それはもう毎日……むさ苦しくて、汗くさくて……何度逃げ出したいと思ったことか」


 本当に嫌そうな顔で話す左近之丞をみた寿々は妙に嬉しくなり、ほろ酔い気分で笑う。


「まあ、それもひとつの思い出だからいいじゃない。そうか、そうか。なかなか強烈な学生生活を……禁酒かあ。それはいい。身体にもよさそうで……くくく」


「良い思い出ではないんですけど……寿々さん、なんか嬉しそうですね」


「えっ、そんなことないって、ふふふ。でも、今日一番楽しいかも」


 そんな寿々を横目でチラリと見て、左近之丞の頬もゆるむ。


「いいですよ。いい気味だって笑っても。結局、僕は、寿々さんが楽しそうに笑ってくれたら、なんでもいいんです」


 左近之丞の苦い学生生活の話が終わってからも、ふたりの会話は途切れることなく、気まずくなることもなく、車はヒルズに隣接する都市公園の駐車場に停まった。


「もし、良かったら酔いましに、少し公園を歩きませんか」


 左近之丞から夜の散歩に誘われた寿々が、腕時計に目を落とす。時刻は午後7時を回ったばかり。


「いいですよ」


 散歩を了承したとたん、薄暗い車内でもわかるくらいに真っ赤になった左近之丞は、車から降りるとハッとした顔になり、


「ちょっと待っていてください。5分……いや、2分で戻ります!」


 停めた車のボンネットに上着を勢いよく投げ捨て、1か月前と同じように猛ダッシュしていく。


 どうやら行先は、駐車場の端にあるシアトル系コーヒーのお店で、テイクアウトしたコーヒーを両手に持って、「お待たせしました」と戻ってきた。


 ボンネットから落ちかけていた左近之丞の上着を手にしていた寿々は、「ありがとうございます」とコーヒーを受取りながら、上着を渡す。


「それじゃあ、いきましょうか」


「そうですね。湖畔にでもいきますか。十月からライトアップされているみたい」


「いいですね」


 上着を腕に掛けた左近之丞と寿々は、夜の散策路を歩きはじめる。3メートルの距離を保って歩いていた1か月前とはちがい、今夜は肩をならべて歩いていた。


 ほかにも幾つか。1か月前とはちがうことに寿々は気づく。会話のなかで、だんだんと左近之丞に敬語を使わなくなってきていること。


 それから、今日一日、誤解を招く左近之丞の言動に怒りはしても、「クソ野郎」とも「最低最悪」とも、思わなかったことだ。


 夜の公園内。


 人の流れは、やはりライトアップされている湖畔へと向かっているようだった。貯水目的でつくられた人造湖らしいが、その景観は素晴らしいと評判で、紅葉がはじまるこの時期はとくに、家族連れや恋人同士の姿が多い。


 夜の公園を散歩するのは、これがはじめての寿々だったが、たしかに酔い醒ましにはちょうど良かった。夏とはちがい、夜風が気持ちいい。


 とはいえ、まだ十月の第1週。


 湖畔沿いの散策路に植樹された木々の葉が色づくのはもう少し先で、まだ赤くないカエデや桜の葉、おなじくまだ黄色に染まりきっていないイチョウやポプラ並木の下を、ゆっくりと歩きながら、これがすべて色づいたら、どれほど綺麗だろうかと寿々は想像した。


「来月には、赤や黄色に染まりはじめるかな?」


 木々を見上げた寿々の視線をしっかりと追いかけた左近之丞は、おなじように桜の枝をみつめた。


「今年の夏は晴れの日が多かったので、葉がたっぷりとタンパク質と糖を蓄えているでしょうから、きっと真っ赤に色づくでしょうね。葉が色づきはじめるのは気温が8度を下回ってアントシアニンが合成されてからですから、例年どおりだと十一月の後半には見頃が訪れると思います」


 なんとはなしに呟いた言葉に、わりとしっかりめの返答があって、寿々の視線は緑葉の枝から左近之丞の整った横顔へと移ったが、それに気づかず桜の枝をみつめる男は、さらに補足した。


「イチョウも気温が低くなることで緑の色素であるクロロフィルが分解されて、カロチノイドが際立ってくると黄色にみえてきますから、ジョギングコースになっているイチョウ並木はとてもキレイだと——」


 そこでようやく、頭ひとつ分、背の高い左近之丞が、ジッと寿々から見上げられていることに気づき、「えっ、あの、そんなに見つめられると」一気に真っ赤になった。女子か。


「北御門さんもアントンなんとかが、合成されたみたいに赤くなっていますけど、大丈夫ですか」


「アントシアニンです。ちなみに僕のコレは、アドレナリンですから!」


 真っ赤な顔を指差しながら、「ちょっと似たような成分名ですけど、ちがいます」と、ますます赤くなった。






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