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第8話 俺の貞操



 その質問に、ふむ、と禮子は美しい紫瞳を瞬かせた。


「例えば、殺人現場。犯人の痕跡がなにひとつない、なんてことはまずない。まあ、なかにはそういう稀なケースもあるかもしれないけれど、何かひとつくらいは手がかりを残していくものさ。観察眼のある優秀な捜査員なら、それを見つけられる。わたしら霊能者も少し似たところがあってね、対象物に憑いていた霊の痕跡から残像を浮かび上がらせることができるんだ。有能な霊能者であれば、それこそ名前や生年月日、素性を知れば、より鮮明に憑物を霊視できる」


「なるほど」


「寿々ちゃんなんかはね、霊視はからきしだけど、霊が憑いていた気配はわかるんだよ。しかもこの子は、持って生まれた魂の強さで、霊にとっては天敵みたいな存在。一瞬でパーンッと弾き飛ばしてしまう。この子といると具合の悪さなんかも消えるだろう。それもびっくりするぐらいの勢いで」


「そうなんです! 味覚が戻ったのもすごかったんですけど、大学のときから悩まされつづけていた頭痛、肩こり、腰痛が、少し触れてもらっただけで、たちどころに治りました」


 伊勢崎の反応に、禮子は「そうだろうねえ」と笑みを浮かべたのも束の間。


「奇怪しいと思わなかったかい?」


 紫瞳が鋭くなる。


「味覚の異常に加えて、頭痛や肩こり、腰痛まで、つぎつぎと発症するなんて」


「思いました。最初は大きな病気かもしれないと思って、大学病院で精密検査まで受けたんですけど、それでも原因がつきとめられなくて。でも、自分の身体で何か変化が起きているような気がしました」


 禮子はもう一度、ふむ、と頷いた。


「原因は明白。伊勢崎さん、アンタ、そのころに彼女ができたんじゃないのかい? 残念ながら、すぐに別れたようだけどね」


「あ……それは……はい」


 微妙に間の空いた伊勢崎の返事を聞きながら、寿々は頭の中で指折り数えていた。


 5年間、彼女がいないといっていたから、逆算すると二十歳のときか。そこから鎮痛剤が手放せなくなったのなら、相当苦労しただろうなと思う。


 大学に通うのだって、辛かっただろうに……と、寿々は主に学業面の苦労をおもんばかっていたのだが、禮子の方はちがった。


 鋭い視線はそのままに、うんうんと、神妙な顔でいった。


「大変だったね。はじめての彼女と、アレコレしたかっただろうに。まともに出来なかっただろう。とくにその腰じゃあねえ。ほとんどな~んにも、できなかっただろうねえ。彼女の方だって、そりゃあ、不満だったろうに」


 ちょうど御茶を一口含んでいた伊勢崎が、ゴフッとむせたのはいうまでもない。


 ティッシュペーパーを数枚とった寿々が、「大丈夫?」と伊勢崎に渡してやりながら苦笑する。


「禮子さん、そこはもう少しオブラートに包まないと」


「そうかい? 最近は、けっこうオープンなもんだよ。うちに相談にくる若いお嬢さんだって、そのあたりはけっこうシビアな条件をつけてくる。年上でもいいけれど……そうだね、オブラートに包むなら生殖機能が健全かどうかを重視するんだよ。あとは、夜の積極性。きちんと満足させてもらえるかどうかについて。それからすると、腰痛持ちは若くても敬遠されるよ。満足にできないからね」


 ゴホッゴホッ――と、ついに伊勢崎は涙目でせき込んだ。


「まあ、そこはひとまず置いておいて、要するにこれも霊の嫉妬なんだよ。死んでもそばにいたいくらい執着している伊勢崎さんに、彼女ができるのが嫌だったんだろうねえ。それが、頭痛や肩こり、腰痛の症状となって現れた。霊的な嫌がらせだねえ。難儀なものだねえ」


「それが本当なら、俺は伊央吏アイツをボコボコにしてやりますよ」


 鎮痛剤を手放せない原因が、霊の嫉妬だと知り憤る伊勢崎に、禮子は「うふふ」と笑みを浮かべた。


「それができたらいいんだけどねえ。北御あそこの三男とちがって、伊勢崎さんは霊能者じゃないからねえ。おそらく返り討ちに合うだろうねえ。逆に、色々と奪われちゃうかもしれないよ。伊勢崎さんがそっちもアリないいけどさあ。うふふ」


 本日、最大の余計なひとことが禮子から発せられ、もう聞いていられないと、寿々は助け船をだした。


「そうならないように、禮子さんに相談にきたの。ここはひとつ、伊勢崎くんの貞操のためにも、その執着系の同級生を祓えそうかな?」


「俺の貞操……」


 だんだんと隣りに座る伊勢崎の生気が抜けていくのを感じつつ、寿々は禮子に訊いた。


「そうだねえ」


 めずらしく言い淀んだ禮子だったが、40代にしかみえない顔の前で組んだ両手に、形の良い顎をのせてから、


「祓う、祓わない――という前に、もうひとつ、教えておくことがあるよ」


 そう前置きした。


「なんでしょうか」


 もう何でも言ってくれという感じの伊勢崎に、


「こっちの方が深刻だね」


 今夜一番の険しさをみせる紫の瞳。


 空気の変化に、伊勢崎は敏感だった。すぐに居ずまいを正して、真剣な目になる。それに習って寿々も姿勢を正して、禮子の言葉を待った。


「伊勢崎さんは、わたしらの同業者に呪詛をかけられているよ」


「じゅ、じゅそ?」


 訊き返した伊勢崎に、禮子は頷く。


「そう、これもまた伊勢崎さんに執着ある者が、呪詛師に依頼したと思われる」


「俺に、いったいどんな呪詛が……」


玉輿神社うちは縁結びの神様が御祭神だけど、いわゆる恋愛成就の願掛けとは、似て非なるもの。これは徐々に相手を弱らせていって、追い詰めたところで『救いの手』を差し伸べるという、まあ、わたしから言わせたら邪道だね」


「もしかして、呪詛がかけられた時期とかもわかりますか?」


「そうだね。わたしが視たところ呪詛のほころび具合からして、一年半から二年前ってところだろう」


「一年半から二年……」


 考え込みだした伊勢崎にかわり、寿々が訊く。


「禮子さん、ほころび具合っていうことは、呪詛が解けかかっているっていうこと?」


「そう。呪詛に抗っているんだよ。伊勢崎さんに憑いている執着系の男霊がね。つまりは互いの力が拮抗していて、打ち消し合っている。ものすごく稀なケースではあるのだけど、呪いの効果を男霊の執着が相殺しつづけている状態。だから寿々ちゃんは、霊の気配を感じ取れなかったというわけ」


「そういうことか。でも、打ち消し合っているなら、伊勢崎くんの味覚障害とか体調不良も改善するんじゃないの?」


「残念ながらねえ。相殺の効力は『呪い』にのみ有効で、伊勢崎さんに霊が憑いている限りは、何一つ改善しないよ。ちなみに、もともと執着の強い霊魂だったせいか、すでに悪霊化している。しかもかなり強い悪霊だよ。はっきりいって、猥山の10倍は強いだろうね」


 なんだか、その名前が懐かしく感じてしまったが、それにしても、『呪い』に『悪霊』とは。


 ここまでくるとさすがに伊勢崎が不憫でしょうがない。






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