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第9話 高原東の狂犬


 ここで、さきほどから考え込んでいた伊勢崎が口を開いた。


「寿々先輩、俺に呪詛をかけるように依頼したのは、あの秘書課の女でまちがいないと思います。あの女が執拗に、俺に声をかけてくるようになったのが、ちょうど二年前です」


 伊勢崎の婚約者だと吹聴して回っていた社員だろう。


「あの女だと思う理由は、もうひとつ。俺、先週の水曜日に直接文句を言いに秘書課に行って、あの女と話している途中からとにかく吐き気がしてきて、立っていられないくらいの眩暈を覚えたんです」


 新井課長も同じことを言っていた。


「前から変だな、とは感じていました。どういうワケか、あの女に文句を言おうとするたびに、口が思うように動かせなくなって、毎回言いたいことの半分も言えない。だんだん顔を合わせるのも嫌になってからは、ほとんど無視していたんですけど」


「おそらく、その依頼者に接触することで力が強まる呪詛の類だろうね。社内で良かったよ。それがもし、依頼者とふたりのときだったら、意識のない伊勢崎さんと既成事実をつくることも可能だったということ。実際、それが目的であったとしても不思議じゃないからね」


 禮子に指摘されて、ハッとした伊勢崎が小刻みに震えているのがわかった。その背中に、ポンッと寿々は手を添えた。


「伊勢崎くん、ずっと、こんなにたくさんのことを抱えていたんだね。ごめんね、もっと早く気づいてあげるべきだった」


 寿々を見つめてくるオレンジ色の瞳が、夕陽を映した水面のように揺らいだ。


 本当に、これまで良くがんばったと思う。原因不明の味覚症状に身体の不調。伊勢崎はあまり口にしないけれど、ありもしない噂を流されたことで社内でのストレスも大きかったにちがいない。それ以外にも、これまでたくさんのことに耐えてきたはず。


「禮子さん」


 寿々の視線が、玉輿神社の伝説の巫女・玉依姫へとそそがれる。


「お願い。助けてあげて」


「寿々ちゃんにお願いされると、わたしは断れないんだよねえ」


 螺鈿細工の黒縁眼鏡が外された。


「最初に言ったように、悪霊憑きで呪詛がかけられている上に、その力が拮抗している伊勢崎さんのケースはとにかく稀でね。こういう場合、まずは悪霊を伊勢崎さんから引き離して、その間に『呪詛返し』をする必要がある」


 呪詛返しとは、受けた呪いを送り返すことで、呪いを返された方は、自分がかけた呪いの倍以上の苦しみを受けるという。依頼者もまたしかり。


 禮子は薄ら笑いを浮かべた。


「恋路に呪いを持ち込むなんて、下衆の所業だよ。人を呪わば穴ふたつ――それを、身をもって知るべきだろうね、その呪詛師も、依頼者も」


 そうして、ひととおりの手順を話したあと。


「それでね。ひとつ問題がある」と、禮子。


「問題? 何かな?」


 さっそく、お祓い料金の交渉かと身構えた寿々だったが、そうではなかった。


「今回はね、わたしのほかに、もうひとり霊能者が必要になる。理由は、わたしが『呪詛返し』をしている間、伊勢崎さんの身体から引き離した悪霊を制御しないといけないからね。かなり強い悪霊だからねえ」


 寿々は首をかしげた。


「でも、わたしがいれば、霊は近くに寄れないんじゃないの?」


「そう。だから呼び寄せる必要があるんだよ」


「どうして、わざわざ呼び寄せるの?」


「至極まっとうな疑問なんだけどねえ。呪いっていうのは、そこが厄介でね」


 禮子の溜息は深い。


 呪いとは、人の悪意が凝縮されたものだという。


「底なし沼のようなものだよ。悪意に底はないからね。可愛さ余って憎さ百倍なんて言葉があるだろう。どんなに好いても振り向いてくれない相手に憎悪を抱いて、いつしか苦しむ姿をみて悦びを得るようになってしまう。おぞましいね」


 淡々と話しているけれど、禮子の霊力がユラリと揺れ動くのを寿々は感じた。


「呪いをかけた呪詛師がもっとも恐れるのは、呪いを返されることだろう。そうならないために、あらかじめ策を弄しているものなんだ。わたしが視たところ、この『呪い』には転移術がかけられている。ようするに、呪いが返されそうになったとき、あらかじめ呪った相手のより近しい存在に、呪いが返されるようになっているのさ」


「近しい存在……それって、もしかして」


「そう。それは生きている人間である必要はないから、伊勢崎さんの場合だと、悪霊化している〈海原伊央吏〉ということになるね。なにせ、中学生のときからずっとそばにいるんだから。本当に『呪い』ってヤツは、どこまでも相手を苦しめる」


 禮子が言わんとしていることが、寿々にはわかった。


 たとえ、長年苦しめられてきた存在であったとしても、高校一年の夏に〈海原伊央吏〉が、自分の命を救ってくれたことは、伊勢崎のなかで変えようのない事実だ。


 伊勢崎が『呪い』をかけられた日から、〈海原伊央吏〉が『呪い』に抗っていたからこそ、依頼者の女の手に落ちなかったともいえる。


「呪詛師の身代わりになって『呪詛返し』を受ければ、〈海原伊央吏〉の悪霊は、ほぼまちがいなく怨霊化して、伊勢崎さんの元に戻ってくるだろう。そうなれば、もう滅するよりほかない。とてつもない苦しみを与えられながら消滅していく〈海原伊央吏〉を、伊勢崎さんは目にすることになる」


 それを防ぐために「霊能者がもうひとり必要だ」と禮子は、もう一度言った。


「わたしが『呪詛返し』をする前に、まずは近くにいるだろう悪霊〈海原伊央吏〉を捕縛する。そのあとで隠形術をかけて、呪いを転移させないように守るのさ。転移先の霊魂がみつからない『呪い』は、呪詛師の元に戻るしかないからね」


 たしか、悪霊〈海原伊央吏〉は、真理愛に憑いていた地縛霊・猥山の10倍強いといっていたような……


 そんな悪霊を相手に捕縛やらできる霊能者といったら、寿々にはひとりしか思い浮かばない。


 ニヤリとした禮子がノートパソコンを引き寄せてキーボードをたたく。


「おや、運がいいね。明日の朝九時なら、玉輿神社の奥宮が使えるよ。呪詛返しに、悪霊祓いまでするとなると、神域でなおかつ人目につかない奥宮でするのが一番いい。あとは、そのもうひとりの霊能者を、寿々ちゃんが引っ張り出せるか、だね。いっとくけど、わたしじゃ無理だよ。説明はしてやれるけど、わたしがいったところで、あの異端児は来るわけないんだから」


 あの異端児、イコール、北御門左近之丞。


 時刻は、二十三時に近いけれど、寿々は緋色のソファーから立ち上がりながら、迷わず電話をかけた。


『寿々さん?』


 2コールで声が聴こえた。


 禮子と伊勢崎から少し離れた場所で、話すこと5分少々。電話を切った寿々が、緋色のソファーに戻った。


「禮子さん、明日の午前九時でお願いします。伊勢崎くんもそれでいい?」


「はい、お願いします」


「話がまとまったようで良かったよ」


 それから数分もせずに、明日の準備があるという禮子と別れを告げ、寿々と伊勢崎は『恋むすび』を出た。


 どちらともなく夜空を見上げた。まるいお月様が浮かんでいる。


 冬の寒さにはまだ遠いけれど、肌寒さは増していて、冷えた空気にどちらともなく肩を震わせたときだった。


「おねえちゃん?!」


 聞こえたのは妹の声で、振り向くと10メートルほど先には、大小の袋を手にした妹夫婦がいた。


「あっ、叶絵に七福さん、こんばんは」


 互いに歩み寄って、『ほうらい屋』の店先で合流したとき、叶絵の視線は見事に、寿々のとなりにいる伊勢崎へと向けられて「あっ!」となった。


 紹介する手間が省け、「もしかして、伊勢崎くん?」と高校時代の同級生をすぐに思い出した叶絵だったが、つづけて思いがけない言葉が放たれた。


「嘘、びっくり。普通の人になっている! 高校の時、髪とかメッシュばんばんで喧嘩ばかりして、あんなにワルかったのにねえ」


 さらには、それを聞いた夫の七福が、「カナちゃんと同じ高校ってことは高原東の伊勢崎?」となり、


「あっ、思い出した! 高原東の狂犬かっ! 俺の後輩に、高原北高だった加藤かとう新八しんぱちっていうヤツがいるんだけど、高校時代に唯一喧嘩で引き分けたのが、高原東の伊勢崎だったって! あのときの喧嘩が高校のときの一番の思い出らしくて、今でも酒を飲むたびに、嬉しそうに話すんだよ。『俺たちの代では、伊勢崎が一番強い』って。そうか、キミかぁ~」


 自身も不良の巣窟と呼ばれる高原北高出身である七福は、伊勢崎の過去を大いに暴露してくれた。


 伊勢崎はというと、「ああぁぁァ…」と両手で顔を覆って、耳まで真っ赤になっていた。







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