苔むした石段と隆起する草土を踏みしめて、濃淡のある緑のなかを静かに、息をひそめるようにすすむこと20分。
徐々に、背の高い木々が少なくなってきた。そのせいか、曇り空に日差しが射すように、草木の合間から斜線のような陽射しが足元を照らしはじめる。
水のせせらぎが聞こえ、急に視界が開けた。
緑と茶色の葉に覆われた秋の絨毯のような場所に、正面に向かって優美な曲線を持つ
その手前には澄んだ泉があり、泉と社を橋渡すように本殿からせり出した高床式の神楽殿がある。
そう多く訪れる機会はないけれど、これまでも何度か、寿々はここを訪れていた。そのたびに思う。神話の神様が棲んでいるとしたら、
水際には、巫女装束の禮子がいた。
「おはよう。全員、無事にたどり着けたね。いいことだよ」
伊勢崎は準備があるということで、禮子に連れられて少し離れた場所にある石造りの台座に向かい、そこに腰掛けた。
その間、叶絵と七福はその場で待つことになり、寿々は、禮子に断りを得てから、神楽殿に向かった。
社のある水辺に着いてすぐに気づいた。柱のない神楽殿の舞台にひとりたたずむ存在に。
寿々が舞台に上がると、相手はすぐに声をかけてきた。
「おはようございます。寿々さん」
「おはよう。左近くん」
白衣に浅葱色の袴姿。神職然とした北御門左近之丞を見るのは、これがはじめてだった。ふと思い出す。見合い写真を見たとき、和装の左近之丞に胸がときめいたことを。
「それ、すごく似合っているね」
「そうですか? それなら、今日はこのままデートに行こうかな」
「神社巡りならピッタリかも。終わったら、北御大社にでも行こうか」
「寿々さんの頼みでも、それだけは承服しかねます。お伝えしていませんでしたけど、あそこには性悪の人外モドキがいますから。ほぼ、モノノ怪です」
「そうなんだ。知らなかった」
少し笑ってから寿々は、笑みを消して左近之丞を見上げた。
「左近くん。今日は、ありがとう。それから、ごめんね。また、左近くんの力を頼ってしまって」
神楽殿にあがり、左近之丞の表情がわかる場所まで近づいたとき、寿々は――ああ、と思った。
真理愛の除霊をお願いしたときとは、やはりちがう。
いくら伊勢崎が会社の同僚であるとしても、左近之丞には割り切れない思いがあって、それは昨夜の短いメッセージにも、ありありと現れていた。
『友達と同僚は、寿々さんにとって、同じような存在でしょうか』
その一文に込められていたのは、無理やり抑え込んだ不安と焦りであることが容易に伝わってきて、寿々もまた自分の気持ちに向き合うことになった。答えを出すことは出来なかったけれど。
寿々を見つめる赤茶の瞳には、いまも色々なものを抑え込んだ光が宿っている。
「北御門家は社家であり、陰陽師の家系でもあります。本来ならこれが、強い霊力を持って生まれた僕の役目なんです。陰陽道を修めた者が悪霊を祓うのは当然のことです」
そこまで言ったあと、左近之丞は肩をすくめた。
「――そういう、もっともらしいことを言いつつ、僕が善人ではないことは、もう知られているから」
神楽殿の下にある水面に、朝陽が反射している。眩しそうに目を細めた左近之丞が、胸に
「結局のところ、寿々さんに好かれたくて必死なだけなんです。善人にはなれないけれど、恋人になりたくて仕方がない――というやつで。今日、がんばったら、褒めてもらえるかな、とか。午後のデートでは、ご褒美に手をつないでもらえるかもしれない、とか。まあ、要するに、僕の知らないところで寿々さんが他の男と会っているのでは、と不安を感じるくらいなら、僕を利用してもらった方がよっぽどいいです」
冬に近い、秋の朝。
飾り気のない言葉にトクンと胸が鳴ったのは、駆け引きのない、ありのままにぶつけられた感情が胸に響いたから。
それに加えて、神職の常装で朝陽を浴びる左近之丞が、いつもの三割増しで男前に見えたから、ということにしておこう。
冷えきった左近之丞の右手を、同じくらい冷えた寿々の両手が包んだ。
ビクリと震えた指先を、両の掌で持ち上げて胸の高さに留める。
「あまり時間がないから、ひとつだけ」
これで、左近之丞の不安が少しでも消えてくれたらと思う。
「わたし、地獄に落ちて欲しいくらい嫌いになった人を『友だち』にしたのは、左近くんがはじめてだよ。それって、わたしにとっては、とても特別なことだった。だから、左近くんは、わたしのなかで特別になりつつあるんじゃないのかな」
左近之丞の右手を包む寿々の両手に、頬を朱に染めた左近之丞の左手が重なった。
「こんなに早く、手を握ってもらえるなら、ご褒美はもっと欲張れば良かったな」
「左近くん。交渉はね、先に提示した方が不利なんだよ」
「ああ、そうかもしれません。でも、それなら一生、僕は不利ですね。寿々さん相手には、交渉のしようがありませんから。見てのとおり、言いなりです」
「美形を言いなりにできるのも、悪くないね」
「僕を美形だと言ってくれるのは、寿々さんくらいですよ」
「ん? どういうこと?」
目の前にいるのは、見紛うことなき、なかなかお目に掛かれない美形だ。しかも現在、三割増し中。
怪訝そうな寿々に、左近之丞は北の方角に目を向けた。
「さっきの話ですけど、あっちの山にいる性悪の人外モドキとは、兄貴たちのことです。あの人外レベルと並んだら、僕なんてオマケですよ」
「お兄さんたちも美形なんだ」
「それはもう、嫌味なほどに……ますます、寿々さんに合わせるわけにはいかなくなりました。それじゃあ、とても名残惜しいですけど、そろそろ」
そう言って左近之丞は、寿々の手をそっと解いた。首をコキリと、左右に倒してから、グルリと回す。
「寿々さんのおかげで、僕の霊力はかつてないほど漲っています。すぐに片付くと思いますけど、危ないので離れていてくださいね。それから、この神域では霊が具現化するので、寿々さんの目にも悪霊の姿形が視えると思います。なるべく、目は合わせないようにしてください」
「もしかしかて、目が合ったら憑かれるの?」
笑いながら左近之丞は「いいえ」と首を振った。
「寿々さんに憑ける霊なんて、
「……嫉妬」
「はい、そうです。信じてもらえないかもしれませんが、二十九にもなって昨夜はじめて、嫉妬というものを経験しました。ちなみに継続中です。それで再確認したのですが、僕はやっぱり心底、寿々さんのことが大好きなんです。嫉妬に狂って一晩中眠れないくらいには」
「眠れなかったの?」
「はい、一睡も。それで少しわかりました。好きな人、場所、モノに執着する霊の思慕の念のようなものが」
寿々が知る霊能者・左近之丞は、霊に対して情けを一切かけないタイプだ。祓い方も強烈で、罵詈雑言を浴びせながらボコボコにする。
その左近之丞が「生前の情の深さが死してなお、霊魂となっても愛する人のそばに在りたいと願うのかもしれません」霊の気持ちに寄り添っている――と思ったのも束の間。
「やっぱりアレらは阿呆です」とはじまった。
「眠れないので色々考えたのですが、死んでからそばにいて、いったい何が楽しいのかわかりません。たとえば、死ぬほど好きだった人が、自分以外の相手とイチャコラする姿を延々に見せられるわけです。そんなのは拷問ですよ。嫉妬に狂って悪霊化するのが目にみえている。そんなことになるくらいなら……」
左近之丞の美麗な顔に、危うい笑みが浮かぶ。
「僕は生きている間に、するべきことはすべてします。愛する人のそばにいられる間に、僕のすべてをささげて愛します。たとえ報われなくても、僕が死ぬときには、血も肉も魂もすべて昇華させて、遺灰も残らないほどに愛してから消えたい。だから、嫉妬なんて生半可な感情は、さっさと捨て去るべきなんですけど、恋愛初心者の僕には、それがけっこう難しい、ということにも昨夜気づきました。あっ、もう本当に時間がありませんね」
「そっか。それじゃあ、もう、いくね」
「はい。またあとで」
「……気をつけてね」
ありきたりな言葉をかけて神楽の舞台からおりた寿々は、ふわふわとした足取りで回廊を渡り、妹夫婦の元に戻った。
「おねえちゃん、どうしたの? 顔が真っ赤だよ」
叶絵に言われて、
「あそこの舞台、けっこう朝陽が直撃して暑かったのよ」
咄嗟にはそれぐらいしか、誤魔化す言葉が見つからなかった。