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第14話 反抗期



 奥宮を取り囲む森が、ざわめきだつ。


 霊というぐらいだから、風にのって空でも飛んでくるものかと思っていた寿々は、そうではないことに、すぐ気づいた。


 森の精霊たちは、木々の枝葉を巻き上げながら、神域の結界内に押し入ってきた異形の位置を禮子にしらせようと、一点に向かって葉を集中させる。


 その位置は、寿々たちがいる場所と対面する水辺の奥。


 距離にして30メートルは先にある対岸の草木が、一瞬ぐにゃり、と歪んだように見えた。


 森のざわめきが、なお一層はげしくなった。異形の行く手を拒むように、対岸の草木が伸びはじめたが、それを荒々しく掻き分け、蹴散らしながら歩を進める足音がする。


 森の精霊たちでは太刀打ちできない荒々しい御霊を持つ悪霊が、こちらに迫ってきているのがわかった。


 流造ながれづくり社殿から、澄んだ泉にせり出すように建てられた神楽殿では、悪霊が姿を現すのを左近之丞が待っている。


 禮子に近い水辺には、いつの間にか、白い羽に朱色の冠羽を持つ水鳥が一羽、スーッと泳いできて、長い嘴でツンと水面を突くと波紋が広がった。


 それがちょうど対岸に届いたとき――ぬうう、という言葉がぴったりな動きで、森の奥から灰色の塊が姿をみせた。


 寿々の目には、濃いヘドロのような灰塊とそれから立ち昇るもやが視えた。その不気味さと禍々しさに思わず柏手を打ちそうになったけれど、禮子からは「動くな」と事前に言われている。


「神楽殿の結界内に閉じ込めるまで、寿々ちゃんは動いちゃダメだよ。また飛ばされたら探すのが面倒だからね」


 禮子の術によって、悪霊〈海原伊央吏〉にはこちら側が見えないという。伊勢崎を探しにきた悪霊〈海原伊央吏〉を、左近之丞が捕まえて結界内に閉じ込めるまでが、第一段階というわけだ。


 それにしても重苦しい。暗鬱とした気配を、灰塊は漂わせていた。


 たしかに幽霊画家とは比べものにならない禍々しさだと、寿々の顔も険しくなる。この森でここまで息苦しさを感じるのは、はじめてだった。


 これほど禍々しい存在を感じ取れなかったというのが信じられない寿々だけど、悪霊あれと打ち消し合うほどの力がある『呪い』というものもまた、とんでもない代物しろものだということはわかった。


 重量感のあるヘドロをズルズルと引きずるような動きで、灰塊は徐々に泉へと向かってくる。伊勢崎を探しているのか、左右に揺れるたび、灰塊からはユラリユラリと尾を引くように黒いもやが立ち昇った。


 灰塊がまた少し、泉へと進みでてくる。


 ああ、本当だ。


『この神域では霊が具現化するので、寿々さんの目にも悪霊の姿形が視えると思います……』


 左近之丞の言うとおりだった。


 奥宮の最奥である拝殿に近づくたびに、灰塊が輪郭を成していく。


 濃灰色のヘドロにみえていたものが、だんだんと灰色の襤褸ぼろをまとった大柄な人型になったけれど、その手足は異様に長く、やはり異形の者であることを伝えてきた。


 ユラユラと立ち昇り揺れていた黒いもやは、腰元まで届きそうな長い灰髪となった。前後左右と伸びきっているせいで表情はまったく見えないけれど、これが伊勢崎の同級生で、十六歳のときに憑いた悪霊〈海原伊央吏〉なのだろう。


 石造りの台座に座る伊勢崎は、無言で身を乗り出していた。寿々のとなりにいる叶絵と七福も、息を殺すように対岸を見つめている。神楽殿にいる左近之丞と、水際にいる禮子はまだ動かない。


 静まり返った神域で、白い水鳥だけが、悪霊〈海原伊央吏〉の視線を誘うように、また嘴で水面を突き、両羽を少し広げて波紋を大きくしたあと。水際からまたスーッと滑るように、今度は神楽殿に向けて進んだ。


 悪霊〈海原伊央吏〉が、灰色の長髪に隠された両眼で、水鳥の姿を追っているのか、それとも警戒しているのかは分からないけれど、ここで禮子の指先が動いた。


 さきほどと同じように、粗塩で赤くなった伊勢崎の額に、人差し指と中指をつけると、霊力を注ぎ込みながら追加の粗塩で額を、ズリズリ―ッ!


「――痛ッ、いいッテェェ! イタイ、痛い!」


 痛みに耐え兼ねた伊勢崎から悲鳴があがった瞬間だった。


 波紋が広がる水面に、悪霊〈海原伊央吏〉は躊躇なく足を踏み入れた。大きな体躯であっても霊体は水に沈まない。激しい飛沫をあげ、伊勢崎の叫び声が聞こえた対岸へと最短距離で向かってくる。


 それを待っていたかのように、神楽殿にいる左近之丞が動いた。


 いつもは視えない悪霊の姿が視認できるように、青い稲妻のような左近之丞の霊力もまた、寿々にはハッキリと視えた。


 神楽殿から伸びてきた青光りする稲妻の先端は、こちらに駆けてくる悪霊〈海原伊央吏〉の背後から灰髪ごと首に絡みつき、青い鎖となって首元をギリギリと絞めあげた。


 高床式になっている神楽殿から、左近之丞が霊力の鎖を引いたのは、その直後。3メートルほどの高さから勢いよく後ろに引っ張られた悪霊〈海原伊央吏〉は、そのまま水面に叩きつけられるように背をつけ、水飛沫のうえで藻掻いている。


 悪霊を相手にする左近之丞は、いつものように罵詈雑言スイッチが入り、不敬にも神楽殿の柵に片足を乗せて身を乗り出すと、


「手間を取らせるなよ、クソ霊が……」


 鎖から逃れようと抵抗する悪霊を冷たく見下ろし、さらにグイグイと霊力の鎖を引いて、神楽殿の方へと引き寄せていく。


 そのまま引きずられていくかと思われた悪霊〈海原伊央吏〉だが、水面で器用に身体を反転させると片膝立ちになり、首に巻き付く霊力の鎖に手を伸ばして引き返した。


 神楽殿と水面で、綱引きのようにピンッと張った霊力の鎖。


 空気を揺らす悪霊〈海原伊央吏〉の唸り声と、


「てめえ、反抗期か、このヤロウ」


 この場にはあまりふさわしくない左近之丞の悪態が響いた。






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