「――オンッ!」
聞こえた瞬間に、「あのバカッ!」と禮子が叫び、式神の水鳥に「唱えさせるな!」と声をあげた。
水鳥が羽ばたき、甲高く鳴いた直後。
神楽殿の三方を囲む泉から、空高く水柱があがり、そのまま舞台に向かって垂直落下した。
寿々の目算で、落差およそ50メートルの
大量の水で半ば水没しかけた神楽殿は、今度は噴水のように柵と柵の間から小さな水流を幾つもつくり、排水をはじめている。
強烈な瀑布を受けた舞台上には、水圧に押しつぶされた左近之丞と伊勢崎。それから、本当に水責めされたかのように上半身だけ亀甲縛りされた悪霊〈海原伊央吏〉が転がっていた。
そこに70代とは思えない速さで橋を渡り、神楽殿の舞台までいった禮子は、
「アンタ、死霊祓いする気だったろう! 神域で勝手なことすんじゃないよ。死霊を祓うのは、ここじゃダメだよ!」
北御大社の三男を怒鳴りつけたていたが、サッと顔色を変えると「ああ、もうっ!」と地団駄を踏んだ。
「中途半端に死霊祓いの術式が……仕方ないねっ! だから、脳筋陰陽師と仕事をするのはイヤなんだよ!」
怒鳴りながらも禮子は、結界を重ねた。
水流がベールのように神楽殿の四方を覆いきる前に聞こえたのは、さらに途切れ途切れになった口喧嘩。
「あ゛あ゛ぁぁ?! ――そんな面倒こと――だれがするかっ!」
「アンタがするんだよ! 時間がない――はじめなっ! この――スットコドッコイがっ!」
玉輿神社の伝説の巫女と才能だけはありあまっている異端陰陽師は、そのまま水流のベールに包まれて見えなくなった。
水際に残されたのは、首をかしげた寿々と妹の叶絵。そして、叶絵の夫・七福。
神楽殿に向かう伊勢崎を見送りながら「も、護彌ぁ……」と泣いていた七福は、「鳥さん、どうなった?」とスイーッと水際まで戻ってきた水鳥に、真面目な顔で訊いていた。
返事のかわりに水鳥の嘴で鼻先を突かれた七福は、動物好きなこともあって、「イテッ、イテッ、こいつめぇ~」と、しばし戯れている。
寿々と叶絵も、水際の芝に座り込んだ。
「さっきまで騒がしかったけど、禮子さんまでいっちゃうと、なんだが急に気が抜けたね。叶絵も疲れたんじゃない?」
「大丈夫。でも、なんとかなりそうで良かったよ。それにしても、サコンノスケの亀甲縛りは凄かったねえ」
「ああ、あれは、たしかに……」
「お姉ちゃん、嫌いじゃないでしょう」
「……まあねえ」
「サコンノスケはさあ、性格に難アリまくりだけど、お姉ちゃんなら大丈夫じゃない。むかしから男運がないせいで、問題児の扱いに慣れているから」
もう「左近之丞」だと訂正する気もなくなり、寿々は風が心地よい神域の空を見上げた。欠伸がでる。そのまま芝に仰向けになった。
青い空に向かって、だれに言うでもなく――ありがとうございました――心のなかで感謝を唱えると、社から明るい光が発せられた。
祭壇に祀られているという御神体の鏡が、陽光でも反射したのかな。
そんな気がして「今日はいい天気だなあ」と寿々は、あたかな陽射しを浴びながら、しばし目をつぶった。
その後、巫女と陰陽師と伊勢崎、それから悪霊から守護霊となった〈海原伊央吏〉が、神楽殿から戻ってきた。
守護霊〈海原伊央吏〉は緊縛を解かれ、伊勢崎の背後にピタリと寄り添っている。その伊勢崎と陰陽師・左近之丞は、ビショ濡れだった。
何があったかを説明してくれたのは禮子で、神域での死霊祓いが御法度だと知らなかったらしい左近之丞の術を強引に止めるため、禮子が式神で瀑布攻撃をするも一歩間に合わず。
すでに左近之丞の術式が展開されており、それを相殺するために、水流のベールの中では、それはもう色々と大変だったそうだ。
「簡単にいうとね。『死霊祓い』を『悪霊調伏』に切り替えたんだよ。まあ、真言で調伏したのは、この男だけどね」
それによって、悪霊〈海原伊央吏〉の霊魂に宿った邪気を
すごい。そんなこともできるのかと感心していたら、
「ババア、簡単にいうほど楽じゃねえからな……」
悪態をつく左近之丞の顔には疲労の色が濃かった。
とにもかくにも――
悪霊〈海原伊央吏〉の捕縛にはじまり、伊勢崎の『呪い返し』は成功。
除霊の予定が、守護霊〈海原伊央吏〉の誕生となったけれど、これはこれで良かったのでは、と寿々は思う。
また秘書課の彼女が、何かを仕掛けてきても、きっと守護霊〈海原伊央吏〉が伊勢崎を守るだろう。
神域である奥宮をあとにすることになった一行。
玉輿神社の境内まで戻ってきたところで、伊勢崎と守護霊〈海原伊央吏〉は「さすがに、様子をみないとね」という禮子の判断で、今日と明日は、玉輿神社にある参拝者用の宿泊施設、いわゆる宿坊での預かりとなった。
ビショ濡れの左近之丞も着替えるために宿坊へ向かうことになり、寿々は、「店を開けないと」という妹夫婦といっしょに鶴亀商店街に戻ることになった。
叶絵と七福と『ほうらい屋』まで戻ってきて「あがっていく?」という妹に「帰るよ」と、寿々はそのまま高砂駅へ。
高原駅で降りて自宅のあるグリーンガーデン高原ヒルズに戻ってきたのは、お昼に近かった。
「ああ、疲れた」
禮子や左近之丞、伊勢崎と比べたら、たいしたことはしていないけれど、日ごろの運動不足のせいか、奥宮の往復による疲労感はけっこうなもので、
「ちょっと休憩」
眠気に誘われた寿々は、そのままソファーでうたた寝をした。