――左近くん
――左近くん
大好きな人の声がする。
高すぎることなく、耳に心地よく。媚びる響きのない彼女の声が、左近之丞は好きだ。
ずっと聞いていたいから、夢ならこのままがいい。
夏の終わりに彼女と出会ってからというもの。己の恋愛下手さ加減に溜息を吐くことの方が、圧倒的に多い日々を過ごしてきた。
九月、彼女に恋した瞬間には、取り返しがつかない大失態をおかしていた。
十月、必死に挽回しようとして品行方正を気取ってみたところで、祓いのときは素を晒してしまうので、あまり意味がなかった。
十一月、彼女との距離が縮まるたび、抑制のできない煩悩に悩まされる。ついには嫉妬で眠れなくなる。
「人を好きになるって……恋って……」
ここ二か月ほど左近之丞は、最高難易度の術式よりも複雑難儀で、制御不能に陥りやすい恋愛感情に四苦八苦していた。
自分のやりたいように過ごしていた日々が、いかに楽であったかを思い出させたが、寿々と出会う前に戻りたいとは、一度も思わなかった。実際、もう戻れない。
なぜなら左近之丞は、彼女――蓬莱谷寿々に、全身全霊で恋してしまったから。
彼女の後光は素晴らしい。
玉依禮子や自分のように、家系や血筋によって、生まれながらにして高い霊力を持つ者がいる。稀ではあるが、後天的に霊力を発現する者もいる。
巫女、退魔師、陰陽師に法師など、呼び名は色々あるけれど、これら霊力を有する者たちを、総じて『霊能者』と呼び、その数は非常に少ない。
それよりもさらに少ないのが、あらゆる霊障を弾き飛ばせる強い光を持つ者。
こちらは世界的にみても圧倒的に少なく、左近之丞が知る限り、蓬莱谷寿々と同等の光を持つ者は、世界に四人しかいない。
バチカンにいる『光の聖者』、ヨーロッパにいる『白銀の魔法使い』と『緑の賢者』、アメリカにいる『聖女クラリス』だけ。
『光の聖者』と『緑の賢者』は男性。『白銀の魔法使い』と『聖女クラリス』は女性。
このうち左近之丞は、『光の聖者』と『聖女クラリス』に会ったことがある。
どちらもアメリカに住んでいたときで、当時は宗教学者だった父の同行者という立場で面会する機会があった。
実際に会ってみて、たしかに聖者も聖女も美しい光を持っているな、とは感じたものの、正直それ以上の感情は湧かなかった。
ところが、高砂ホテルで寿々と顔を合わせたとき、彼女の後光にクラリとなり、眩さに平伏した。失態を犯し、彼女の怒りに触れたときでさえ、あまりの神々しさに手を合わせて拝み、そばに在りたいと懇願した。
隷属に近い想いは恋心に変わり、淡泊な自分にはないと思っていた恋愛感情に振り回される。もっといっしょにいたい、もっと話したい、手をつなぎたいと欲は果てしなく、会えない日々は、ひたすら焦燥がつのった。
恋敵・伊勢崎護彌が現れてからは、ついに嫉妬心が芽生えた。
相手を呪い殺したくなるほどの狂おしい感情を、世の人々は
【片思い】
【嫉妬の押さえ方】
【男 30歳 初恋】
これらのワードを入力した左近之丞は、インターネットで検索してみた。
するとサイト上には、『相手のことを思って行動すべき』という見解がズラリ。しかし、これまで相手のことを思って行動したことがない左近之丞にとっては、具体的とはいえないアドバイスばかりで、正直なところあまり役に立たなかった。
わかったことといえば『30前の男の初恋は気持ち悪い』というコメントが多いということだけ。軽く凹んで情報収集は終わった。
「左近くん、左近くん。ダメか? 左近くん……おい、こら」
何度目かの呼び声。
そこに、わずかな怒りが帯びたのを感じて、カッと目を見開いた左近之丞は、自分のかたわらで頬杖をつく寿々をみて、なんて素敵な目覚めだろうかと、夢見心地でうっとり目を細めた。
それに対して、
「まだ、寝る気? わたし、お腹が空いたんですけど……そろそろ起きてもらえませんかね」
寿々の片眉をあがった。
妙にすっきりとした頭と軽くなった身体を起こすと、リビングのバルコニーからは、すっかり傾いた陽がみえた。
「あれ? もしかして……僕は」
「ぐっすり寝ていたよ。三時間ほどね」
「さ、三時間?!」
寿々がみせてくれた携帯電話。そのディスプレイの時刻は【17:02】と表示されている。
「すみません!」
「いいよ。今朝は大変だったから……左近くんが来る前に、わたしも昼寝しちゃったからね。ところで、映画はまた今度でいいとして、『松』は何時に予約しているの? それが気になって起こしたんだけど……もちろん、お腹も空いたけどね」
「夕方の六時に予約しています。寿々さんのお腹が空いているなら、もう、行きましょう」
「そうしよう! すっごく楽しみにしてたんだ」
嬉しそうに寿々の目が輝いた。
左近之丞は思う。
自分にとっての恋は、これが最初で最後だろう。
恋のはじまりが、たとえ彼女がもつ光輝く後光に魅せられたからであったとしても、もう一度会いたい――そう願ったのは寿々だけ。
レジデンス棟を出て、左近之丞は寿々に手を差し出した。
「タクシー乗り場まで、手をつないでもいいですか?」