「これは、ご褒美だからね」
理由をつけて差し出された手をつないでも、左近之丞は大満足のようで、
「今夜は僕も、美味しい料理とお酒を楽しみます!」
終始ご機嫌で高原駅のタクシー乗り場に向かう。
「それと、言い忘れていたんですけど、そのワンピースとても似合っています。あと、ピアスも……」
「左近くんも、秋色のスーツが似合うね」
「和装とスーツなら、どっちがいいですか?」
「う~ん、悔しいけど、甲乙つけがたいのよね。お顔とスタイルは、本当に申し分ないから」
「寿々さん、それはつまり、それ以外は申し分あるということですか……」
ご機嫌が、やや下がった。
「まあ、そうね。良くも悪くも、左近くんはちょっと特殊だからねえ。一般的な枠には当てはまらないというか。枠そのものがあってないようなモノというべきか。でも、いまは多様性の時代だから、これも個性と
誉めて落とし、フォローにならならないフォローをした寿々の脳裏には、さきほどまでリビングで、心地よさそうに眠っていた左近之丞の寝顔が浮かんでいた。
出会っておよそ二か月。
自分のなか芽生えはじめた気持ちに対して、じっくり考える時間が必要だ――と、寝室からリビングに戻ったところで、ソファーで眠る左近之丞を見つけた。
これ幸いにと寿々は、自分の気持ちに向き合おうとして気づいた。
この男、黙っていれば、ただの美形。字あまり。
鑑賞するには申し分ない容姿に、「う~ん」となった。
前回、真理愛の除霊をしたとき以上のギャップがあった今回。
異種格闘スタイルな祓い方と罵詈雑言にくわえて、鮮やかすぎる亀甲縛りを披露して、さらには半人半妖の疑いをかけられた鬼火まで……
いったいどこまで人間ばなれしていくのか。縛り慣れた感じからは、性癖の怪しさも感じられた。
これは真理愛に要相談だ、と美しい寝顔を堪能しているうちに時間は過ぎていき、夕方には「もう少し様子をみようかな」となった。
というわけで、現在。
余計なことを考えるのをやめた寿々は、これから向かう六天道閣別邸『松』に全神経を集中させていた。
そう決めると胸の内に芽生えたザワリなどすぐに忘れ、最高級の懐石料理と美酒を味わえることに、胸の高鳴りは押さえられない。
「恋」より「食」
「美形」より「美酒」
軽く凹んだ左近之丞とウキウキの寿々は、高原駅でタクシーに乗車。駅から車で20分ほど郊外にある料亭に向かった。
駅前から大通りを抜け、右折レーンで信号待ちをしているとき。けたたましいサイレンを鳴らした覆面車両が2台、そのあとを数台のパトカーが追いかけ、別方向からは白バイもやってきて、タクシーの目の前を通過していく。
「何かあったのかな?」
白バイの行方を目で追っていると、タクシーの運転手が「お客様を乗せるほんの少し前にですね──また、例の通り魔事件が起きたようで」と教えてくれた。
覆面にパトカー、白バイが走っていった方向は住宅地で、その後、対抗車線からやってきた数台のパトカーもまた、赤色灯を回して向かっていく。
連続する通り魔事件。犯人が捕まらない不安のせいか、警察に対する市民の目は厳しくなっていた。警察も犯人検挙に向けて必死なのだろう。
今度こそ、捕まって欲しいけれど……
信号が青になり、パトカーが来ないことを確認したタクシーは、ゆっくりと右折した。そこから郊外に向かって走ること数分。
周囲に建物が見当たらなくなり、かわりに竹林と風情ある灯篭型の照明が道路の脇に点々としはじめる。
料亭・六天道閣の敷地に入ったタクシーは、案内係の誘導で竹林に囲われたスペースに駐車。
「北御門様」
タクシーを降りた寿々と左近之丞を待っていたのは、品の良い和服美人と黒スーツの男性。
左近之丞が耳打ちしてくる。
「六天道閣の若女将と『松』の支配人です」
若女将と別邸の支配人が、わざわざ駐車場まで出迎えにあらわれるなんて……
さすが北御門家。
噂にたがわない名家ぶりだと驚いていたところで、怪訝そうな左近之丞が「何かありましたか?」と若女将に訊いていた。
ここまでの出迎えは、やはり異例なことらしい。よくよくみれば、若女将と支配人の顔色もどこなく悪かった。
「じつは、ついさきほど警察の方がいらっしゃいまして……」と、事情を話しはじめた若女将。
なんでも通り魔事件が起きたのは、高台に位置する六天道閣の下に広がる住宅地で、現在、通り魔犯は逃走中。警察によると、このあたりに逃げ込んだ可能性が高いらしい。
著名人や財界人の利用が多いことから、セキュリティは万全を期しているとはいうものの、
「すでに御料理の提供がはじまっている本邸の御部屋つきましては、事情を説明いたしまして、お客様のご判断にお任せしておりますが」
本邸の奥にある別邸は周囲が薄暗く、駐車場と同じように背の高い竹林に囲まれていることから、危険性が高いと『松』の支配人は顔を曇らせた。
「別邸にてお食事を予定されておりますお客様には、大変心苦しくはあるのですが、本日はお断りをさせていただくことになり……事前にご連絡ができず、誠に申し訳ございません」
支配人と若女将が頭を下げた直後だった。
鋭い視線を竹林に向けた左近之丞が「寿々さん」と腕を引いて、自分の背に庇い、もう一度伸ばした両腕で、若女将と支配人の腕をそれぞれ引いて、やや乱暴に竹林から引き離した。
激しい足音が響き、真っ黒な人影が飛び出してきたのは、若女将と支配人がよろけるように寿々の後方に倒れ込んだときだった。
大きな音がして、タクシーの運転手が車内で悲鳴をあげる。
竹林に向かって、前向きに駐車していたタクシーのボンネットには、黒パーカーのフードを目深にかぶり、迷彩柄のミリタリーパンツを履いた男が飛び乗っていた。
黒いマスクで顔の下半分を隠し、その手には鋭利な刃物が握られている。
状況からして捜査員に追われている通り魔犯とみていいだろう。
逃走用にタクシーを奪うつもりなのか。肩で息をするフード男がフロントガラスを激しく叩く。
すっかり怯えた運転手が、ロックをかけた車内で頭を抱えてうずくまると、舌打ちした通り魔は、刃物の柄をガラスに叩きつけ、ひび割れたフロントガラスを蹴りはじめたが、それでもなかなか割れない。
その間に左近之丞は、「車が動いたら危ない。もっと下がって」と寿々と若女将、支配人をタクシーから10メートル以上引き離して、自分は男へと近づいていく。
「おい、やめとけよ」
呼びかけられるとは思っていなかった通り魔の視線が、左近之丞へと向けられた。
背後の竹林から複数の足音が迫るなか、逃走車両の強奪をあきらめた通り魔は、制止を求める左近之丞に無言で刃物を振りかざす。
寿々はこのとき、生まれてはじめて生身の人間が発する殺意を感じ取って、身体を震わせたのだが――次の瞬間。
刃物を手にした男は、ボンネットの上で華麗に一回転し、背中から落ちたと思ったら、すぐさま肩を返されて腕を捻りあげられた。
力を失った手から刃物を奪い取り、フードごと男の顔面をボンネットに激しく叩きつける左近之丞。そこからは、いつもと同じだった。
「やめとけって言ったよな、クソ野郎がっ!」
――ガンッ!
「いきなり飛び出してきやがって!」
――ガン、ガンッ!
「これから寿々さんと食事をするっていうときに、なに邪魔してんだよっ! おい、聞いてんのか! 通り魔!」
霊を相手にしているときと変わらず、左近之丞の口はとても悪かった。
竹林から、犯人を追いかけてきた複数の捜査員が現れたとき。
タクシーのフロントガラスはひび割れ、歪んだボンネットに顔面をめり込ませた男と、
「ふざけやがって、殺すぞ、コラッ!」
奪い取った刃物を片手に、意識のない男の背中を足蹴にしてボンネットに立つ左近之丞がいた。