午後7時になる少し前。『恋むすび』の扉を開けた寿々。
「禮子さん、こんばんは」
「いらっしゃい、寿々ちゃん」
いつものように穏やかに出迎えられ、禮子が茶菓子を用意してくれている間に、寿々は御茶を淹れて待つ。
「召し上がれ」
禮子が用意してくれた茶菓子は、寿々の大好きな串だんごとドラ焼き。
みたらしの甘さを、渋めの緑茶で中和してモグモグ。餡子がたっぷり詰まったドラ焼きを三口ほどで食べ終えた寿々は、改めて先日の感謝を伝えた。
「禮子さん、先週の土曜日は本当にありがとう。伊勢崎くんと電話で話したんだけど、声がすごく明るくなっていて、体調も良さそうだったよ」
禮子に報告しながら、また茶を飲んだ。
「それは、良かった。元気になったのなら何よりだよ。ところで、寿々ちゃん。今日、店に寄ってもらった理由なんだけどね」
やわらかな口調も優しげな眼差しも、いつもとおなじだった。
無警戒だった寿々の前に――
「はい、これ」
罫線が引かれた白い紙が一枚おかれる。
その一番上にある数字のゼロを「一、十、百、千、万、十万、ひゃくま……」数えたとき。まだ緑茶が半分ほど入っている茶碗を、寿々は危うく落としそうになった。
禮子はいたって普通に、合計額の下にズラリとならんだ内訳を読み上げていく。
「奥宮の使用料、お清め代、結界術および各種術式費用、守護霊封印用の数珠、宿坊の宿泊料、玉依姫……わたしのことだよ。その指名料に、あとは玉輿神社の特製粗塩と……こんなもんかね」
こんなもんかね、じゃないっ!
一番安いのが、粗塩500グラムで一万円って、それはないって!
内訳に記載されているそれぞれの高額ぶりに、寿々は驚きを隠せない。
「ちょっ、ちょっ、ちょっとまってよ、禮子さんっ!?」
「なんだい?」
涼しい顔のまま、禮子は緑茶をゴクリ。
「これでも、かなりオマケしたんだよ。なにせ、寿々ちゃんの頼みだからねえ。通常価格はこれの三割増し」
「さ、三割マシ……」
ヒエエエェェッ~である。
先週の金曜日。
『~価格交渉は任せてね。わたし、禮子さんのお気に入りだから』
伊勢崎を相手に得意気に言っていた自分の首を、うしろから絞めてやりたいくらい、とんでもない金額だ。
どうしよう。
価格交渉する以前の金額に「ううぅぅっ」と唸っていると、ここで禮子から「まあ、そうはいってもね」と、救済案が提示された。
「ひとつだけ、この金額を、ゼロにする方法があってね」
「ゼロに? 本当に?」
「本当だよ。この請求金額と相殺する形で、ひとつ……いや、ふたつほど頼まれてくれないかい」
「それは、どんな頼みごとかな?」
この金額を相殺できる頼みとはいったい……と身構えた寿々だったが、禮子からひとつ目の頼みを聞いて拍子抜けする。
「えっ、そんなことでいいの?」
「いいよ」と禮子。
「ただし、場所が少し離れているからねえ。1泊になるけどいいかい? 山奥だけど温泉付きの良い旅館があってね。そこを用意するよ。もちろん先方もちで、夕食には美味しい酒もつけさせるから、どうだい?」
「1泊でも、2泊でも、もちろんやるよ」
この請求金額がチャラになり、温泉付きで美味しい酒が飲めるのなら、寿々に断る理由はなかった。
ただし、問題は交通手段だ。寿々は、車を持っていない。
「禮子さん。ちなみにそれは、どこの山奥なの? 電車かバスで行ける?」
「ああ、それは心配しなくてもいいよ。そもそも、地図にのっていない場所だから、電車もバスも通っていない。明日は、案内役兼送迎役が、寿々ちゃん
翌朝。午前九時ちょうどに、インターホンが鳴った。
「はーい」と寿々が扉を開けると、
「おはようございます!」
満面の笑みで登場したのは、案内役兼送迎役の北御門左近之丞。
「荷物はこちらですか?」
1泊分の荷物が詰まったキャリーケースを、寿々の手から受け取り、
「さあ、行きましょう!」
ウキウキのご様子。
本日の左近之丞の装いは、薄手の黒のダウンベストに、同色のVネックセーター。ド定番のインディゴブルーのデニムパンツは、脚の長さをこれでもかと主張している。
ようするに、本日もカッコいいのだが、いかせん、霊能者や悪霊が相手になると口が悪い。
「ババア……玉依さんが、巻き込んでしまったようで、すみません。あんなガラクタ、僕ひとりで届けても良かったんですが……でも、寿々さんとドライブできるなんて! 残念ながら行き先は【陰陽寮】っていう、クソみたいなヤツラの棲家で、楽しいことなんてひとつもない、クソみたいな場所ですけどね。ああ……まったく。目的地がアソコじゃなかったら、もっと楽しめるのに」
禮子の頼みごとのふたつ目が、じつはこれ。
【陰陽寮】行きを渋るだろう左近之丞を、必ず現地まで連れていくこと。
「あの男ときらたら、寿々ちゃんの言うことしか、聞かないからねえ」
というわけで寿々は、左近之丞のお目付け役である。
どうして【陰陽寮】に行かなければならないのか。
このあたりの事情について、寿々はまったく知らなかったのだが、さかのぼること先週の土曜日。長い一日の最後の出来事が【陰陽寮】行きの理由となっている。
ガラクタ──と左近之丞は言っているが『通り魔事件』の犯人が所持していた凶器が、まさかの呪物だったらしく、しかも得体の知れない呪符を所持していたという。
通常、犯罪現場の証拠品となる毛髪、骨、遺留品の鑑定および検査は、科学警察研究所がする。
しかし証拠品が、呪物、呪具、
「日本にそんな機関があるなんて、はじめて聞いたよ」
「まあ、これは公にできることではないからね。呪物だ、呪具だ、なんてものが犯罪に利用されている――なんて世間に知れたら、おおきな騒ぎになってしまうだろうよ」
「なるほど。たしかにそうだね」
呪術系の専門機関はいくつかあって、陰陽師や巫女が在籍する【陰陽寮】のほかに、密教僧、修験者などが在籍する機関があり、
「そのすべてが神社仏閣庁の支配下にあって、互いの拠点もそう離れていないんだよ」と禮子。
警察などから依頼された事案は、偏りがないように神社仏閣庁が振り分けているそうなのだが、
「今回の証拠品については、警察上層部から強いご指名が入ってねえ」
よりにもよって一番人不足の【陰陽寮】に依頼が回ってきたそうだ。
というわけで、その証拠品となる呪物と呪符を届ける役目は、実際に通り魔犯と相対した左近之丞が適任となり、それが無事に【陰陽寮】まで届くのを見届ける役目は、寿々が適任となったわけだ。