【陰陽寮】に滞在すること一時間でわかったことは、ここが昭和世代もビックリな社畜システムで成り立っているということ。
休みとか非番はあって無いようなもの。何かあればすぐに呼び出され、時間外労働なんて当たり前という、サブロク協定なんて、クソくらえ――を|地〈じ〉でいく職場環境だった。
とくに陰陽課の陰陽師たちは、悪霊や魑魅魍魎を相手に、体力と精神をすり減らしながら使命感だけで任務を遂行しているようなもので、短い休息をとるにしても、敷地内が黒いモヤモヤだらけでは、まったく疲れが取れないだろう。
まさしく猫の手も借りたい、圧倒的な人員不足からくる環境の劣悪化。
これよりもっと酷い状況であったときに追い出されたという左近之丞が、いったい何をやらかしたかも気になるけれど、寿々にはもうひとつ、すっと気になっていることがあった。
千夜子が客室を離れている間に、そこを訊ねておく。
「左近くんと千夜子さんって、もしかして恋人同士だった?」
「――ンブッ! ゴッ、ゴホッ!」
直後、盛大に
そうして口に含んでいた茶を中庭に向かって噴いたのだが、そこに折り悪くいたのは、廊下で膝を折り、正座をしようとしていた初老の男性。
寿々がアッと思ったときには時すでに遅し。左近之丞から噴出された茶を、男性は顔で受け止めていた。
「あっ……悪い」
それには左近之丞も、即座に謝っていたが、初老の男性は両膝についた手をワナワナと震わせて、
「……き、貴様ぁあ! おのれ、北御大社のバカ息子がああぁぁぁ! 表にでろおぉぉ!」
と、なった。
騒ぎを聞きつけて千夜子といっしょにやってきたのは、見たところ四十代半ばの男女。
中庭では、左近之丞と初老の男性が取っ組み合いになっている。
「成敗だぁぁ! 神妙にお縄につけえぇ~!」
「うるさいな。もういい齢なんだから、やめときなって」
その様子に駆け付けてきたふたりは、そろって額に手を当てた。
「申し訳ありません!」
自分が離れている間に騒ぎが起きてしまった千夜子は、客室の畳に両手を付いて額をこすりつける。
「
一足先に客室に向かったという陰陽頭。
つまりは、いま左近之丞と取っ組み合い中なのが、【陰陽寮】のトップである陰陽頭ということになる。
「北御大社の悪童がああぁぁぁ!」
怒鳴りながらの回し蹴りはキレが良く、まだまだ若い者には負けないという気概を感じさせる。
千夜子のとなりにやってきた女性は、「大変、見苦しいところを……」と、こちらも畳に手を付いた。
「このような山奥まで、ようお越しくださいました。わたくし、陰陽頭の補佐を務めております
自己紹介したあとは、中庭に手を向ける。
「あちらは
中庭に降りていった陰陽允は「もう、そこまで~ッ」と取っ組み合いを止めに入った瞬間、陰陽頭と左近之丞の蹴りを連続で受けて「痛いぃぃぃ~ッ」と叫んだ。
「それと……もうお分かりかと存じますが、あちらで拳を振り上げておりますのが、当代の
ひとまず陰陽助と千夜子に頭を上げるようにお願いした寿々は、
「はじめまして。蓬莱谷寿々と申します。玉依禮子さんの御使いで参りましたが、わたしには霊力がありませんので、どこまでお役に立てるか分かりませんが精一杯させていただきます」
請求書の相殺のため。
その間も、中庭からは陰陽頭と左近之丞の罵り合いと、陰陽允の嘆き節が聞こえてくる。
「離せ、
「やれるもんなら、やってみろ、クソジジィが!」
「毎回こうなる! だから、
見かねた寿々が、茶碗に御茶を注いでから声をかける。
「左近く~~~ん! 御茶を淹れなおしたから、冷めるまえにどうぞ~」
「はぁ~い! 邪魔だ! どけっ!」
陰陽頭と陰陽允を、半ば地面に投げ捨てるようにして、左近之丞が中庭から戻ってきた。
寿々のとなりに座ると、姿勢を正して「いただきます」と行儀よく茶を飲む左近之丞を見て、陰陽助が千夜子にささやいた。
「……千夜子、あれは、なにかしら? 本当にあの北御門?」
「さっきまでの口の悪さといい、不遜な態度といい、まちがいなく北御門・ブサイク・左近之丞に間違いありません」
嫌悪感ダダ洩れのミドルネームをつけて呼ぶ千夜子に、陰陽助は頷きながらも、首をかしげる。
「そうよね。でも、あの悪童が、あんなにも従順になるなんて、夢でもみているようだわ」
「寿々姫様の成せる
「なるほど。それにしても、なんとも素晴らしい、寿々姫様の御光……」
豊満ボディの陰陽助に、うっとりとした表情で見つめられる。
強い霊力を有する者たちばかりいる【陰陽寮】では、寿々の後光は全員が可視化できるようだった。
左近之丞につづいて中庭からやってきた陰陽頭は、長卓越しに対面した寿々の姿に目をウルウルさせる。
「ようお参りにございました。拝殿より素晴らしい風が吹き抜け……ううぅ、寿々姫様をお迎えできて、神様が喜んでおります。ああ、本当に御姿を目にしているだけで、身体が浄化されていくぅぅ……ありがたや、ありがたや」
少し後ろに控えた陰陽允も、
「敷地内の不浄な残滓を、寿々姫様が次々と浄化してくださったと、千夜子より聞いております。なんと御礼を申し上げて良いか。【陰陽寮】の空気がここまで澄んだのは久方ぶりにございます。ああ、空気が美味しい……」
すぅ~はぁ~、すぅ~はぁ~と、大きく深呼吸した。
ここまできたら、もうあきらめるしかない。
なんだかなあ、と思っていた「寿々姫様」という呼び名は、もうすっかり浸透していた。