「愚か者」
「価値があるのはマサルなんかじゃない、『
いつも口達者のエンジェでも、この「貴人」の前では黙って訓戒を受けるしかない。
「そんな簡単なことも知らないほどの愚か者だったのか。それとも、彼を本気に愛しているから、彼を奪えばもう何もいらないとでも言いたいのか?だとしたら、俺の配下にふさわしくないな」
「ちっ、違います!」
落合の失望を聞いて、エンジェは慌てて弁解する。
「彼のこと、そんなに好きじゃないわ!すべてあたし自身のためですの!万代家のリーダたるものは、表向きで家庭円満じゃないといけないと、落合さんはおっしゃっていましたから……彼は天童大宇の孫だし、若くてそこそそ能力があって、顔もよいから、あたしのイメージを損なわないと思っただけです。結婚なんて、ただ彼を縛る建前ですわ。彼の頭じゃあたしに勝てない、結婚してもあたしは好き勝手にできますわ……」
「バカもの」
落合はもう一度小さく罵った。
このエンジェの器は小さすぎる。
彼女のすべての原動力は、リカという架空なお姫様に勝つためだ。まるで、客を争う遊女のようだ。
落合は二つに引き裂かれた一枚の紙をエンジェの前に投げた。
紙は結婚届、エンジェとマサルの名前が書かれていて、押印されたもの。
「取り戻してやった。こんなふざけたこと、二度とするな」
「えっ?ど、どうして……」
苦労して作り上げた「結婚届」が廃品になったのを見て、エンジェは不服そうに呻き声を出した。
「一度手にした戦利品がなくなって、不満か」
落合は鼻で笑った。
「……いいえ、そんなことはございません」
エンジェは不服にも頭を下げるしかない。
「男ばかり見ていたから、お宝を見る目がないようだな」
落合はまた何かを投げ出した。
今回は一枚の紫の石。
ようこがリカのサーブルから捥ぎ取ったものだ。
「フェイクだ」
「!!」
エンジェもまた目を大きく張った。
「フェイク……け、けれども、リカ、リカはずっとこれを持ち歩いたのです!あたしたちの裏手を取るためじゃなかったら、あんな派手に持ち歩くはずがありませんわ!」
「お前の性格と行動パターンを予想したから、あんなことをしたんだろう。これを盗んだ時点で、お前、いいえ、こっちの狙いがすでにバレた」
「あたしの行動を予想した……?ありえないわ!あの石頭は運と出身だけが取り柄ですもの!」
「運と出身だけで、16歳で大学を卒業できない」
「……」
痛いところが突っ込まれて、エンジェは唇を噛み絞った。
「お前は理想を語るのが確かに上手だった。だが、その理想に相応しい実力を持っていると思ったのは、どうやら、俺の勘違いのようだ」
「申し訳ございません。あたしの、不注意でした……」
エンジェは悔しそうにプライドの高い頭を下げて、失敗を認めた。
「謝っても意味がない。働きで汚名を返上しろ」
「はい!必ず!」
まだ捨てられていないと分かって、エンジェはピシッと腰を伸ばした。
「この前、天童大宇はあのイズルとやらをお茶に誘った。孫娘の婚約者を変えるつもりだろう。あの新入りの猿は見かけ倒しのマサルより手ごわい。天童大宇が彼を信用する前に、マサルを戻らせる」
「マサルを戻らせる……?というのは……?」
「マサルをリカの婚約者として戻らせる。二人の男を一人の女、そして、その女が持っている資源の取り合いをさせるのだ」
「!!」
今日はずっと曇っていた。
夕方頃に、細いシャワーのような雨が降り始めた。
リカは手元の仕事を一旦止まって、雨が大きくなる前にスーパーに買い物に行った。
もともとイズルと一緒に晩御飯の材料を買いに行くと約束したが、お昼過ぎたころに、イズルは一通の電話に呼び出された。
「『裏側』の研究所にちょっと問題があった。今からそっちに向かう。帰りは晩御飯に間に合わないかもしれない。先に食べて」
イズルの表情が妙に真剣で、気になるものだが、リカは多く聞かず、ただうなずいて彼を見送った。
リカはスーパーですき焼きの食材とデザートを作る材料を集めている間、雨が止むところか、どんどん強くなっていく。
イズルのマンション前に戻った頃、もう日が暮れている。
雲がそんなに黒くないのに、空がうす暗くなっていて、少し不気味。
幸い、街の照明がよくて、足が滑る心配はない。
そんな街灯の暖かい光の中で、リカは人が倒れているのを見た。
「!」
リカはさっそくその人に向かった。
花壇の傍で倒れたその人は、こんな寒い雨の中で、薄いシャツとズボンだけを身に纏っている。全身はすでにびしょ濡れ。
「どうしたの……?」
リカは口を開ける途端に、その人の顔にびっくりした。
「マサル……?!」
その時、後ろから叫び声が届いた。
「そっちだ!」
男数人が傘も持たずに雨の中を走ってきて、二人を囲んだ。
一人の顔白い青年はマサルを支えに前に出る。
リカはその人に面識がある――イズルの製薬工場で警察に偽装したリーダ風の青年だ。
「マサルくん、探したよ!こんなボロ姿になるまで逃げ出すなんて、みっともないぞ。早く戻ろう!」
「……エンジェのところに、戻るつもりはないと言った……!」
マサルは苦しそうに体を起こして、リーダ風の青年を睨んだ。
マサルの顔に青あざがいくつもついている。
「まあまあ、そんなことを言わずに、同じ女に惚れた仲じゃないか、これからも仲良くしようよ」
「誰が……ガァッ!」
マサルは怒って反論しようとしたが、いきなり口から血を吐いて、胸を押さえながら再び倒れた。
倒れる途中に、指先はリカの腕を掠った。
男たちは取り掛かる構えを取っているが、リカに忌憚するのか、すぐ前に出なかった。
「あのさ、こいつを連れ戻すんだけど」
一度リカの前で大変な目にあったリーダ風の青年は、弱弱しく交渉に出た。
「家からの命令なの?」
リカは冷たい目で青年を直視する。
「いや、別に……」
青年はその場で後退った。
「なら、この三日、彼は私が預かる」
「でも、逃げられたらこっちは困るし……」
「嫌なら、あなたがついてきてもいいよ?」
「それは勘弁……」
嫌な思い出が蘇る青年は青ざめになって、きっぱり諦めた。
男たちの後ろ姿を見送りながら、リカはイズルに電話をした。
イズルは状況を聞いたら5分をくれと言って電話を切った。まもなく、この前に新しく雇ったマンションの管理人、五十嵐というたくましい青年が走ってきた。
「イズルさんから事情を聞きました。彼は俺が運びます」
五十嵐は元陸上選手、細いマサルを運ぶのに大した手間がかからなかった。
五十嵐はマサルを4階にある客室に連れたら、予備の管理人の服を着替えさせて、ベッドに寝かせた。
「傷は見た目より軽くて、寝込んでいます。ここは俺に任せてください」
「……」
五十嵐がそう言ったが、リカは扉の隙間を通してマサルの様子を観察した。
「いいえ。私が看病します。五十嵐さんは仕事に戻ってください」
「でも……!」
五十嵐はいきなり焦ってきた。
さっき、電話でイズルに言われた。
――その不審な男をリカから10メートル以外にキープするように。
「でも?」
「いいえ、なんでもないです!」
それでも、リカが言い出したから従うしかない。
五十嵐はさっそく部屋から引いて、廊下でイズルに報告電話をかけようとした。
その時、エレベーター到着の音がした。
「!イズルさん……」
イズルはエレベーターを出て、五十嵐に「シー」と合図をした。