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第十章 父と彼氏(2)

寿はさよりと午後のオフィス街を歩いていた。午前中に鬱陶しく降り続いていた雨が止み、日差しが出てきて、頭上には奥行きのない、のっぺりした青が広がっている。男なので紫外線は気にしないが、眩しさに手のひらで額を覆う。



「さっきはありがとう、とは言わないわよ」



 寿の半歩前を行くさよりが、普段と変わらない冷たい声で言った。カツカツ、とハイヒールの無機質な音が規則的にアスファルトを打つ。



「セクハラされそうになってる女性を庇うのも、相手の怒りを解くように上手く謝るのも、社会人として当然のことだから」


「そ、そうですよね……」


「土下座にはちょっと、びっくりしたけどね」



 さよりが振り返って軽く口角を持ち上げた。眼鏡の奥の瞳が細まるのを初めて見た気がして、寿は少し驚いていた。入社以来、怒ったさよりの顔しか見たことがなかった。


 結果的には寿の土下座が、取引先を一件失うという危機を救った。あの後騒然としたオフィスに専務が入ってきて、怒り過ぎだと「ゆでだこ」をいさめたのだ。なので土下座よりむしろ、タイミングに救われたと言えるかもしれない。



 取引先を後にしようとした時、寿の父親ぐらいの歳の専務は寿を素早く呼び止めた。改めてミスをしたことを怒られるのかと思ったが、彼は人の良さそうな笑みを浮かべてこう言った。



「君、今どきの若者にしては、いい土下座っぷりだったよ」



「今日は見直したわ」



 一瞬、その言葉が例の専務の口から出たものなのかと思ってしまった。脳細胞のほとんどを総動員させて、回想に夢中だったのだ。斜め前のさよりは、長いストレートヘアを爽やかになびかせている。その首筋がびっくりするほど白いことに寿は気付いた。五年間の会社生活を共にしてきた女性上司を、初めて異性だと意識した瞬間だった。



「はい?」

「はい、じゃないでしょ。堀切くんのこと、見直したって言ってるのよ」

「俺を、ですか」


「あなたも、いつまでも頼りない今どきの若者ってわけじゃないのね。見えないところで、ちゃんと成長してるんだ」

「……」


「願わくば、これからも順調に成長してほしいわね」

「……はい」



 さよりが振り向いて、また笑った。その首筋はやっぱり、一度も陽に曝されたことがないかのように白い。



 さよりの言う成長とは何によってもたらされたのか。なごみが小さくなるというおそらく人類誕生以来初の出来事が我が身を襲ったからか、それとも拓朗との再会が、無意識のうちに自分にとっていい刺激になっていたのか。


 ともかくも、さよりに認められたことが素直に嬉しかった。寿は約三十年間生きてきてこの日初めて、人に認められる喜びを知った。



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