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第十章 父と彼氏(3)

 一瞬、我が目を疑った。


 何度か会っているので、その中年男性がなごみの父親だということは寿にも一見してわかった。そのなごみの父親がテーブルを挟み、七歳のなごみと向かい合っている。まるで仲のいい親子のように。いや実際、仲のいい親子なのだが。


テーブルの上には夕食の用意がすっかり整っていた。



「お帰り、寿くん」

「お帰り、寿おじちゃん」

「お……おじちゃん?」



 間抜けな顔をした寿に駆け寄り、なごみは早速耳打ちする。小さな子どもが「内緒話」をするのはよくあることだから、なごみの父親も特には怪しまない。



「わたしの名前は堀切なみ。あんたの姪で、ここに預けられてるってことになってる。椿にしたのと同じ言い訳、使わせてもらった」

「な、なるほど。姪……ね」



 七歳のなごみに凄みを効かせて睨まれ、寿もこの状況がどれほどのピンチであるかを了解した。絶対に、失敗はできない。



「なごみは、今海外出張に行ってるんです。来月までサンフランシスコだそうです」



 なごみの近況を聞かれ、寿が即興で作った話がこれだった。あまり上手い嘘ではなかった。なごみの会社は海外出張があるようなところではない。しかし父親がそのことを知るわけがなかった。



「そうか、だから連絡がつかなかったのか……しかし、だったら一言、行く前に電話でも入れてくれたらいいものを」


「まったく、そうですよね。ほんとあいつったら、仕事のこととなるとすぐ周りが見えなくなるんだから」


「しかし、海外出張とはうちのなごみも認められたもんだねぇ。頑張ってるんだなぁ」



 なごみが冷蔵庫から出してきたビールのせいもあって、父親はすっかり上機嫌だった。いくら子どもの頃の姿に似ているとはいえ、目の前の小さな少女が自分の娘だとは思いもしない。当然ながら。



「なみちゃんは、なごみに会ったことはあるのかい?」



 なみちゃん、が一瞬誰のことかわからなかった。唐突に話題を振られた堀切なみこと七歳の津幡なごみは、軽く唾を飲み下す。



「はい……二、三度」

「どんな人だと思ったかい?」

「どんな人、って……」



 難しい質問だった。客観的に自分のことをどう思うかと問われているのと同じである。良く言えば後で寿にからかわれるだろうが、かといって悪く言うわけにもいかない。



「普通、ですね」

「普通?」

「はい。普通の、大人の女の人でした」


「はは、そうか。普通の人か。そうか、どんな人かなんて大雑把な質問をされても困るよね。これはおじさんが意地悪だったなぁ」



 なごみの笑顔はさっきからずっと引きつったままだ。今のところ、どうにかうまく切り抜けてはいるが。



「親がこんなことを言うのもあれだけどね、寿くん、あれはよくできた子だよ」

「ええ、僕もそう思います。自分なんかに、勿体ないなって」



 その一言にお世辞ではなく、真実の響きが含まれているのを感じ取って、なごみはちらっと寿の顔を見た。寿はなごみの視線を気にせず、まっすぐ父親と向かい合っている。



「俺より年下なのにしっかりしてるし、仕事だってちゃんと自分のやりたいことを叶えて、頑張ってるし」


「うん。わたしもあれが東京に行きたいと言った時はどうしたもんかと迷ったよ、第一CGクリエイターなんて、どんな仕事かもよくわからなかったからね。でも母親を早くに亡くして、小さい頃から苦労させてきた子だから、好きにさせてやりたくてね」

「……」


「今は東京に出してあげて、良かったと思っているよ。お陰で寿君という素敵な人にも巡り会えたし」



 寿となごみの顔に同時に曖昧な笑みが広がった。寿はともかく、七歳の少女がするには随分と不自然な表情だった。



「あの、大人の話みたいなんで、子どもはあっちに行ってます。片付け、しないといけないし」



 食べ終わった皿を素早く取り除け、なごみはキッチンへと退散する。もちろん耳はしっかり、隣室に向けたまま。食器を洗いながらも、全身が鼓膜になったように寿たちが気になってしょうがない。



「いやぁ、実にしっかりした子だねぇ、なみちゃん」

「ええ、そうですね。家事とか、全部やってもらっちゃってるし」


「まだ小さいのに、大したもんだ。いやねぇ、なみちゃんは小さい頃のなごみによく似ているもんだから、最初見た時びっくりしたんだよ。名前だって、一字違いだしね」

「はぁ。ははは……」



 寿の乾いた、空々しい笑い声が聞こえる。なごみは小さくため息をつき、スポンジを動かした。


 なごみの名前が出たところで、話題は自然に堀切なみから津幡なごみへと切り替わる。



「寿くんとなごみも、随分長いんじゃないのかい」

「そうですね。僕が二十二の歳に付き合い始めたから……もうすぐ八年ですね」

「八年か。いや、なごみはまだ若いし、こういうことを焦るのにはちょっと早いかもしれないんだが」



 父親が意味ありげに言葉を切った。寿の緊張が壁一枚隔てたなごみにも伝わってくる。



「どうだろう、そろそろ……そろそろじゃないのかい、寿くん」

「……」


「わざわざ東京まで来たのはね、なごみに会いに来ただけじゃなくて、君に直接会ってそのへんの意思を確かめたいということもあったんだ」



 長い間があった。なごみは蛇口を捻り、水がシンクを叩く音を強くした。寿の返事を聞くのが怖かった。しかし怖いもの見たさならず怖いもの聞きたさとでもいうのか、耳はなごみの意思とは裏腹に隣室の音を聞き取ろうと、より一生懸命になる。



「正直言って、まだわからないんです」



 逃げも誤魔化しもない、まっさらな答えだった。三人の間の沈黙が濃くなり、水音がいよいよ高まって、滝のようなボリュームで流れ続けた。



「なごみさんのことは好きです。でも正直、自信がなくて」

「……」


「俺、まだ……なごみさんに相応しい男になれていないと思うんです」

「……そうか」



 父親の一言が重く空気を震わせた。残念さを隠せていない声だった。


 しばらく止まっていたスポンジが食器をこする音が、再び流れ出した。


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