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第十章 父と彼氏(4)

寿がさよりに呼び出された場合、考えられる可能性は三つ。怒られるか、褒められるか、単なる仕事上の指示か。


寿自身の経験によって確率をはじき出せば、怒られるのが50%、仕事上の指示が50%。褒められる確率? わからない。入社以来さよりに褒められたのは、この間のクレーム処理の帰り道が初めてだ。


 なのでさよりに「堀切くん、ちょっと」と手招きされ、怒られることを覚悟していたのだが、さよりの口から飛び出したのは想像を裏切る言葉だった。



「今度の社内コンペティション、うちの課からは堀切くんに出てもらおうと思うの」

「お……俺っスか」

「そう、俺」



 さよりの眼鏡の奥の目がにこりともせずに頷いた。


 年に一度開かれる社内コンペでは、各課から「将来有望」と言われる入社五年以内の社員を上司の推薦により一人ずつ出場させ、新製品のアイディアを上役の前でプレゼンする。


新製品の開発は本来企画開発部の仕事だが、たまには幅広い課から若手社員のアイディアを募り、将来の会社のホープを見つけて育てていこうという趣向だ。



「お、お気持ちは嬉しいですけど……うちの課には、俺よりもっと有能なのがいるんじゃないですか。根本とか」

「わたしはあなたを推薦したいの」



 さよりが軽く身を乗り出した、気がした。切れ長の目がしっかりと寿を捉え、寿はその強烈な視線に少しドキリとした。



「どうせ自分には無理、挑戦するだけ無駄。そうやって決め付けて逃げるのは、『今時の若者』の悪い癖よ」

「……」


「あれこれグダグダ考えないで、とりあえずやってみようって、そういう気はないの?」

「――やってみます」



 本当に何も考えず、とりあえず口にしていた。さよりの口の端がかすかに上を向いた。二度目に目にした、さよりの笑顔だった。




 せっかくなので二、三日東京見物してから帰るというなごみの父親は、寿の勧めによりそのまま寿のアパートに滞在することとなった。勤め先には少し長めの有給を申請しているらしい。有給消化というやつだ。


 父親はリタイア生活の予行練習でもしているかのように、寿のアパートを拠点にのんびりと数日を過ごした。


どうも彼はなごみが学校から帰ってから寿が帰宅するまでの数時間、小さな子どもが一人で過ごさなければならないことを不憫に思っているらしく、堀切なみと積極的にコミュニケーションを取ろうとする。


家事を手伝ってくれるのはありがたかったが、なごみにとっては緊張の連続だ。



「なみちゃん、今日の夕食は何にするつもりだい?」

「えっと、そうですね。おじさんは何が食べたいですか?」


「んー、そうだなぁ。おじさんは天ぷらが好きなんだけど、小さい子が揚げ物を作るのは危ないからねぇ」

「じゃあ、おじさんも一緒に作って下さい、天ぷら」

「おぉ、それがいい」



 おじさん。何度口にしても、やっぱりこの呼び方には抵抗がある。長年慣れ親しんだ父が、本当に他人になってしまった感じがするのだ。かといって「お父さん」と呼んでしまえば、それはそれで大問題なのだが。



「おじさんは、いつまで東京にいるんですか?」

「今度の日曜日で長野に帰るつもりだよ。もっと、寿くんと話がしたいからね」

「話って、何の?」

「うーん。なみちゃんにはちょっと、難しい話、かな」



 そう言った父の目はどことなく寂しそうで、なごみの胸に、この間感じたあの複雑な感情が再び湧き上がってきた。


 なごみに相応しい男になれていない、と言った寿。心の底から出た言葉だからこそ、重い。ああいったことが言えるようになった分、以前と比べて寿は成長したのだろうが、じゃあ、と問い詰めたくなる。


 じゃあ、いつその自信がつくの? どうやって、そんな曖昧で形のないものを手に入れるつもり?


 ずっと「自信がない」でズルズルと結婚から逃げられては、なごみだってたまらない。


 ……もっとも、元の姿に戻れない限りは、結婚なんてそもそもが無理な話なのだけど。



「危ないっ」



 父の緊迫した声が考えを吹き飛ばした。見ればなごみの前髪が届きそうなところを、角から飛び出した自転車が全速力で横切っていく。父の手がなごみの手を握り、引いた。記憶にあるものよりもずっと干からびて弱弱しい、水分の少ない手だった。


 自転車はなごみたちに謝りもせず、一時停止もなしに横断歩道を渡り、風を切って進んでいく。運転しているのは若い男だった。



「まったく危ないなぁ、しかも謝りもしないで。なみちゃん、大丈夫かい?」

「はい。ありがとうございます」


「なみちゃんね、道路を渡る時だけじゃなくて、普通に歩道を歩く時でも、ぼうっとしてちゃいけないよ。最近は自転車と人の事故も増えているからね」

「はい、気をつけます」



 柔らかく諭し、最後はいい返事を褒めるように笑いかける。その後もずっと手は握られたままだった。


 懐かしい感触に、鼻の奥がきんと疼いた。



「なごみちゃーん」



 千瀬と花鈴と萌乃の声が重なっていた。なごみが反射的に振り向くのと同時に、繋いだ手が自然に解かれる。駆け寄ってくる千瀬たちはそれぞれ小一には重そうな、お母さんの手作り風のバッグを提げていた。



「あれぇ、どうしたのー。みんなお揃いで」

「わたしたちね、同じピアノ教室に通ってるんだぁ」


「なごみちゃんは? その人、なごみちゃんのおじいちゃん?」

「うんまぁ、そんなところ。これからね、スーパーに買い物に行くの」



 説明するのも億劫で、便宜的に「おじさん」は「おじいちゃん」になった。ふと父を見上げると、父はわかったよ、の合図の目配せを落とし、千瀬たちににこにこと微笑みかけている。父が自分ぐらいの年頃の孫がいてもおかしくない年頃であることを、なごみは改めて思った。



「ねぇねぇ、今度の土曜日、みんなで公園にピクニックに行こうかなって話してたんだけど、なごみちゃんもどう?」


「みんなでお弁当とお菓子持ち寄ってね、がーでんぱーてぃーっての、するの」


「ピクニック。ガーデンパーティー、かぁ。いいね。行く行くっ」



 千瀬たちといる時のなごみは、もうちっとも違和感なく小学一年生になることができる。最初はあまりにも幼稚に感じた千瀬たちとの会話も、その遊び方も、今やすっかりなごみにとって馴染み深いものになっていた。



「じゃあね。ばいばーい」

「うん、また明日、学校で」



 子どもらしく大袈裟に手を振り合い、スーパーの前で別れた。子犬のきょうだいのようにじゃれ合いながら千瀬たちが駆けていくのを見届けた後、父が呟いた。



「楽しみだね、ピクニック」

「はい、楽しみです。さてと、買い物買い物」



 なごみは早速カートを取りに走る。父は目を細めてその小さな後姿を見守っていた。


 その後は、一度も手は繋がなかった。


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