「俺は、異世界に転生して身に沁みて感じたことがあるんだ。それは、自分の危機感のなさだ。日本は世界から見てとても平和な国だ。犯罪に巻き込まれることも少なくて、身の危険を感じるのは事故や大災害があった時くらいだ。だから、非常事態が起きて当事者にならないと命の危機を実感できない。
だが俺がいる異世界は、色んなところに危険が潜んでいる。魔族以外にも、魔物や盗賊集団にいつ狙われるかもわからない世界だ。俺が生まれた町は平穏なところだった。だから、独り立ちしたあと初めて魔物に遭遇した時、身体が震えた。ここは自分の命は自分で守らなきゃならない世界なんだと、身をもって知った。だが、それは日本も変わらない。もちろん助けてくれる人はいるが、いざという時は自分で自分の命を守るということを覚えておかなければならないんだ。わかるか」
「……わかる」
「そのためにも、わかってる危険は未然に防がなきゃ意味がない。この子供を自由にさせないのは、舞夏やこの町にいる人々を守るためなんだ。俺も、まだ子供で何も犯していないやつを閉じ込めるなんてことは、本当はしたくない。だが今は、人々を守る使命を背負う勇者として甘い判断はできない」
マリウスは上から押し付けるような言い方じゃなくて、ちゃんと私が聞き入れられるように話してくれた。そのおかげで、何が一番相応しい対処なのかは理解できた。
「うん。そうだよね。わかる。マリウスの言ってることは正しいよ」
だけど……。
危険を未然に防ぐには、暴走する可能性のある魔族の少年をちゃんと管理する方がいいのはわかる。マリウスに比べて、私の危機管理能力が低いのもわかった。だけどその方法として、どこかに閉じ込めるということが本当に正しいのかが、どうしてもわからなかった。
「マリウスが正しいのはわかる。魔族は危険な種族だから、そいつらを殲滅する旅をしてるのも知ってる……。でも、ダメだね私。これが平和ボケっていうやつなのかな。それとも、二次元の出来事だから現実的に考えられないのかな」
自分の処遇の話が進んでいるというのに、少年は私の隣でのっぽパンを大人しく食べている。私は、二本の小さな角が生えたその頭を優しく撫でた。柔らかい黒髪は、シルクみたいな触り心地だ。
「ねえ。この子は親に、人間は敵だって教えられてるのかな。もしもそうなら、今ごろ町じゅうの人が被害に遭ってるよね。でも記憶喪失だからか、人間を敵だと思ってなくて、こうしていい子にしてる。今のこの子には、私たちをどうしたいっていう意志はないんだと思う」
「舞夏」
「舞夏は優しくて面倒見がいいからそう言うけど、その考えはノーラたちとは違うニャ」
「危険をわかっているなら、オレたちの言う通りにしておいた方がいい。後悔する前に」
いつも天真爛漫なノーラも私の考えは間違っているって言うし、ヴィルヘルムスも当然のようにマリウスの意見に賛成だった。何もしゃべっていないけれど、ティホもヘルディナも同意しているんだと思う。
「みんな、この子もそのうち私たちに危害を加えるって考えてるの?」
「その可能性があるとさっきから言っている。手遅れになれば、世話になっている者たちに申し訳が立たない」
「……」
マリウスの言うことは正当だと理性ではわかっているけれど、私は少年の処遇の同意になかなか首を縦に振れなかった。
「ただいまー。もうヘトヘトだよー」
そこに、盆踊り会場の撤収が終わったたけちゃんが帰って来た。なぜかリアーヌとセルジュを連れて。
「たけちゃんお疲れさま」
「あれ。みんな揃ってるんだ。かわいいお客さんもいるね」
「なんでリアーヌとセルジュが一緒なの?」
「すぐそこでバッタリ会ったんだ。舞夏ちゃんに用があるみたいだよ」
「昨日の盆踊りに連れて行った使用人や領民たちの体調が悪そうなの。その相談をしたくて」
そう言うリアーヌとセルジュも、見たところいつも通りではなさそうだ。
「そうなの? でも悪いけど、私には何もできないよ。というか、今はそれどころじゃなくて……」
「なあ」
少年が私のTシャツを引っ張って、上目遣いで言う。
「腹が減った」
「のっぽパンだけじゃ足りなかった?」
上目遣いはかわいいけど、やっぱり言葉遣いが変わっている。緊張が解れてきたのかな。
「僕もお昼食べてないからペコペコだよ。
たけちゃんは、シャワーで汗を流してからキッチンに立った。冷蔵庫を開けると、残りもののハムや玉ねぎや卵を使って手際よくフライパンを振って、たけちゃん特製オムライスが完成した。ケチャップライスのいい香りが鼻腔をくすぐる。少年はスプーンを握って、目の前に出されたオムライスを食べ始めた。
私はテーブルに座る少年とたけちゃんと一緒に座って、リアーヌとセルジュにはリビングでマリウスたちと一緒に座ってもらった。
「そういえば、さっきは何を話していたの? 私の相談に乗るどころじゃないって、そんなに深刻な話なの?」
「実は……」
リアーヌから訊かれた私は、少年の処遇のことでマリウスたちと揉めていたことを話した。
「───なるほどね。その子を見た瞬間、人間じゃないとはわかったけど」
「リアーヌはどっち派? 自由にしておいても大丈夫だと思う? それとも、監禁しておいた方がいいと思う?」
私はリアーヌに尋ねた。きっといい助け舟になってくれると期待して。
「私は舞夏の考えもわかるし、マリウスの言うことも正当だと思うわ。人道的に考えれば子供の保護は当然だし、魔族なら危害が加えられないように監禁しておくのが妥当だわ。でもあいにく、私の世界では悪魔は知られていても魔族に関しては皆無だから、危機感はそこまで抱けていないのが本当のところね」
「リアーヌも、監禁しておくのは反対だということか」
私は心の中で密かに、味方が増えたのを喜んだ。でも、それはほんの一瞬だった。
「危機感がないと言っただけで、危険がないとは言っていないわ。私は当主の娘の観点から、この子は自由にさせておくべきではないと考えるわ」
「リアーヌまで」
私の方に来てくれるはずだった助け舟は、オールを捨ててモーターで岸に戻ってしまった。しかも、期待が外れて落胆する私にリアーヌはさらに言う。
「舞夏。貴方だって言ったじゃない。魔族は危険な存在なのは知っているって。アニメやマンガでその横暴さや傲慢さ、悪逆無道の残虐行為を見てきているのなら、判断はできないことではないわよ」
捨てたオールを使わなければ岸には戻れず海を漂うだけだと、リアーヌは私を諭そうとしている。
「そうだけど。だって子供なんだよ? 記憶喪失でもあるのに、こっちの一方的な理由で監禁するなんて私には……」
頼りにした助け舟に見放された私は、諦めそうになってしまった。これはもうどう言ったって、私には不利なんじゃないだろうか。私は世間知らずの未成年で、マリウスとリアーヌは厳しい世間を知っている大人だ。しかも、二つの異なった世界を知っている。そんな二人に、ただの高校生ごときが一人で言い負かせるとは思えなくなってきた。
すると、オムライスを食べながら黙って私たちの話を聞いていたたけちゃんが口を開いた。
「ねえ、みんな。みんなが話しているのは、この子のことなんだよね。当事者がここにいるのに蔑ろにして話を進めるのは、あんまりよくないんじゃないかな」
「たけちゃん」
「魔族の子供であれ誰であれ、この子がどうしたいのか、その意志を確認した方がいいような気がするなぁ」
と、いつもの優しい口調で、私を擁護するようにマリウスたちに言ってくれた。
「僕は、マリウスくんたちがいる世界のことは全く知らないし、舞夏ちゃんと同じで平和ボケしてる日本人だ。だけどこういう時は、どんな事情があろうと助けるべきだと思う」
「ですが
「頼る仲間がいない場所だからこそ、この子の意志と笑顔は守られるべきだと思う。僕たちの敵かもしれないけど、牙を向けられていない今は敵じゃない。この町にいるのなら大切なお客さんだし、きみたちと同じように共生できるのならそうするべきだと僕は考えるよ」
「しかし……」
「マリウスくん。町や人々のことを考えて判断するきみは、素晴らしい勇者だよ。だけど、“守るべき命”と“切り捨てていい命”の他に、“見過ごしていい命”があってもいいんじゃないかと僕は思うんだけど……。これは、きみの正義とは違ってしまうのかな」
「……」
たけちゃんに逆に諭されたマリウスは眉頭を寄せて口を噤み、ヴィルヘルムスたちと視線を交わした。
たぶんマリウスたちは、“守るべき命”と“切り捨てていい命”には多く遭遇してきた。だけど、この少年のような存在には遭遇してこなかった。子供の魔族に剣を向けるなんてシチュエーションに出会っていなかった。
この少年を大人の魔族と同様の処遇にするということは、人間で言えば「犯罪を侵した両親の子供も一緒に牢屋に入れるのか」と問われているようなものだと思う。少年は『悪』の種族だ。だけど『善』でもある。マリウスも、なんとなくそれはわかっているんじゃないかと思う。私の勝手な望みだけれど。
でも、たけちゃんのおかげで、マリウスは迷い始めているみたいだった。ヴィルヘルムスやノーラは意見を変えるつもりはなさそうだけれど、リーダーの決断を待っているようだった。
マリウスをこっち側に取り込められれば少年を守れる。そう考えた私は、ちょっとズルい戦法に出た。
「きみは、狭い部屋に閉じ籠もっていたい? それとも、自由がいい?」
私は、ひたすらオムライスを食べていた少年に訊いた。少年は食べる手をいったん止めて、私に鮮紅色と金色の目を向けて言う。
「自由がいい」
少年の口の横にケチャップごはんの粒が付いていた。私はそれを取って、少年に微笑んだ。
口にごはん粒が付いていることにも気付かないで夢中で食事をするこの子は、頭の角を除けばその辺にいる同年代の子たちと何も変わらないあどけない子供だ。平和ボケだって言われても、やっぱり私にはこの子は敵だと思えない。
マリウスは、悩ましげに頭を抱えた。
「ズルいだろ。それ」
「うん。わざとズルいことした」
そんな手を使ってもダメだって、また怒られるかと思って少し構えた。そしたらマリウスは、深い溜め息をついた。
「郷に入っては郷に従えってことか」
納得はしていないようだけれど、マリウスは私の意見を受け入れてくれるみたいだった。たけちゃんの助け舟のおかげだ。と言うより、マリウスの中に生きていた日本人の性質の勝ちって感じだろうか。
「この場合、“故郷に戻ったら故郷に従え”になるのかな」
「なるほど!」
「なるほど! じゃない。武文さんもちょっとふざけてませんか」
たけちゃんが急にゆるゆるモードになったせいでマリウスが呆れている。その周りでことの行方を見守っていたヴィルヘルムスたちは、怪訝な顔をしていた。
「マリウス。一体どうなったのだ」
「……悪い。今は一度、舞夏の意見に沿うことにした」
マリウスは、気まずそうで申し訳なさそうに仲間たちに言った。
「本当にそれでいいのか」
「舞夏と武文さんの言い分も理解できない訳じゃない。だから、ひとまず様子見にする」
「……。わかった。マリウスがそう判断するなら、オレたちは従う」
不安は残っているヴィルヘルムスたちだけれど、お互いの意志を確認し合ってマリウスの判断に従ってくれた。
「でも、誰が保護するニャ? ここで面倒を見るのかニャ?」
「いや。それはちょっと」
マリウスはまた眉頭を寄せて腕を組んだ。『なし勇』の世界の子ならこっちで保護するのがいいと思うし、保護するなら当然笹木家になる。しかも魔族の子供なら、勇者一行と一緒の方がいいと考えるのが妥当だ。なのにマリウスは渋った。
「自由にしてていいのに、ここにいさせちゃダメなの?」
「さすがに勇者一行が魔族と一緒に住むのはマズい」
「あ、そっか。ここに一緒にいたら、営業妨害になっちゃうのか……。えっ。じゃあ、誰が面倒見てくれるの?」
まさか笹木家で保護できないなんて考えていなかった。でもマリウスの言う通り、勇者一行が魔族と一つ屋根の下なんてフーヴェルの人たちが知ったら、信用ガタ落ちだ。
それなら、少年は一体誰に預けたらいいんだろう。観光案内所のボランティアの誰かか、それか洸太朗……。いや。保護するならフーヴェルの人たちの目に触れないところじゃないといけないから、『なし勇』エリアはダメだ。だとしたらどこなんだろう。
私たちが適当な預け先がないかと考えていた時、リアーヌが手を挙げた。
「それじゃあ、私のところで面倒を見るわ」
一度は見放した助け舟が戻って来てくれた。確かに『ライオン嬢』エリアならフーヴェルの人たちは滅多に行かないし、マリウスたちの営業妨害にもならない。しかも魔族を知らない人たちだから、誤魔化せば受け入れてくれるはず。さすがリアーヌ。当主の娘だけあって腹が据わっている。
だけど。セルジュがそれを許さなかった。
「何を言ってるんだリアーヌ。今は決定権はお前にあるとは言え、皆の了承も得ず勝手に……」
「仕方がないでしょう。マリウスたちに信用問題が発生するこっちのエリアで、この子を誰かに預けるのは得策でないのは事実よ。それなら、魔族に関しては無知な私たちのエリアでなら、信用問題も営業妨害も発生することはないわ」
「けどな。素性のわからない子供を屋敷に置ける訳ないだろ! しかも頭に角が生えてるやつ、皆が警戒するに決まってる!」
「総合的判断よ。角なんて隠せるし。屋敷に泊まりたいって言ったフーヴェルの子を連れて来たとでも言えば大丈夫よ」
なんか作戦が適当過ぎるけど、リアーヌの毅然とした態度のおかげで不安は薄く感じる。
「本当に大丈夫か、リアーヌ」
「任せてマリウス。私も一応、少しだけ魔法も使えるから、何かあった時は一時的には凌げるはずよ」
そうだ。リアーヌは剣技だけじゃなくて魔法も身に付けているから、自己防衛も可能だ。何もないはずだけれど、安全策が取れる環境だと聞いたマリウスはとりあえず安心してくれた。
「わかった。だが、元々はこっちの事案だ。何か起きた時は必ず俺を頼れ」
「わかったわ」
ひと悶着あったけれど、少年はリアーヌに託し、正体を隠してドーヴェルニュ邸で預かってもらうことになった。
少年がオムライスを食べ終わってから、すぐに出発することにした。たけちゃんは部屋から自分のキャップを持って来て、少年に被せてあげた。
「このキャップ、他の人の前で取っちゃダメだからね」
たけちゃんは少年の頭を優しくポンポンして約束をするように言うと、少年は頷いた。大人サイズのキャップはぶかぶかだけど、その大きさがちょうどよく角を隠せている。
「それじゃあリアーヌ。この子のこと宜しく」
私たちは玄関で見送った。少年に手を振ると小さく返してくれて、リアーヌと手を繋いで停めていた馬車に乗り込んだ。セルジュの眉間にはずっと皺が寄っていて、私と一緒に見送るマリウスたちの表情も晴れやかではなかった。
「マリウス。本当に預けて大丈夫ニャ? あとで何かあったら……」
「その時は、俺が全ての責任を負う」
マリウスは真剣な面持ちで覚悟を口にした。
この前私は、「マリウスは今は、ただのマリウスだ」と言ったばかりだ。だけど、その時のことを忘れた訳じゃない。私は、魔族の少年を信じていた。この子はきっと何もしないと、心の片隅で根拠のない確信をしていた。