(なぜ、私は立っているの?)
ルナは、死の淵にいながらも頭の中は妙に冷静で、現状を分析できた。
蛇の毒が全身に回りきっているせいか意識を失う程の痛みはもう感じられず、代わりに飛んでもいないのに常に宙を不安定に漂い続けている様な、不快な感覚に支配されていた。
あの大蛇が、ネフシュタルが、目の前にいる。
先端が二股に割れた舌をちろちろと揺らしながら、数秒先に待ち構える死、足搔きすら許さない絶対的な終末の権化として這い寄って来る。
このままだと、喰い殺される。
そうとわかってはいても、手足を片方ずつ失い、翼を半分も喪失している状態では立っているのがやっとで、既に戦う事も逃げる事も叶わない。
眼と鼻の先まで迫った平たい顔はより巨大で、恐怖と嫌悪の塊にしか見えなかった。
「ひっ!」
まだ大蛇はその大口で天使を喰らおうとはせず、細長い舌で頬を舐めた。
粘着質で鼻につく悪臭を放つ唾液を塗り付けられ、ルナの整った清楚な顔立ちが、生理的嫌悪感に引き攣り、歪み、涙が零れる。
「なにを、やっ……」
ネフシュタルは、舌の2つの先端を細く長く伸ばす。
伸縮自在の舌をルナの服やスカートの中に侵入させ、白い柔肌を直接執拗に舐め回し始め、彼女の全身の肉感を味わう。
「やあん!」
敏感な部分を舐めて刺激され、望まない反応と嬌声を強制させられてしまう。
毒に蝕まれて死に向かってゆく身体でも、生まれつきの体質は我慢のしようがなかった。
「やめ、て! いやあ……」
蛇にとって、その行為にどんな意味があるのかはわからない。
弄ばれていると理解させられたルナは、しかし弱々しい悲鳴を上げる事しかできない。
身も心も弱り切った彼女にとって、天敵である蛇に身体を汚されるのは1人の少女としての尊厳を壊され、恐怖と凌辱を同時に味あわされる耐え難い拷問でしかなかった。
満足したのか、ネフシュタルは凌辱に使っていた舌を口に戻すと首を上げ、大顎を開けてついにルナを食す準備に入る。
(どうして、私は立ってしまったの?)
身体を汚されて、ついに殺されると察しても、ルナはなぜか別の事が気になっていた。
(どうせ、喰われなくても毒で死ぬしかないのに……そうだ、ニジカに呼ばれた気がして、だから立たないといけないって思って)
答えに気づいた時、ルナは悔しさに唇を噛んで大粒の涙が零れた。
「ニジカ、ごめんなさい……私は貴方を…………ずっと」
「ルナ!」
鮮明な名前を呼ぶ声が、全てを諦めかけていたルナの顔に僅かに生気を取り戻させた。
彼女が見たのは、首から顔の半分を蛇の毒に侵されながらも、こちらに向かって懸命に走って来るニジカだった。
「来ちゃ駄目、お願い! 来ないでニジカ!」
「あああああああああああああっ!」
雄叫びを上げながらニジカはルナに飛びつき、押し倒す。
直後、ルナが立っていた場所を大口を開けたネフシュタルの頭が通り過ぎる。
ニジカは、ネフシュタルの巨体を目の前にして、遠くから見ていた時よりも更に巨大だと思った。
胴体だけのサイズでもニジカよりも高く、3人分の太さがあった。
だとしても、立ち向かう他に選択肢はなかった。
押し倒した時にルナが落とした剣を握り、獲物を取り逃して無防備に曝け出したネフシュタルの長い胴に降り下ろす。
「やあっ!」
「待って、貴方には!」
ルナの懸念は当たり、剣の刃は青銅の鱗に阻まれ、弾かれる。
「ニジカには無理です! 天使ではない人間の貴方には魂名もない、剣の技術もない、神子としての力もまだ覚醒していないのに!」
「ルナ、ごめん!」
「きゃあっ!」
ルナからして唐突に思える切り替えの早さで、ニジカは彼女を抱き上げて走り出した。
再びの直後。動物たちを蹂躙していたもう1匹のネフシュタルが頭を降り下ろし、下顎を今さっきまでニジカたちがいた地面に叩きつけていた。
もし逃げていなければ、今頃には2人とも潰されていた。
「今のは!?」
「ごめん、次跳ぶかも!」
ニジカは逃げるために一切後ろを見ず、今度はルナを抱えたまま跳ぶ。
地を走るための両足を曲げて全力で跳んだ高さは、口を開けながら頭を滑り込ませてきた2匹のネフシュタルの頭上を見下ろせる、5m程の高さにまで到達していた。
「ウソ! ウソウソウソ!? 凄い跳んじゃったどうしよう!? どうやって降りるの!?」
「落ち着いてください! 今の状態から姿勢を崩さないように! 地面に足が着いた瞬間に膝を曲げて衝撃を緩和させて!」
跳んだ本人とってもその高さは予想外だったが、ルナに助言に覚悟を決める。
「やってみる!」
重力によって上昇していた勢いがなくなり、落下が始まる。
ニジカにとって教会の屋上から飛び降りるような気分であり、もし上手く着地できたとしても足が壊れてしまいそうな恐怖があったが、やるしかなかった。
地に着いた足の裏から衝撃が伝わり、一気に太腿に全ての重さがのしかかってくる。
運良く、ルナが言った通りに膝を曲げて衝撃の緩和には成功する。
でも、バランスを崩して前のめりになってしまい、小走りをして最後には転んでしまう。
「ルナ、大丈夫!?」
「う、く!」
首と手足、翼の砕けた部位から、ちょっとした衝撃だけでも激痛が走る。
割れた花瓶から零れる水の様に、血が抜けていく。
激痛、貧血、毒、あらゆる原因に意識を失いそうになるのをルナは歯を食いしばって我慢し、自分よりも大切なニジカを気に掛ける。
「私よりもニジカこそ大丈夫なのですか、貴方はさっきから異常な身体の使い方をしているのですよ!? 私を抱き上げて走るのも、さっきの異常な跳躍も、今までのニジカの身体能力では不可能だったはずです!」
「自分の身体がどうなってるかは、ちょっとはわかってるつもりだよ。なんかいつもよりも身体が軽くて、出来るような気がしたんだ」
「それだけではありません。ネフシュタルの攻撃を避ける時、一切敵を見ていませんでしたよね? 一体何があったのですか、蛇の毒も受けている様子ですが本当に大丈夫なのですか?」
「それは、まだよくわからない」
「わからないって!」
「でも多分、ルナが言ってた神子の力が関係してるんじゃないかって思ってる」
立ち上がり、臆する素振りも出さず、ニジカはネフシュタルに向かってルナの数歩先を歩む。
「神子の力が覚醒したのですか?」
眼を見開くルナに、ニジカは首を横に振る。
「でも、さっきリンゴを食べた後から色々変わったのは間違いないんだ。他にも今まで見えなかったモノが視える様になったんだ」
「リンゴ? 神子が見えるモノってまさか」
「ねえルナ、僕ね、凄く怒ってたんだ」
「え?」
「木の下に落ちて蛇に噛まれて、苦しくてずっとルナを呼んでた。でもね、傷ついたルナが立ち上がったのを見た時、凄く、今までにないぐらい怒れたんだ。大切なルナを傷つけた蛇が許せないと思った、何よりもルナが大変な時に何もできない自分が心の底から許せないと思った」
ニジカは、再び湧き上がってきた怒りを収めるために、胸の内側を熱する衝動を確かめるために服の胸部を掴む。
「僕もルナを護りたい! 僕だって大切な誰かを護れるぐらいの強さが欲しい! だって僕は神子で、神子はこの天界を救うために生まれて来たのだから! 目の前の天使すら救えなかったら、どうやって天界なんて救えばいいのか全然わからない!」
「ニジカ、落ち着いて、冷静になって! 貴方は今、興奮して正常な判断ができていません! もし神子の力が覚醒していたとしても、勝てる見込みがあるのかわからない敵なのです! お願いだから逃げて、私は死んだって構わないから、だから!」
「そんなの絶対嫌だ! ルナに死んで欲しくない! 僕はもっとルナと一緒に居たいんだ!」
ルナの懇願をかき消す声量で、ニジカは拒絶する。
「なんで……」
この時、ルナは反論の言葉を上手く紡げなかった。
普段、滅多な事では声を荒げたりしない優しい子であるニジカに、強く明確に拒絶されて驚愕したのが理由の1つ。
もう1つの理由は、背中を向けて顔が見えないニジカの、剣を握る手と足が可哀そうな程に震えていたからだった。
武者震いではなく、怖がっている類の震えだ。
ルナは理解してしまった。ニジカは、ルナのために必死に戦おうとしているのだと。
ルナを護りたいと思う愛情、ネフシュタルや自分への怒りはきっと嘘じゃない。
でもそれらは、これまで経験した事のない脅威と恐怖に立ち向かうための、神子と言う特別な出自があるとはいえたった13歳の子どもが強がるための、己を鼓舞するための理由付けでもあったのだと。
「お願い、だから……」
そうして勇気を振り絞っている健気な姿に、一縷の希望を感じ取ってしまった。
冷静に考えれば、これまでろくに喧嘩すらした事のないニジカがネフシュタルに勝てる見込みなんて奇跡でも起こらなければありえない。
でも、ルナは一瞬でも思ってしまった。
もう私は戦えない、傷だらけで動けない、だから助けて欲しい、と。
もしかしたら、ニジカなら奇跡を起こせるかもしれない、と。
「私は……私も貴方を…………」
なんとか声を搾り出そうとした時、急にニジカが走り寄って来てルナを抱きしめる。
ルナの額にキスをして、名残惜しそうに離れていく。
「行ってきます」
額へのキスは、相手への特別な深い愛情を示すとされている。
だがこの場合、そのキスの意味はまるで死地へ赴く戦士が恋人へ送る最期のそれだとルナは思えてしまった。
「駄目! ニジカ行かないで!」
離れていくニジカにルナは必死に手を伸ばすも、砕けた右手は何も掴めない。
足も、翼も失った天使には愛する人を追いかける術もない。
「僕はきっと大丈夫だよ、ルナ」
離れていくばかりだと思っていたニジカが立ち止まり、振り返った。
「ルナは、まだ大丈夫だよね? 毒なんかに負けないよね?」
「……、はい」
ルナは思わず頷いてしまい。
「剣借りてくね。だから待っててね、絶対に戻って来るから!」
「待っていますから、必ず」
口約束をしたニジカが走っていってしまうのをただ見送るしかなく、涙を零しながら項垂れた。
「私は…………」
🌈
(やっぱり視えるし、聴こえる! 【あれ】は幻覚でも幻聴でもない、これが多分、ルナの言ってた神子の力なんだ!)
ニジカは両手で剣を握り締めながら2匹のネフシュタルへと走り、自身の、神子としての目覚めた力を再確認していた。
木の下で蛇に噛まれ、毒の激痛に苦しんでいた時、リスが持ってきたリンゴを食べた。
すると毒の痛みが和らぎ、身体にこれまでにない力が溢れ、見えなかったある物が視認できる様なった。
それは、1匹のネフシュタルの胴体の腹部側、人間でいう胸部の前に中心から虹色の光を発する透明な多角形の球体だった。
(【あれ】はルナにも見えた! ルナのは半分まで砕けてたし、虹の光も消えそうなぐらい弱かった。毒に侵されて傷ついてるルナに対して蛇のは綺麗な球体のまま、その差の原因が元気かどうかの問題なら多分、【あれ】は命そのものみたいな物なんだ! それに!)
ネフシュタルの虹色の光球が震え、虹の光が波打つ。
その時、ニジカの耳には不可思議な音が聞こえていた。
鈴の音に似た、とても鈍い音だった。
音が聞こえてからニジカが走るのをやめて待ち構えていると、ネフシュタルは口から毒液を吐いて飛ばしてきた。
(やっぱり、音が聞こえた後に攻撃してくる。よくわからないけど、これなら避けられる!)
前に飛び込んで前転をしながら毒液を避け、そのまま直進する。
(僕にはルナみたいな剣の技術なんてない。喧嘩もした事ないし、誰かと戦った事なんてない! でも!)
音を聞き、攻撃を避けながら、定めた場所へたどり着くために走る。
目指すのは、虹色の光球を胸に掲げる方のネフシュタル。
ひたすらに走りながら思い出していたのは、毎日、教会の中庭で剣を振っていたルナの姿だった。
(でも、剣の振り方なら毎日ルナの背中で見てきたんだ! 鱗は固くて無理だったけど【あれ】なら斬れるかもしれない、斬らないともうどうしたらいいかわからない!)
「邪魔!」
虹色の光球を持たない方のネフシュタルが丸呑みにしようとしてくるのを避け、頭を踏み台にもう片方が掲げる虹色の光球の高さまで跳ぶ。
空中で、剣を思いっきり振り切る。
瞬間、ニジカの左手からも虹色の光が生まれ、掴んでいる剣も輝きに包まれた。
虹色の刃は、ネフシュタルの虹色の光球を半分に割り斬った。
「キュララララララララララ!?」
奇妙な声がネフシュタルの鳴き声だとわかったのは、剣を思いっきり振った勢いで体勢を崩したまま地面に背中から落下し、「ぶえっ」と情けない声を上げた後だった。
悶え苦しむように暴れ、巨体の背中を見せながら逃げていった。
1匹が逃げると、虹色の光球を持たないネフシュタルもニジカを一瞥してから後を追って逃げていく。
2匹のネフシュタルの姿が遠ざかり、地面に潜って消える。
地中を進む際の地響きの音も遠ざかり、無音の時間が訪れてからニジカは呟いた。
「もしかして勝ったの、かな?」
ニジカは命の危機を脱したとわかった途端に緊張が解け、一気に押し寄せてきた疲労に身体が重くなり、足が震えてしばらく動けそうにないと思った。
「いたっ」
剣の柄から手を離そうとすると、筋肉が固まり、指の関節が軋む痛みを発していた。
手のひらで血豆が潰れており、無意識に全力で握りしめていたのを今更に知った。
「なんだったんだろう、あの手の虹……」
ネフシュタルの虹色の光球を斬る直前に、左手から生まれ同色の光の事だ。
もう手も剣も光ってはおらず、どうやって出したのかもわからなかった。
「それに触れるんだ【あれ】って、変なの」
ニジカは左手を不思議そうに眺めた。
「そうだ、ルナ!?」
戦っていたさっきまでとは打って変わり、重たい身体に戸惑いながら走って戻ると、ルナは気を失って倒れていた。
「ルナしっかりして! 死んじゃやだよ! ルナぁ!」
ルナは揺すっても目を覚まさず、呼吸すらも止まっていた。
顔は完全な土色に変色。
身体も蛇の毒による浸食が進んでおり、首、翼、手足の砕けていた部位の損壊が徐々に広がっていた。
明らかに、命の終わりが近づいているのがわかった。
その証明か、ルナの胸の前に浮かんでいる虹色の光球はさっきよりも砕けて小さくなり、小指の先程の小ささになっていた。
「どうしよう!? どうしたら止められるの!?」
混乱して泣きそうになりながら、咄嗟に左手でルナの虹色の光球に触った。
すると、また左手が同色の光を発した。
「え?」
ネフシュタルの時は違う反応だった。
1度手を離してから、また近づけてみる。
「やっぱり、元に戻ってる!」
光る左手を虹色の光球に近づけると、双方の光量が共鳴する様に強くなる。
ニジカの左手から生まれた虹色の光が、極小の光子となってルナの虹色の光球に流れ込む。
しばらくそのままにしていると、ルナの虹色の光球の砕けていた部分が勝手に復元されていく。
まるで、ニジカの左手から生まれる光を吸収し、息を吹き返えそうとしているかの様だった。
虹色の光球が復元されていくに連れてルナの顔色が良くなり、毒による肌の変色も消え、身体の砕けていた部位も傷口から新しい血肉が生えて元通りになっていった。
「もしかして、これが
自分の力のはずなのに、あまりの常識から外れた光景に不気味さを感じた。
でも、今はなんでもいいとさえ思えた。
大切なルナを護れた、それだけでニジカは満足だった。
「大変なピクニックになっちゃったね。でももう大丈夫だよ? 蛇も追い払ったしちゃんと約束は守ったよ? だから帰ろう、ルナ」
ニジカは穏やかな寝息を立てる彼女の寝顔に、涙を我慢できなかった。