目覚めたルナは、長い夢の余韻に浸り、光の失せた眼から熱い涙を流していた。
覚醒していない思考では夢の内容も、そもそも夢を見ていたのかさえ判断できなかったが、胸中に深い悲しみの感情が残っていた。
「ここは……」
しばらくして、起き始めた意識で自分がどこにいるのかを探し始める。
見慣れた部屋のベットで眠っていたと思ったのはそのはずで、ニジカと一緒に暮らしているラレア教会の自室だったからだ。
「私は一体?」
寝起きのせいだろうか、眠る前の記憶が上手く思い出せなかった。
代わりに気づいたのは、泣いていた事と、身体がいつにも増して軽くなった気がする事だった。
泣いていた理由はなんとなくわかる。
内容はほとんど忘れてしまっていたが、とても悲しい夢を見ていた。起きた今となってはそこまで気にならなくなっていた。
耐え切れない絶望と悲しみに暮れていた時、優しい声に名前を呼ばれて、抱きしめられながら額にキスをされた。
誰かはわからなかった。でも自然と嫌じゃなく、幸福感に満たされた。
すると夢が終わり、現実に引き戻された。
まるで、その誰かが悪夢から救い出してくれたみたいだった。
寝ていたのだから当然かもしれない、いつの間にか純白のネグリジェに着替えていた。
額の違和感を手に取ってみると、氷水で濡らした冷たいタオルが乗せられていた。
風邪でも引いて寝込んでいたのだろうか?
「右手?」
ふと気になったのは、タオルを握る自分の手だった。
きっかけが記憶を連鎖的に呼び覚まし、思考が急激に冴えていく。
「そうだった。私の手は蛇の毒に侵されて、砕けて」
ようやく思い出す。
ニジカとピクニックに出掛け、ネフシュタルという三つ眼の大蛇に襲われ、蛇の毒に侵されて動けなくなった自分の代わりにニジカが剣を持ってネフシュタルに立ち向かっていったのを。
「ニジカ!? ニジカ、どこですか!?」
求める人間の名を叫んだ。
ニジカが走っていった後、すぐに気を失った。
あの後はどうなったのか。
自分が教会に戻っているということは?
ニジカは生きているのか?
「あうっ!」
ベッドから降り、走り出そうとして足がもつれて転んだ。
右手と同様に蛇の毒で砕けたはずの片足も、欠けてしまったはずの片翼も元の形に戻っていた。
だがそんな事はどうでもいいと、すぐに立ち上がってドアノブに手を伸ばす。
手も翼も足も、毒も治っている理由なんてどうでもいい。
知りたいのはただ1つ。彼女が導き護ると誓い、愛情を込めて育ててきた神子の安否だけだった。
「ニジカ!」
「わっ!?」
扉を開けた直後に、陶器が割れる音がした。
目の前にはニジカが立っており、食事として持ってきていたらしいスープと器にしていた皿が床に落ちて散乱していた。
目立つ傷もない、元気そうなニジカが信じられないと言いたげな顔でルナを見上げていた。
「無事だったのですね!? あの後どうなったのですか? ネフシュタルは? どうやって教会まで逃げてこれたのですか? 貴方にもしもの事があったら私は」
「ルナぁ!」
ルナが矢継ぎ早に質問を投げかける間にニジカの眼に涙が溜まっていき、抱き着いた。
目を丸くするルナに、ニジカは泣きじゃくりながら訴える。
「ずっと心配してたんだよ!? 怪我も毒も治ったはずなのに全然目を覚ましてくれないから!」
「そんなに、眠っていたのですか?」
「4日もずっとだよ! 話しかけても何も言ってくれないし、他に誰に頼ればいいかも、どこにいるのかもわからないし! もう起きないんじゃないかってずっと心配で! でも生きてて良かった! ルナが生きててくれて本当に良かったぁ!」
言いたい事を言い切って、ニジカは大声で泣き続けた。
感化されてルナも涙が零れた。痛くならないぐらいに、生きている感触と温もりを得ながら、精一杯の力で抱きしめ返した。
「私もです。ニジカが生きていてくれて本当に良かった」
それからルナのお腹が空腹に鳴り、ニジカの作ったスープを食べる事にした。
ニジカは率先して動いていた。
ルナのために椅子を引いて座らせ、食器を全て用意し、温め直したスープを皿に盛って届けた。
ルナが食べている間に、廊下に散らばったスープや食器の片づけもしていた。
スープは、上出来とは言えなかった。
切った具材の大きさは不均等で形もばらばら、熱がちゃんと芯まで届いていない。
味付けも、何を入れたのかわからない不思議な味だった。
それでも、ルナは美味しく感じていた。
2人とも無事に生きて帰って来れた奇跡と、ニジカが自分のために頑張ってくれている気持ちが嬉しくて仕方なく、味なんて気にならなかった。
「どうだった? 初めて1人で作ってみたんだけど」
ニジカが不安そうに覗き込んできて、正直に答えた。
「美味しいですよ、また作ってくださいね」
「やった! また作るね!」
無邪気に喜ぶニジカの笑顔に釣られて、ルナも本心から笑顔になる。
何も変わらない、彼女の知っているニジカが傍に居てくれる。
それがどれだけ幸運な事か噛み締めていた。
「そういえばルナ、手足とか翼はもう大丈夫? 痛かったりしない?」
「砕けていた部分ですか? 違和感も痛みもなく問題はありません。むしろいつもよりも身体が軽い気がします」
「そっか……じゃあちゃんと治せたんだね、良かった」
ニジカが自分の左手を見つめて、安心した表情になる。
お腹も満たされたルナはいつもの頭の回転の速さを取り戻しており、ニジカの意図を即座に察した。
「もしかして、私の傷や毒を癒してくれたのはニジカなのですか?」
「うん、そうだよ」
ニジカは嘘をついている様子もなく、素直に頷いていた。
「多分、ルナの言ってた神子の力だと思ってる。そのおかげでルナの傷も治せたし、あの大きな蛇も追い払えたんだ。あ、そうだ聞いて! 僕ね、虹の球が視えるようにもなったんだ!」
「虹の球?」
急に話題が変わったがルナは冷静に話を最後まで聞こうと、理解しようとする。
「ルナの胸の前にね、硝子みたいな綺麗な球が浮かんでるんだ。その球は中が虹色に光っててね、それを左手で触ったらルナの傷が全部治ったんだよ? 神子の力って凄いんだね! あとね、不思議な音も聞こえるんだよ、ルナからは綺麗な音が聞こえるんだ」
「…………」
「どうしたの?」
興奮しながら喋っていたニジカは、ルナの顔色が変わったのに気づいた。
例えようのない感情に染まった表情になっていた。
「ごめんなさい、少し驚いてしまっただけです。虹の球についてはまだなんとも言えませんが、傷どころか砕けた手足すら元に戻す程の癒しの力……いえ、これはもう再生と言うべきでしょう。医術に長けた高名な天使でも再現不可能な領域の事象です、神子の力だと言った方が逆に納得がいきますね」
「やっぱりそうなんだ、再生が僕の能力なんだ! じゃあもうルナがどれだけ傷ついても病気になっても治してあげられるんだね!」
「そうですね……」
「ルナ? やっぱり調子悪いの? まだどこか痛い?」
ルナは俯き、自分の身体を抱きしめていた。
「大丈夫ですよ、少し寒気がしただけですから」
「もしかして、僕のスープのせい?」
「そんな事はありませんよ。横になってきます、後片付けをしておいてくれませんか?」
「片づけはする、でも部屋まで送らせて?」
「え、それはどういう、きゃあ!」
ニジカは軽々とルナをお姫様抱っこして、部屋まで運んでいく。
「重くありませんか?」
「ぜんぜん?」
大人しく運ばれるルナに、ニジカは笑顔を見せる。
「本当に力持ちになりましたね、ニジカ」
「そうみたいだね、神子の力が覚醒したからなのかなーって考えてはいるんだけど、自分の事なのになんだか実感がないんだ」
「その内に慣れますよ。私も自分の魂名とその能力を自覚した時はとても困惑しましたから」
「そうなんだ、でも、どうせ力持ちになるなら身体も大きくなりたかったな」
「なぜですか?」
「だってもうちょっと大きかったら、こうやってルナを運ぶ時に安心してもらえる気がするから」
「今のままでも十分ですよ、本当に」
「でも、ルナさっきから顔が赤いし、ちょっと熱くなってるよ? それに虹の球から聞こえる音も落ち着かないというかドキドキしてる感じだし」
「気のせいです。あとニジカ、その音は今だけは無視してください。わかりましたか?」
「わかった」
理由はわからないけど、早口でルナが拒むなら言われたとおりにするニジカだった。
「誰だって、急にお姫様抱っこされれば恥ずかしいに決まってるじゃないですか……」
「なに?」
「何も言ってません」
「そっか」
ニジカはルナをベッドに寝かせてダイニングに戻り、食事の後片付けをすると様子を見に部屋を訪れる。
「ルナ? 調子はどう?」
ルナはベットで上半身を起こし、膝には毎日書いている日記帳を置いて、頁にペンを走らせていた。
「もう大丈夫みたいです、心配掛けてしまいましたね」
「ううん、ルナが元気でいてくれるだけで僕は嬉しいから」
ルナはニジカの返事に満足した微笑みを浮かべて、日記帳を閉じる。
「ニジカ、もう少しこっちに来てくれませんか?」
「うん」
何の疑問も持たず招かれるままに近づいたニジカの手を取ったルナは、引き寄せて胸元に顔を埋めさせ、桜色の髪を撫でる。
「えっと……どう、したの?」
ニジカは、思わず目を丸くする。
ルナとは、5歳の頃から一緒に暮らして来た。
人間と天使。
神子とその世話役。
種族の違いやそれぞれの立場ある2人は、長い時間を過ごしていく内に家族にも等しい信頼を結びながらも、距離感を保った関係を築いてきた。
ルナはこれまでニジカにもあまり素肌を晒さず、できるだけ触れさせないようにしている節があった。なのに、胸元の開いたネグリジェの、豊かな乳房の谷間に自ら直接顔を埋めさせるなんて考えられない行動だった。
女性のデリケートな部分に触れて感じる柔らかさに、ニジカはいけない事をしていると、罪悪感と背徳感と恥ずかしさに顔が赤くなっていく。
抜け出したくても放してくれる気配はなく、かといって、神子の力が覚醒してから強くなった腕力で無理に離れようとして傷つけてしまうのも嫌だし、もし拒絶されたと感じたルナが悲しい顔をしてしまうのではないかと思うと離れられなくなってしまう。
ささやかな抵抗で、ほんの少しだけ動いてみる。
ニジカの髪と頬がルナの柔肌に擦れる。
「んっ」
ルナが甘い声を漏らして身体を揺らし、不本意な反応をしてしまった事に顔を赤くしてしまう。
「ニジカ、その……あまり動かないでください。今まで言えなかったのですが、私は肌の感覚が敏感で、直接触れられるだけでもくすぐったくなってしまいますので」
「ごめんなさい……」
そう言われてしまったら、もうじっとする以外に選択肢はない。
大人しくなったニジカの髪を撫でるのを再開しながら、ルナは囁く。
「大事な事を言い忘れていました。ありがとうございますニジカ、私のためにネフシュタルと戦い、傷を癒すだけでなく温かいスープまで作ってくれて。私はとても幸せです、貴方は命の恩人です」
「僕にとってルナもそうだよ? 護ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
素直で純粋な言葉。
ルナの知るニジカらしい返事が、これまでよりも一層に愛らしさといじらしさを感じさせ、自分の心に正直になる欲求を駆り立てる。
「実は、目覚める前に夢を見ていました」
「どんな?」
「内容はほとんど覚えていませんが、とても悲しい夢でした。悲しくて、辛くて、苦しくて、でも、泣いていた私を助けてくれた人がいました」
「誰だったの?」
「その時はわかりませんでしたが、今わかりました。現実だけでなく夢の中の私を救ってくれたのはニジカだったのです。だから、夢の分もありがとうございます」
「どうして僕だと思ったの?」
「なんとなくです。匂いや体温や抱きしめてくれた時の力加減、あと額にキスをしてくれましたから」
「あ」
ニジカは、すっかり忘れていた。
ネフシュタルとの戦いの際、ルナの額にキスをしていたのを。
キスの意味を知らない年頃じゃない。今更になって猛烈な恥ずかしさに襲われる。
「ご、ごめんなさいルナ! あの時は必死だったって言うか、色々と夢中だったから! 変な意味はなかったんだよ!? しなきゃいけないと思ってつい」
「わかっています。それだけニジカが決死の想いだったのも」
必死の弁明の末に、優しい微笑みを向けられたニジカは安心するも。
「でも、初めてだったのです。誰かにキスをされるのは」
「うぅ!?」
頬を赤らめて、恥かしそうに目を逸らすルナの一言に、次は大きすぎる責任感に押しつぶされそうになる。
小さい頃、ルナに教えられたのをしっかりと覚えていた。
天使の女性にとってキスは、特に初めてのキスは特別なもので、心を許した相手にしかしない、させてはならないのだと。
そんなルナの、大切な初めてを奪ってしまった。
「どうすれば許してくれるの? 僕、ルナのためならなんでするから、頑張るから!」
責任の取り方をまだ13歳のニジカは思いつかなかったが、取り返しのつかない事をした罪の意識に涙目になりながら気持ちを伝える。
ルナは、一生懸命になるニジカの様子に嬉しそうにほくそ笑んだ。
「責めているつもりはないのです、余計な心配をさせてしまってすいません。ニジカになら私は……」
「じゃあ、許してくれるの? 怒ってない?」
「勿論です。それとは別に、もし良かったら私のお願いを聞いて貰えませんか?」
「うん、なんでも言って」
胸を撫で下ろしたニジカは、ルナのお願いを聞きもせずに受け入れる。
「添い寝を、してくれませんか?」
「え、でも」
また驚かされる。
ルナは、他人に無防備な姿を晒すのもあまり好きじゃなかった。
ニジカに対してもそれは同じで、彼女が一緒に身体を寄せ合って寝るなんて、しかも自分から望むのは8年間一緒にいて初めてだった。
ルナも自覚はしているのか、声はいつもより弱々しく、切ない表情をしていた。
「お願いします」
「わかった、ルナが良いのなら」
ニジカはマフラーを取って、毛布を持ち上げたルナの隣に潜り込む。
2人では狭いベッドで同じ毛布をかぶっているのもあり、息遣いがわかるぐらいに距離が近かった。
(なんだろう、変な感じがする)
顔を合わせながら横になるのは駄目な気がして、背中を向けた。
急にどうしてそう思ったのか、不思議でならなかった。
今まで感じた事がなかった、恥ずかしい様な、緊張する様な、こそばゆい様な、ルナの顔を見てしまうと妙な気分になってしまう、その気持ちを知られてしまうのすら嫌だと思った。
「ニジカ、顔を見せてください」
ルナはニジカを仰向けにし、躊躇なく覆い被さる。
互いの身体の感触を確かめ合わせながら体重を預け、ニジカの可愛らしい顔の額にキスをした。
「ルナ?」
「これでお互い様です。私では嫌でしたか?」
「ううん、でも」
ニジカも、覚えている限りでキスを誰かにされたのは初めてだった。
不思議な感触だと思った。
同時に、一緒に過ごしている内に形成された、当たり前と思い込んでいたルナとの距離感が、この瞬間に変わり始めたのを無意識に感じ取ったのだった。
「おやすみなさい、ニジカ。大好きです」
「僕も大好きだよ。おやすみなさい」
本当は調子が悪かったのか、ルナはニジカを胸元に抱いて、すぐに静かに寝息を立てる。
子どもがお気に入りのぬいぐるみを抱いて寝るみたく、穏やかで、安心しきった寝顔だった。
ニジカは一瞬だけ躊躇をしてから、できるだけ優しく彼女の背中に手を回す。
「本当に、無事で良かった」
ルナの匂いと体温に心地よさを感じたからか、目覚めるまで寂しかった気持ちを我慢していた反動なのか、ニジカも沸いてきた眠気に誘われてすぐに目を閉じた。
〇 〇 〇
眠りから覚まさせたのは、鐘の音だった。
教会の出入口、本堂の扉に呼び鈴代わりに備え付けられている鐘だ。
「ん、う……誰だろう?」
ニジカが眠気眼を擦って上半身を起こした時には、先にベッドから抜けていたルナがカーディガンを羽織り、手には真新しい剣を握っていた。
「珍しいね。たまにくるルナの知り合いの人たちかな?」
「そうかも、しれませんね」
ニジカにはわからなかった。
この時のルナが、いつもどおりの微笑みを浮かべながらも気を立たせていたのを。
「僕が出て来るよ、ルナは寝てて」
「ニジカは出なくて良いですよ。相手は私がします」
「駄目だよ、ルナは病み上がりなんだから。 僕に任せてよ」
「わかりました、では一緒にいきましょう。ここまでが許容範囲です」
「なんで?」
「あの方たちは私に用事があるのです、ニジカだけが出て行っても、結局私を呼びに来る羽目になると思いますよ?」
「そっか、わかった。ルナは良く寝れた?」
「はい、ニジカのおかげです。行きましょうか、あまり待たせてはいけませんからね」
「うん!」
廊下に出て、自然な流れを装ってルナはニジカの前を行く。
その間にも鐘の音は響いており、何者かは早く出てこいと何度も鳴らしていた。
ルナが扉を開けるのを、ニジカは後ろから興味津々に覗いていた。
これまで教会に来た訪問者の全員はルナが相手をしており、ニジカは直接会って話をした事がなかった。
それが当たり前だと言い聞かされ、思い込んでいた。
でも、今日はそれが許された。
そんな初めての経験への期待感のせいか、扉の向こうにいる誰かは特別な天使になるとさえ思えていた。
「どなたでしょうか? エブリン!? どうやってここまで!」
ルナは訪問者の正体に驚いていた。
ニジカは、鮮烈な彼女の印象に目を奪われた。
「久しぶりだな、ルナ。アタシの大事な妹は元気か?」
その天使は、ルナとは真逆の性質を纏っていた。
身長が高く、しなやかで長い手足を持っていた。
挑戦的な眼つきと歯を見せる笑い方は好戦的な本性を現わしており、光輪と翼は黒、肌の色も褐色、髪と瞳の色は煌めく金色をしていた。
何よりも印象的だったのは、金色の瞳の中心、瞳孔が真実を意味する赤色だった事だった。