どうやら正しく力を送れたようだ。その途端、芹の身体が大蛇からまた人の姿に戻っていく。
「……戻った」
「……彩葉、か」
突然名前を呼ばれた事に驚いて芹を見ると、芹はうっすらとこちらを見て、ふ、と笑う。それは初めて見る芹の笑顔だった。
「芹様」
「お前は暖かいな。もう少し寝ていろ」
私の頭を抱きかかえて芹はそう言ってまた目を閉じてしまう。そんな芹を見て何だかホッとするような胸が詰まるような思いで私も目を閉じた。
翌朝、私が目を覚ますとそこにはもう芹は居なかった。ふとスマホの時計を確認すると、時刻は既に昼前だ。
それに驚いて飛び起きると、パジャマのままダイニングに駆け込んだ。
けれどそこでは何故か狐の二人と伽椰子が互いに怖い顔をして睨み合っている。
「お、おはようございます。えっと……?」
あまりにも張り詰めた空気にしどろもどろになりつつ挨拶をすると、伽椰子は突然こちらにツカツカと歩み寄ってきた。
「昨日渡した物はどうしたの?」
「え? あっ!」
そう言えばそうだった。昨日のゴタゴタで学校にカバンも伽椰子から預かった荷物も、何もかもを置いてきたままだったのを思い出して、青ざめた私に伽椰子は怖い顔で詰め寄ってくる。
「ちょっと、まさか学校に忘れたとか言わないわよね?」
「えっと、すみません。その通りです……」
「嘘でしょ? あれはどうしても今日必要なのよ? 大学のサークルの物が入っていたのに、あなたお使いもまともに出来ないの? 今すぐ取ってきてちょうだい。一時間以内に」
大学の物? この神社の物ですらない物を私に預けたの?
ピシャリと言う伽椰子をしばらく唖然として見上げていたが、今度は気分が悪くなってきた。思わず口元を手で覆ってダイニングを飛び出した私はそのままお手洗いにかけこみ、胃の中の物を全て吐き出す。
「巫女! これ、水です。すぐにうがいをしなさい」
「ビャッコ先輩……ありがと、ございます」
ビャッコの手から水を受け取ってうがいをすると、少しだけ気分がスッキリする。大きなため息を落としてダイニングに戻った私に伽椰子は腕時計に視線を落として言う。
「あと50分しかないわよ?」
「……」
多分、この人は鬼の化身だ。そうに違いない。思わず俯いた私に伽椰子はさらに言う。
「信じられないわ。こんな時間まで寝てた挙げ句にそんな格好で出てきて、おまけにお使いも出来ないなんて、あなた一体何が出来るの?」
「お前、見て分かるだろ!? どう見ても巫女は体調不良だろうが!」
流石に伽椰子の態度にそれまで静観していたテンコが口を挟んだけれど、伽椰子はそんなテンコと視線を合わせるようにしゃがんでテンコの頭を撫でた。
「テンコ様、巫女はいついかなる時でも体調不良などあってはならないのです。神の仕事に休みが無いのと同様に、巫女にも休みなどありません」
それを聞いて今度はビャッコがキレた。
「何の仕事もしない人間がよくそんな事を言えますね。神職を学んでいると言っていましたが、本当ですか? 今までそれこそ何百年もの間ウチ達はそれはもう多くの巫女を見てきましたが、お前ほど傲慢で厚かましい巫女は初めて見ました。時宮はもう終いですね」
「ビャッコ様、境内を掃除したり本殿を掃除したりするのは位の低い巫女のする事。そして私のような位の高い巫女は神社の為に毎日祝詞をあげる事が仕事なのです。朝と晩に一度ずつ、それこそ精神を使い果たすまで芹様に祈りを捧げる。それが私の仕事なのですよ。それにこの身を使って芹様に力を注ぐ事も」
甘い、あくまでも一見優しげな声で伽椰子は言うと、ちらりと私を見た。その視線の奥にはあの日の事を言っているのだと、はっきりと書かれている。
私は拳を握りしめてキリキリする胃を抑えた。
そこへ聞き慣れた静かな声が響く。芹だ。
「そんな物が私に届いた事はないがな」
突然現れた芹に伽椰子はハッとして振り返ると、芹の腕を自分の方に引き寄せる。
「芹様! そんな事は無いはずです! 私は朝と晩、毎日あなたの為に祝詞をあげて――」
「祝詞? あんな物が私の力になると思うのか? 私の力の源は巫女からもらう力と人々の声だ。伽椰子の祝詞など、私には何の効果も無い。それは伽椰子が私の為にあげている祝詞ではなく自分自身の為にあげているからだ。それよりも何事だ? 巫女はここで何をしている? まだ眠っていないといけないはずだぞ」
「で、でも皆のご飯が……」
しどろもどろに言いかけると、芹が無言で近寄ってきて私を軽々抱き上げた。
「駄目だ。お前の食事を食べられないのは確かに惜しいが、あの男の言うように私はお前を守らなければならない。でなければお前を取り上げられてしまうそうだからな」
そう言って口の端を少しだけ上げた芹に私だけでなく皆もギョッとしたような顔をしている。
「芹様、そんな底辺の巫女とそのように接触なさるのはお止めください」
静かな、けれど明らかに怒りのような物を含んだ伽椰子の言葉に芹がとうとう角を出す。冷気が流れ、ダイニングが一瞬で冷えた。