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第82話『楽しみにするという事』

 握りしめた芹の手は相変わらず冷たい。私はその手を温めるように両手で握りしめる。


「芹様、さっきの芹様の言葉なんですけど」

「さっきの? どれだ?」

「私の時間を奪ってるかもって奴です!」

「ああ、あれか。あれがどうした?」


 不思議そうに私を見下ろす芹に私は息を短く吸う。


「芹様はむしろ私に時間を与えてくれてるんですよ!」

「そうか?」

「はい。もしも私が芹様の所に居なかったらきっと毎日バイトに明け暮れて勉強と家事とお金の事ばっかり考えて、もしかしたら高校も中退してたかも。大学なんて絶対に行けないだろうし、それこそ自暴自棄になってヤバい事とかにも手を染めて警察のお世話になってたかも……」


 自分で言っておいて何だが、本当にそんな事にならなくて良かったと心の底から思う。


「だから衣食住を与えてくれた芹様は、私に時間をくれたんです。とても貴重な時間を。だからそんな事言わないでください。そんな風に思わないでください」


 私の言葉に芹は少しだけ目を細める。


「巫女……そうか。今の生活を巫女はそんな風に思うのだな」

「当たり前です! 二条先生も言ってたじゃないですか! 楽しそうだなって」

「そうだったな。楽しい……よく分からないが、お前が学校に行っている間、私は用事も無いのに炊事場を覗いたり裏の畑を見たりしてしまうのだが、これが楽しいという事か?」

「……いや、それはどちらかと言うと心配では?」


 相変わらず子供扱いされている事に気づいて苦笑いを浮かべると、芹は小首を傾げる。


「難しいな、感情と言うのは」

「多分、芹様は感情の名前を知らないだけですよ。心が動かない訳じゃない」


 でなければ神様なんてやってられない。人の心を聞き願いを叶えようとする芹が感情を知らない訳がない。


「そうかもしれないな」


 何かに納得したように芹は私の手を握り返して歩き出した。私はそんな芹の隣に立って何気なく芹を見上げてみると、芹は真っ直ぐに前を見て視線をいつものように前方に縫い付けたままだ。


 けれど今日はその口元がほんの少しだけ綻んでいた。そんな芹を見て私は心の中で呟く。


『芹様、それが楽しいって事ですよ』


 と。


 しばらく私達は無言で歩いていたのだが、山の麓の参道の所で2つの影が電灯の下でチラチラと動いているのが見えた。


「芹様、あれって……」

「ああ。狐たちだな。この寒空の下珍しい」


 寒くなってからというもの、あの二人は夜はもう外になど出ない。立派な毛皮を着ていても寒いものは寒いと言って。


 ところが今日はどうしたのだろう? 


「せんぱ~い!」


 何気なく私がその影に向かって声をかけると、それまでうろちょろしていた影がピタリと止まり、次の瞬間には一目散にこちらに向かって物凄い勢いで駆けてきて――。


「芹様! ちょっと目を離した隙にどこへ行ってらしたんですか!」

「芹様! 何ですか、あの置き手紙は!」


 血相を変えて駆け寄ってきた二人の顔を見て私は思わず芹を見上げる。


「芹様、まさか何も言わずについてきたんですか?」

「ああ。私は子どもではない。別に誰に言わなくとも――」

「駄目じゃないですか! 子どもでも大人でも普段家から出ない人が突然消えたら何があったんだって心配します! しかも置き手紙まで書いてスマホ持ってきちゃってるし!」


 私の言葉に狐たちは激しく頷いた。きっと芹が居ない事に気づいて真っ先にスマホで私に連絡しようとしてくれたのだろう。


 けれど芹は私の言葉に不思議そうに首を傾げた。


「スマホは携帯するものだろう?」

「いや、それはそうなんですけど……先輩達にもスマホを買ってもらえませんか? 多分、それで万事解決です」

「そうか。分かった。テンコ、任せる」

「はい! で、どちらに行ってたんです?」


 テンコは元気に返事をして私と芹を見上げてくるので、私は今日あった事を話した。それを聞いて狐たちはギョッとしたような顔をして私と芹を交互に見つめる。


「に、人間に正体をバラしただと!?」

「な、なんという型破りな事をするのですか、巫女は!」

「ご、ごめんなさい」


 流石の私もヤバいかなと思っていたので素直に謝ったのだが、肝心の芹は知らん顔だ。


「別に構わない。二条はそれを知ってどうこうするような男ではない。それよりも寒い」

「……帰りましょう。芹様の言う通り二条先生は大丈夫だと思います。ついでにせっかくなのでお二人にお土産買ってきましたよ。学校の近くの行列が出来るたい焼き屋さんのたい焼きです。今日の映画はこれ食べながら見ましょう」


 確かに芹の手はどんどん冷えてきている。このままではいつ芹が冬眠してしまうか分からない。


 お土産と聞いて狐たちは私の荷物を持ってまた駆け出した。その後ろを私と芹は手を繋いでのんびりと歩く。


 今日は週末だ。帰ったら夕飯の準備をしてお風呂に入ってコタツで皆でおやつを食べながら映画を見る。これが幸せと言わずに何と言うのだろう。


 私はすっかり冷え切ってしまっている芹の手を強く握って言った。


「芹様、私、今すごく幸せですよ」


 それを聞いて芹はこちらに少しだけ視線を落として言う。


「……そうか」

「はい」


 夜風はこんなにも冷たいのに、私の心の中は何だかジンと熱くなっていた。

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