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ほどよい距離感

毎週決まった曜日の仕事帰り、わたしは必ず決まったバーに飲みに行く。

そこで疲れを癒すのと、「あること」をするために通っているのだ。


今週もわたしはそのバーに行き、もはや指定席のようになったカウンターの片隅でひとりお酒を飲む。


隣に客が座る気配。

わたしの隣に座った「彼」は、飲み物を注文する。

ほどなくして飲み物が届くと、わたしは一瞬そちらの方を向いてから黙ってグラスを掲げる。

すると「彼」も黙ってグラスを掲げる。

お互いの「乾杯」の合図だ。


これがわたしが毎週この店に通っている、大きな理由だ。


いつの頃からか、わたしが飲んでいるカウンターの隣の席には同じ男性が座り、互いに静かにグラスを傾けるようになった。


大きな声で騒ぎ立てるわけでもない。

お互いの悩みを語り合うこともない。

愚痴を言い合い慰めあうこともない。

深酒をして酔いつぶれることもない。


ただ黙ってお互いに酒をのみ、時々ぽつりぽつりと他愛のない会話を交わす。

そしてしばらく過ごすと、どちらが先ともなく席を立って別れる。

そんなことをずっと繰り返している。


わたしは「彼」のことを何も知らない。

名前も、年齢も、どんな仕事をしているのかも。

そして、結婚しているのかも…


もちろん、「彼」もわたしのことを知らない。

でも、それでいいと思っている。

むしろ「それがいい」とさえ感じるほどだ。

わたしがこのお店にお酒を飲みに来るのは、騒ぎたいわけでもなく、誰かと長い時間おしゃべりをしたいわけでもない。

ただ静かにお酒を飲んで、ほんの少しの会話を楽しむ。

そんな「彼」との時間を、それなりに楽しんで過ごしている。




「それっておかしくない?」

周りの人にこのことを話すと、決まってそんな反応を見せる。

でも、わたしにはそれで十分なのだ。

付かず離れず、お互い必要以上に踏み込まない。

そんな「ほどよい距離感」が心地よいのだ。




もしかしたら、いつかわたしに大事な人ができて、こういった時間を過ごさなくなる日が来るのかもしれない。

もちろん「彼」も、いつかはそうなるのかもしれない。

それがいつになるかは、お互い知らない。

でも、どちらかが先にそうなったとしても、お互いあっさりと別れることになるのかもしれない。

そう言った関係だからこそ、今も続いているのだろうから…


ただ、「その時」が来るまでは、この時間を楽しませてもらおうと思う。

そんなことを考えながら、わたしは今週もいつものバーに向かい、グラスを傾ける。

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