『星野号』ブリッジでは、ノア・アークがもう何度目ともしれない溜め息を漏らしていた。
「遅すぎます。やはりぼくらも『CFA』本部に行ったほうが……!」
「『星野号』を守れというのが艦長の命令です。ここで無闇に動くべきではありません」
カミラ・ベイリーはノアにそう返す。
言葉に反して彼女の口調はどこか浮き足立っている。長い前髪の下の目はしきりに時計と睨めっこしていた。
「その艦長からの連絡もまだか……。予定通りならそろそろのはずなんだが」
腕組みしながら苦虫を噛みつぶしたような顔でスミスが言う。
手はずでは、任務を完了し『CFA』の領空へと帰還した時点で航から連絡が来ることになっていた。それがないのはすなわち、そういうことだ。
雲行きは怪しい。
彼らが言い知れぬ不安を抱くなか、ただ一人呑気に艦長席で寝そべっていたかなめは、不意に起き上がって言った。
「ベラちゃんがいなくなったわ」
その言葉にクルーたちは瞠目した。
皆がにわかに時を止めるなか、ややあって最初に口を開いたのはカミラだった。
「どういうことですか、かなめ君?」
「言っての通りや。ベラちゃんがこの『ディアナ』から離れたってこと」
「離れた……!? 何を根拠に?」
「根拠はあらへん。ただ、ベラちゃんの気配がしいひん……ボクの脳みそがそう言うてる」
超自然的な勘に頼るなどカミラのポリシーに反している。しかし、かなめの目に嘘はないように見えた。
『CFA』本部に赴いたはずのベラが、『ディアナ』からいなくなった。その意味を悟り、カミラは長い前髪にぐしゃっと指を食い込ませる。
「ベラさんはアレクサンドラ家の令嬢です。正規軍に対する人質として使われても、おかしくはありません……」
「そんな……!」
ショックに声を上げるのはノアである。
「急いで助けに行きましょう! いま追いかければ間に合うかもしれません!」
「だが、『ディアナ』は『CFA』の管理下だ! カミラ君の言うことが事実だとすれば、俺たちに出港許可が出るわけがない……!」
焦燥に駆られるノアの直訴にスミスが答える。
彼としてもこんなことは言いたくはなかった。だが、艦で最年長の自分が分別を失っては、ここにいる少年少女たちをも危険に曝すことになる。航に代わって艦を預かる者として、それだけはできなかった。
「『星野号』は出せん。艦長代理としての命令だ」
「何でよ、スミス! ベラさんがどうなってもいいの!?」
「彼女は人質だ。『CFA』がその価値を分かっているのなら、傷つけはしないはずだ」
「それは大人の理屈だよ! あなたが止めても、ぼくは――!」
必死で主張するノアを前に、スミスは唇をきつく引き結んだ。
食い下がる少年に男はそれ以上、何も言えなかった。
命令を無視して操舵席へと向かうノアの肩を叩いたのは、カミラである。
「待ってください。ここはスミスさんに従うべきです。いま『星野号』が『CFA』と完全に敵対すれば、今後の活動もままならなくなる。『ディアナ』を出るまでは穏便に済ませるべきです」
カミラは冷静に『星野号』の未来を案じていた。
対立すべきは今ではない。星野航が帰還するその時までは、苦渋を飲んで待つべきだと。
「でも、でもっ、ベラさんが……! かなめさんも何とか言ってくださいよ!」
理屈では分かっていても感情では納得できないノアは、かなめに訴えた。
ここまで黙って呆然としているように見えたかなめだったが、ふと天を仰ぎ、その丸っこい目を大きく開いて呟く。
「……ベラちゃんの気配が消えた」
なぜそれが分かるのか、そんな疑問はもはや些事であった。
ベラの反応の消失。それは彼女の身が危機的状況にあることを示していた。
「……スミスはん、ごめん。ボク、もうじっとしてなんていられへん」
かなめは拳を固く握り締め、声をわななかせた。
カミラの座るオペレーター席に駆け寄った彼は、少女の制止を無視して宇宙港管制室への回線を開く。
「こちら『星野号』! 出航するからハッチ開けてや!」
『何を言っている! 貴艦の出港許可など出ていないぞ!』
「星野艦長は出したやんけ! そんなのダブスタやないん!?」
そう追及されて口ごもる管制官。
彼らが航だけ出撃を許可したのは、航と『星野号』とを分断するためであった。
『し、しかしだな……』
『アンタたち! いま撃墜された輸送機、どこの所属!?』
と、そこで遠くから聞こえてきたのはエルルカ・シーカーの声であった。
撃墜――その一単語に『星野号』クルーたちは絶句する。
『シーカーさん、あれは……』
『領空外への出撃許可はまだ出ていないわ! 誰の命令で行かせたの!』
『く、九条管理官の指示で……』
『九条管理官が? 何の目的で!?』
『そ、そこまでは聞いておりません!』
詰め寄るエルルカに管理官はたまらず白状する。
九条管理官。『CFA』軍の人事を管理・編成する重要ポストを務める男だ。
そいつがベラを人質として拉致したせいで、彼女はいなくなったのだ。
「エルルカはん! その九条ってやつがベラちゃんをシャトルに乗せて連れて行ったんや! ボクはもう黙って見てられへん! シャトルを墜としたやつを潰しに行く!」
九条も、正規軍のやつらも許せない。
そんな怒れるかなめの叫びに、通信の向こうでエルルカが息を呑む気配がした。
数秒の沈黙。
公私の狭間で逡巡したエルルカは、毅然とした口調で言い渡す。
『……いいわ。「星野号」の発進を許可します。非戦闘用の輸送機を撃墜した正規軍の暴虐を、野放しにしておくわけにはいきません。『フリーダム』からも【ノヴァ】部隊を出して援護します』
「ありがとう、エルルカはん」
噛み締めるようにかなめは言った。
既に準備は整っていた。発進許可を得た彼らはただちに出撃シークエンスに移行し、各々が持ち場につく。
スミスが操舵、カミラがオペレーターを務め、ノアがメカニックとして待機する中、かなめは格納庫へと走り、愛機へと乗り込んだ。
「いくで、【キャンサー】」
もはやパイロットスーツを着る手間も惜しみ、私服姿でシートへと収まる。
今すぐにでも飛び出していきたい衝動を懸命に堪えつつ、少年は出撃の時を待った。
『発進シークエンス完了。『星野号』、出撃どうぞ!』
『了解した。『星野号』出るぞ!!』
管制官のアナウンスに従ってスミス艦長代理が艦を発進させていく。
宇宙港のドックが解放され、『星野号』が静かに宇宙へと滑り出す。
誰もが言葉を呑み込む中、格納庫内で操縦桿をひときわ強く握り締めるかなめは、その瞳に燃えるような決意を宿していた。
ベラの義体から発される電波を、機械の脳で感知できなくなっただけ。彼女はまだ、死んだとは限らない。彼女はきっと生きている。だから――。
「ベラちゃん……ボクが絶対、取り戻したる」