写真等、必要なものをニンベン屋に預けた後は特に用事もないとすぐに帰宅した源二は夕食を作るためにフードプリンタを眺めていた。
出力されているのはラーメン——の麺と具。
へえ、フードプリンタでラーメンも食べられるのか、と感心しながら見ているうちに出力が終わり、一見、油そばのようなものが出てくる。
しかし、汁がないなと源二が丼を手に考えていると、ヨシロウがそれをひょいと取り上げ、ウォーターサーバーに向かった。
油そば状態のラーメンの丼に湯を注ぐと、調整剤によって水に溶けやすくなっていた
「おー……」
「ほらよ」
ラーメンの丼を源二に返し、ヨシロウは自分の前に置かれたペペロンチーノを眺めた。
「……ゲンジ、ペペロンチーノも再現できるか?」
「……たぶん」
そんなやり取りをしたのち、二人は同時にそれぞれの料理を口に運ぶ。
ペペロンチーノもラーメンも源二はまだ味の再現ができないため、味覚投影で味を楽しむ。
全ての食材が混ざり合った均一な味でも、味覚投影なしで食べるよりははるかに味がある。
いつかはこれらにも味を付けることができるといいな、と思いつつ、源二は完璧に再現されたラーメンの食感に驚いていた。
ヨシロウからざっくりと説明は受けたが、フードプリンタは味付けは調味用添加物頼りになるため難しいが、食感に関してはほんの数種類の調整剤だけでかなりの食感が再現できるという。肉のやや筋張った歯ごたえや麺類のもちもちとした食感が再現できるというだけでもこの時代のフードプリンタはすごい、と純粋に思ってしまう。
そこに、源二の調味用添加物の調合が混ざればどうなるか、と考えればフードプリンタには無限の可能性が秘められている、と源二もヨシロウも思うところであった。
かつての時代の食事が再現できる。材料は大豆や植物油を加工した合成フードトナーかもしれないが、それでも脳を欺瞞してしか味わえなかったものが自分の舌で味わえるとなると人類の食生活は大きく変わる。生命維持のためだけに行われていた食事が同時に娯楽にもなり得るのだ。
源二にはその意味の重大さは理解できていなかったが、自分の知識がヨシロウやニンベン屋を変えたのはなんとなく分かった。二人とも、自分の料理に期待してくれている、そう思う。
これは適当なことできないな、と思いつつ、源二はスープを啜った。
味覚投影だからスープ単体の味は分からない。麺やチャーシューを食べたときと同様、それらがすべて混ざり合った味を脳が認識している。
それでもこの味覚データは大したもので、全てが混ざり合っていることを除けば人気店の味をしっかり残しているのだ、とほっとする。
スープまで全て飲み干し、源二は丼を持ってシンクに向かった。
食器を軽くすすいで食洗器に入れ、それからヨシロウを見る。
「ヨシロウ、」
「なんだ?」
改まった様子の源二に、ヨシロウがペペロンチーノの最後の一口を飲み込んで首をかしげる。
「この後も色々試してみようと思うんだが、どうする?」
「どうするって——」
こういう時の源二の言葉は「部屋に戻ってくれ」だろう? とヨシロウが立ち上がる。
「まあ、今日のところは特にすることもねえし寝るかな」
ヨシロウがそう答えると、源二は「そうか」と呟き、
「もし、俺が味の再現実験に付き合えって言ったら付き合うか?」
と、ヨシロウが全く予想していなかった言葉を口にした。
「え!?」
まさかそんなことを言われると思っていなかったヨシロウが思わず声を上げる。
「え、ちょ、企業秘密だろ?」
「まあ、見ても分からんだろうし、それに俺がどうやって調合しているのか興味ないか?」
「興味ある」
即答だった。
ヨシロウとしても源二が一体何をしてあのオニギリの具の数々を作り上げたかは気になるところである。調味用添加物を調合しただけと言われても何か秘密の粉でも入れたのではないかと思うところでもあった。
そんな源二が「興味ないか?」と訊いてきたなら「興味ある」と答えるのは道理である。
源二の言う通り、見ていて分かるものではないだろうが、それでも源二が何をしているのかを見てみたい、とヨシロウは思っていた。
いいよ、と源二が笑う。
「今回は特別だ。俺がどうやって調合しているか見せてやるよ」
そう言い、源二はテーブルの上を片付け始めた。
「——さて、と」
テーブルの上にあったものを片付け、ウェットタオルで丁寧に拭いた源二が何枚かの小皿を取り出し、その上にラップフィルムを置く。
「なんでラップ置くんだ?」
源二の向かいに座ったヨシロウが興味津々で尋ねる。
「ああ、本当はクッキングシートを使った方がいいんだがこの家にそんなものはないからな。とりあえず調味用添加物を小分けしやすいようにしてるんだ」
そう言いながら、源二がボトルの一つを手に取り、ヨシロウに見せる。二人の視界に「イノシン酸 C10H13N4O8P」のラベルがポップアップされる。
「調味用添加物の何がすごいって、三大うまみ成分の『グルタミン酸』『イノシン酸』『グアニル酸』が揃ってるってことなんだよな。他にも広く知られている味覚成分はほぼ揃ってるんじゃないかな」
「……さっぱり分からん」
そこまで料理に興味を持っていなかったヨシロウにはちんぷんかんぷんの話だった。
普段はエナジーバーやゼリー飲料メインで、気分を変えたい時にフードプリンタを使っていた程度のヨシロウには「甘い」や「酸っぱい」といった程度の違いしか分からなかった。
それが、源二のオニギリを食べて「甘い」にも色々あるのだ、と初めて知った。
例えば
そのため、「三大うまみ成分」と言われてもピンとこなかった。どれも「酸」がついているのだから酸っぱいんじゃないのか? などと思いながら源二がボトルからイノシン酸を少しだけ皿に取り分けるのを眺める。
源二は他にもいくつかのボトルを手に取り、ヨシロウに見せる。
「アミノ酸」や「塩化ナトリウム」と書かれたボトルなど、源二は次々とボトルを手に取り、それぞれ皿に少量ずつ取り分けていく。
「うーん……この感じだとこれくらいかな……」
源二の視界には初めに作った表が映し出されているのだろう、時々データを書き換えるような動きを見せながら源二は調味用添加物を混ぜ合わせ、舐めては水を飲んでリセットしている。
そんな作業が続くこと一時間。
よし、と源二が頷いてスプーンの先にほんの少しだけ調合した添加物を乗せ、ヨシロウに渡した。
「舐めてみろ」
「え?」
舐める? このスプーンを? とヨシロウがスプーンと源二を交互に見る。
「ああ、まずは何事も経験だ。これを舐めてから、この後作る料理と比べてみろ」
そう言われては断れない。
スプーンを受け取り、ヨシロウは恐る恐るスプーンを口に運んだ。
スプーンに乗せられた少量の粉末を舐めてみる。
「——!?」
スプーンを舐めた瞬間、ヨシロウは目を見開いた。
「味がする!?」
「そりゃそうだよ、調味用添加物なんだから」
ヨシロウのリアクションに源二が苦笑する。
「いや、待て待て待て待て。何というか……なんか苦い? いや、しょっぱい……? いや、なんだこれ」
ヨシロウが不思議そうな顔で舌に広がった味を言葉にしようとする。だが、食べたことのあるような味ではあるが、言語化できない。
今まで味覚投影で食べた料理は「甘い」とか「塩味がする」で説明ができた。それなのに、今舌が感じているこの味は様々な味が混ざり合い、「この味」と断言することができない。
「驚くのはまだ早いぞ」
ヨシロウからスプーンを受け取り、源二が調合した添加物の入った皿を手にフードプリンタに向かう。
BMS経由でレシピを呼び出し、スタートボタンを押す前に「添加物投入口」と書かれた引き出しを開け、添加物を投入する。
「少し待ってな。うまいもの食わせてやるから」
自信たっぷりに、源二はそう言ってニヤリと笑った。
数分後、アラームが鳴り、出力が終了する。
源二がカバーを開けて出力されたものを取り出し、ヨシロウの前に置いた。
「……魚?」
不思議そうな顔をしてヨシロウが呟く。
目の前に置かれたのは
実際に泳ぐ魚を見たことはないが、水族館に行けば再現されたロボット魚が泳いでいるのでどのようなものかは何となく知っている。それだけにその魚の形そのままの料理を出されると少し身構えてしまう。
「まあ、形を模しただけだよ。頭も骨も食べられる」
源二ももう一皿出力し、自分の前に置く。
「本当はライスもあるとうまいんだが、とりあえず味見だからな。ヨシロウ、食べてみろ」
「あ……ああ」
少々引きながらもヨシロウは箸を手に取り、魚をほぐし、口に運ぶ。
「見た目がヤバいから食べたことなかったんだよな……」
そんなことを呟きつつ、魚を口に入れたヨシロウは次の瞬間、源二を見た。
「なんだこれ!?」
「アジの開き」
いや、レシピでは焼き魚だったんだけど、と言いつつ源二も魚を口に運ぶ。
口いっぱいに広がる香ばしい香り。塩味を含んだうまみが香りに包まれ舌の上でほぐれていく。
「……やば」
ヨシロウはというと、初めて食べる焼き魚の味が気に入ったのか次々と口に運んでいた。
「これ、あの添加物で味付けしたんだよな? 添加物だけの時と味が全然違うんだが!?」
「そりゃそうだよ、元々のフードトナーと調整剤の味を考慮してるんだから。フードトナーも味が全くないわけじゃない、タンパク質としての味はあるわけだし、そこに添加物を混ぜればこの通りってわけだ」
源二がそう説明するが、ヨシロウには全く理解の及ばない未知の世界だった。
フードトナーと、調味用添加物。
この二つが合わさってこんな味が出るとは誰が思っただろうか。
「……やべえ……すげえよ、ゲンジ」
あっという間に焼き魚を完食し、ヨシロウは感動したように手を合わせた。
「うまかった!」
「喜んでもらえて嬉しいよ」
ヨシロウのリアクションだけで分かる。焼き魚も料理として問題ない。
これで料理屋を開くためのメニューが一つできたな、と思い、源二は満足そうに頷いた。