数日後、源二とヨシロウは地下鉄を乗り継いでヤエスエリアにあるとあるオフィスビルの前に立っていた。
「ここの五階だ」
そう言いながら、ヨシロウがエントランスに入り、フロントの端末で目的の企業を呼び出す。
「はー……すごいな」
源二がエントランスをぐるりと見回りながら呟く。
ホロディスプレイによる入居企業のプロモーション映像や水槽のヒーリング映像は見ていて飽きない。
「いやー、何回見てもホログラム映像ってすごいな。BMSなしでも空中に立体投影とかまだ信じられん」
「この田舎者が。いや、ウラシマタロウと言った方がいいのかこの場合……」
源二が映像を見て感心している間にヨシロウがぶつぶつ呟きながら受付を終わらせ、「こっちだ」と歩き出す。
エレベーターに乗り、五階に上がるとホログラム映像で目的地への矢印が表示され、二人を誘導する。
矢印に沿って歩き、二人はとあるオフィスの前に立った。
「さて……と」
ヨシロウが扉を開ける。
二人が中に入ると
案内された応接室のソファに座り、待つこと数分。
一人の男が応接室に入ってきた。
「まさか、君が直接乗り込んでくるとは思わなかったよ」
入ってくるなりヨシロウにそう言う男。
「まあ、貴方と交渉するなら通話じゃなくて直接、ですよね? 社長」
臆することなく、ヨシロウは男——今回のフードプリンタ展示会イベント主催会社の社長、ワタベ・サトルに言い放った。
「それはそうだ。通話だと盗聴の可能性もあるし、第一相手の生の表情が見られないからな」
交渉ならまず相手の感情を把握するべきだ、と続けつつ、サトルはヨシロウの隣に座る源二を見る。
「で、彼は?」
「今回の交渉の主役ですよ。単刀直入に言います。彼を出展者としてイベントに参加させたい」
単刀直入に、ヨシロウは話を切り出した。
「再来月開催のフードプリンタの展示会があるでしょう? あれに参加したいんですよ」
「ほう」
ヨシロウの説明に、サトルが面白そうに声を上げる。
「一体フードプリンタとどういう関係がある人間なんだ?」
興味深そうに視線を投げるサトルに、源二は落ち着き払った様子でBMSを操作した。空中に指を走らせ、名刺アプリを起動、すぐにサトルに向かって弾くモーションを行う。
「……む、」
すい、と視界に飛んできた名刺をサトルがタップすると、そこには「食事処 げん」と筆文字で描かれたロゴと「ヤマノベ・ゲンジ」という名前が浮かび上がる。
「——おま!?」
思わず横で声を上げるヨシロウ。
「いつの間に名刺を!?」
「え、ビジネスの場で名刺交換は礼儀作法だろ?」
しれっと答える源二。
いや違うそうじゃない、とヨシロウは口にしかけるものの、その言葉を飲み込んで納得する。
源二としてはヨシロウが「イベントに参加する」と言った時点で準備をしていたのかもしれない。いや、本格的に店を開くと決意した時点で全ての覚悟を決めたのかもしれない。
源二の言う通りビジネスの場での名刺交換は当たり前のことだ。これができなければ新たな取引など始められない。源二もまた、元の時代ではサラリーマンとして生きていたからこそ身に着いていたビジネスマナーであり、それをさっさとこの時代の様式に合わせてしまっただけなのだ。
「……マジでこいつ適応能力高えな……」
サトルに聞かれないように呟いたヨシロウだったが、源二がここまで準備しているのならお膳立てはここまでにした方がいいと判断し、口を閉ざすことにする。
源二はというとサトルが名刺を確認し、同じように名刺を送ってきたため肩書き等を確認、それでは、と話を始める。
「こちらのイナバさんがすでにお話しされましたが、私としてはこの展示会に参加したいと存じます」
「見たところ、ただの食堂のようですが?」
サトルも名刺を見て思ったことをストレートに尋ねる。口調がヨシロウに対する時と変わっているのはこの話をまず「ビジネス」として受け止めるためか。
ええ、と源二は臆することなく頷いた。
「それどころか、まだ店の場所も決まっていないオープン前の食堂です。そのプロモーションのために、是非とも参加してみたい、と思いまして」
「面白いことを言いますね。フードプリンタのメーカーなど決まっているのですか?」
「それもこれから決めようかと。ワタベ様のお勧めのメーカーをお伺いするのもいいかもしれませんね」
私はメーカーに関しては疎いものでして、と続ける源二に、サトルの眉が寄る。
長年多くの人間を見てきた社長の立場としてはっきり分かる。
源二は飲食店経営者としては素人だ、と。
「普通、飲食店を経営するならメーカーにこだわるものだと思いますが?」
怪訝そうにサトルが尋ねる。
サトルも今まで多くの飲食店を渡り歩き、店主のこだわりを見てきたからこそ分かる。源二にそのこだわりがないことが。
しかし同時にえもいえぬ不安に襲われる。
源二は何かを隠している、と。
そのサトルに気づいたか、源二はふふっと笑みをこぼす。
「そうでしょうね、私も何軒か行きましたがメーカーやラインナップにそれぞれこだわりがあるようで。しかし私のこだわりはそこにはありませんので」
「しかし、フードプリンタは出力性能にこそ差はあれ食べてしまえば全て同じ。そこにこだわりがなくて差別化などあるわけがない。そんなありきたりの料理でどうやって——」
客を固定化する、とサトルが言いかけたところで、その目の前に何かが差し出された。
「食べてください。ここに、私が展示会に参加したいという理由の全てが詰まっています」
その圧に押され、サトルが思わず差し出された紙包みを受け取る。
なんだ、と思いつつも開くと、それはサンドイッチ——のようなものだった。
「ようなもの」とサトルが感じたのは、それは確かに食パンに挟まれた具という構造をしていたのだが、その具が見たこともないものだったからだ。
いや、これも語弊がある。その具は
「……トンカツ……?」
え、なにこれ、と言った面持ちでサンドイッチのようなものを見るサトルに、源二がどうぞどうぞと声をかける。
「食べてみればわかりますよ。ああ、味覚投影はオフにして」
「何?」
源二の言葉が全く理解できない。
——味覚投影オフ? こいつは何を言っているんだ?
そうは思うものの、フードプリンタにこだわりを見せない源二が差し出したこの見たこともないサンドイッチは源二の料理など取るに足らないものと思っていたサトルの興味を引いた。トンカツがパンに挟まっている、そんな「レシピのデータベースにない」ものを作るとは面白いことをする、と考えてしまう。
それなら味覚投影オフももしかしたら何か驚く仕掛けがあるのかもしれない、そう思い、味覚投影をオフにしてサトルはサンドイッチを口に運んだ。
頬張る直前、ふわり、と鼻腔を香ばしい匂いがくすぐったような気がする。
気のせいだろう、と思いつつもサトルはサンドイッチを頬張った。
「——!?」
一口食べた瞬間、サトルはガツンと殴られたような衝撃を覚えた。
拳で殴られた衝撃ではない。味が、サトルを殴りつける。
ひと噛みするごとにトンカツ肉のしっかりした歯応えと、そこから滲み出る脂の甘み、そして衣に染み込んだスパイシーな香りと塩味や酸味がガツンガツンとサトシの脳を殴りつける。そこにパンの甘みが重なり、絶妙なハーモニーを奏でていく。
あまりの衝撃に声が出ない。味覚投影していないのに味がある。それどころか味の一つ一つが拳を握り、殴りつけてくる。
驚くのはそれだけではなかった。
トンカツといえば食べ応えのある料理として人気だが、プリントフードであっても油分を多く含むので素手で食べるのには向いていない。サンドイッチであれば手軽につまめる料理だが場合によっては物足りない。その二つの料理のいいところが組み合わさり、「トンカツを手軽に食べられる」ものとして完成してしまっている。
「……なんだこれは」
瞬く間に完食し、サトルは呆然と声を上げた。
そこへ源二がテーブルに置かれた水を差し出し、にこりと笑う。
「これでも、私にはこだわりがないと?」
その言葉は明らかに挑発の色を含んでいた。
これを食べて私の参加を断ることができますか? という源二の挑発に、サトルは自分の敗北を察した。
ヨシロウからアポイントメントを取られた時にはたかが食堂、プリントフードなんて誰が作っても同じだ、と思っていた。
だが、源二が差し出したサンドイッチを食べて、サトルはその考えを改めざるを得なかった。
源二の料理をイベントで提供したい、そう心から思ってしまう。
こんなとんでもないものを出されれば来場者も驚くだろうし、これを目当てに来場者が増える可能性もある。フードプリンタを極めればこんなものも作れるとアピールできればプリンタ自体の売れ行きも期待できる。
「……いいでしょう、『食事処 げん』には特別にスペースを用意しましょう」
「やった!」
サトルの返答に、源二ではなくヨシロウがガッツポーズをする。
源二は満足そうに笑っている。
「しかし、一つだけ訊きたいことが」
サンドイッチの入っていた紙包みを丁寧に畳み、ゴミ箱に入れたサトルが源二を見る。
「貴方は私に何を食べさせたのですか」
「何って——カツサンドですよ」
『カツサンド!』
サトルとヨシロウの声が重なる。
「それは——」「なんだそれ!?」
同時に声を上げたサトルとヨシロウが思わず顔を見合わせ、それからヨシロウがどうぞどうぞとサトルに譲る。
「カツサンド、とは考えましたね。なるほど、サンドイッチの具にトンカツを使えば手軽に食べられるボリュームたっぷりの料理になる、と」
驚くサトルに、源二は思わずヨシロウを見た。
「え、この時代にカツサンドないの?」
「初めて聞いた料理だぞ」
マジで、俺の時代では人気サンドだぞ、知るかんなもん、とコソコソやりとりする二人をサトルが訝しげに眺める。
その視線に我に返った二人が姿勢を正した。
「これは面白い。プリントフードを組み合わせた新メニュー、さらに味覚投影せずともおいしいものが食べられる、これは貴方の店としてのこだわりを感じます」
サトルの言葉に、源二は確信した。
これは勝てる。この世界のあらゆる料理店に。
勝ち負けはあまり気にしたくないが、競合が激しい料理界隈で生き残ることができると確信すれば後は前に進むしかない。
この世界に、本物の味覚という爪痕を残してやる、という思いが沸き起こり、源二はサトルが転送してきたイベント参加申し込み書に目を通した。