その日、その通りに足を踏み入れた男は長蛇の列に仰天することとなった。
朝も早いうちからずらりと伸びた行列。
通りがかりの男は何事かと首を傾げるが、ヒソヒソと聞こえてくる声になるほど、と納得する。
「やっとオープンだよ、待ち侘びたぜ」
「どんなメニューがあるんだろうね」
そんな若い男女の会話に、どうやら新しい料理屋がオープンするらしいと理解した男だが、それでも理解できない点は多い。
まず、料理屋がオープンする程度で話題になることはほとんどないし、行列ができるなんてさらに考えられない。
料理屋とは基本的に「家のフードプリンタを動かしたくない、動かせない」時か気心知れた常連とコミュニケーションを取りたい時に利用する施設である。行列を作るなんて時間の無駄だし、新規オープンなら常連も決まっていないからコミュニケーションを取ることもない。
だからこそ男はこの行列の意味が分からなかったし、並ぶ必要性も感じなかった。
「でも、味覚投影しなくても美味しいご飯が食べられるってすごいよね」
そんな声が耳に入り、男は思わず足を止める。
「な。試食した時、マジでびっくりしたもんな」
——味覚投影しなくても美味しい。
その言葉に、男は思わず足を止めた。
バカな、そんなことがあるはずがない。フードプリンタ——いや、全ての食物は味覚投影しなければ食べられたものではないはずだ。
ダメだこいつら騙されている、そんなことを思うが、同時に「味覚投影しなくてもいい」という話に興味を持ってしまう。
そんなわけあるか、そう思いつつも、気づけば男は行列の最後尾に並んでいた。
「好奇心は猫をも殺す」、そんな諺が脳裏を過ぎるものの気になったものは仕方がない。
とりあえず殺されてみるか、と男が並んでいるうちに店がオープンしたのか、行列は少しずつ動き出した。
◆◇◆ ◆◇◆
「ゲンジ! 皿足りるか!?」
食洗機から浮かび上がる「残り三分」の表示に、ヨシロウが声を張り上げる。
「ギリギリ足りる! あ、二号できてるから三番席に! それはソースいらん!」
カウンターの中は戦場だった。
最初は「オープンしてもそこまで忙しくはならないだろう」と予想していた源二だったが、いざオープンのために出勤した時点で長蛇の列が出来上がっていたのを見た瞬間、自分の予想の甘さを思い知った。
一応は初日だからとヨシロウや白鴉組の若い衆が手伝いを買ってくれていたが、これは断らなくて正解だった。
オープンと同時に満席となる店内。飛び交う注文にフードプリンタは常時フル稼働、皿洗いサポートのヨシロウと配膳サポートの若い衆でギリギリ店内が回っている状態である。
幸いなことに、この盛況ぶりに訪れた客たちも長居はせず、早く他の客にもとばかりに完食したらすぐに退店してくれる。目新しい体験にいつもより時間をかけて食事をする客は多いが、それでも弁えるところは弁える、といった感じである。
「はい、オムライスです!」
若い衆が慣れない手つきでカウンター越しに皿を置き、そそくさと次のフードプリンタから料理を取り出す。
「うわー、マジで味がする! ケチャップの有無で味が変わるのほんと面白いな!」
「このカツサンド、すごく腹に溜まるな! 三品頼んだけど食い切れるかな……」
そんな声があちらこちらから聞こえてくる。
その声に、源二はこの店の成功を確信した。
多くの人が喜んでくれる、それだけでこの一日を迎えられて良かったと思う。
「しかし、マジでこんな毎日が続くのか……?」
食洗機と食器棚を往復しながらヨシロウがぼやく。
「俺たちも普段の仕事があるから、流石にバイトを雇った方が——」
「まぁ、この忙しさは最初のうちだけだよ」
フードプリンタにトナーを補充しながら源二が笑う。
「大体こういうものは目新しさで最初のうちだけ賑わうんだよ。一ヶ月もすれば落ち着くんじゃないかな」
「そういうもんか?」
一ヶ月なら耐えられないことはない。が、本当に源二の言うように一ヶ月で落ち着くのか、と半信半疑のヨシロウ。
そんなヨシロウに、源二は多分、と前置きする。
「あくまでも多分だぞ。俺がいた時代も珍しい店ができれば最初の一ヶ月は戦場なんだがそれくらいで興味を持った奴はほぼ満足するからな。むしろそこからが本番だ」
そこで客足が途絶えて半年もせずに閉店とかよくある話だからな、と続けた源二はそれでも、と言葉をさらに続けた。
「それでも、この店は半年で閉店とかにはさせないよ。それだけの仕込みはしているつもりだし、それに——」
源二がちら、と店の片隅に視線を投げる。
店の隅には「感想ボード」と記されたホロディスプレイが浮かび上がっていた。
そこには「食事処 げん」を利用した客が投稿した感想が表示されている。
だが、その感想ボードは目で追うのがやっとなほどに高速でスクロールしていた。
「感想がどんどん入ってくる。まだレビューサイトに登録してないから感想とかあったら書いてくれるといいな、って思って感想ボードを設置したんだが、すごい反響だよ」
ヨシロウも感想ボードに目を投げると、「美味しかった!」や「味覚投影オフで食べられるなんてすごい!」といった感想が次々と流れていくのが見える。
中には「味覚投影をオフにしてまで食事をする必要性を感じられない」といったネガティブな意見も流れてきたりはするが、ほとんどの感想はポジティブなもので、「また来たいです」という言葉で締めくくられていた。
「おいおいゲンジ、これ見てみろよ。『味覚投影をオフにする必要性はないはずなのに、なんか気に入ったからまた来る』とか書いてあるぞ。素直じゃねえなあ」
ヨシロウに言われ、源二もははは、と笑みをこぼす。
「そういう意見は大切だよ。全員が全員味覚投影オフにハマる必要はない。それでもなんかまた来たいなと思ってもらえたならそれはそれで俺の勝ちだな」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ」
カウンターの中を動き回りながらも二人は言葉を交わす。
そうこうしているうちに、一人の男が入店し、席に着いた。
「いらっしゃい! 何にしますか?」
源二がお冷の入ったコップを前に置くと、男は困惑したように店の中を見回した。
「なんか、すごい行列で、しかも味覚投影オフで食べられるとか聞こえてきて、気がついたら並んでたんですが……ここでは何が食べられるんですか?」
メニューを開きながら、男が尋ねると源二はそれはそれは、と声を上げる。
「行列を見かけて並んでくださったのですか! それはお疲れ様です。ちなみに今のところメニューにある料理だけですが、うちは味覚投影せずに味わえるというのウリでしてね。もし迷うならオコノミヤキかカツサンドをお勧めしますよ」
「それなら、カツサンドで」
店主が自信を持ってお勧めしてくる、ということも目新しく、男はそのおすすめに従ってオーダーした。
源二が「ありがとうございます!」と元気に応え、フードプリンタを起動する。
「へえ、プリントフードなのに味覚投影が不要なんですか」
味覚投影せずに味わえる、ということから何か特殊な調理を行うのかと思っていた男はフードプリンタが起動したことで興味のベクトルが変化した。
プリントフードならどれも同じはず、それなのに味覚投影が不要とはどういうことか。
水を飲みながら待つこと数分、男の前にボリュームたっぷりのカツサンドが差し出される。
「それでは」
サンドイッチのいいところは手づかみで気軽に食べられることだ。ボリュームが少ないのが欠点だが、カツサンドは見た目にもボリュームたっぷりで心が躍る。
一口食べて、男は目を見開いた。
「——!」
なんだこれ、と男が言おうとするが、口に中に物がある状態で話すことはできない。かといってすぐに飲み込むのは勿体無い。
結局、男はたっぷりと初めて食べるカツサンドを堪能してから口を開いた。
「なんですかこれ。すごいですね」
出た言葉はこれだけだった。
美味しい、食べたことがない、そして口に広がる味の深さ、そういったものを全て源二にぶつけたいのに言葉が出ない。
完全に語彙を喪失した状態ではあったが、男はこれがどういう状況か理解できなかった。
ただ、感動を言葉にしたいのに言葉にできない。出るのは月並みな言葉だけ。
それでも、源二は男の言葉に満足そうに頷いていた。
「その反応が全てを物語っていますよ。ありがとうございます」
「いや、ありがとうを言いたいのはこちらです。行列なんて並ぶだけ無意味だと思っていましたが、これは並んで良かった。並ぶ価値がありました」
腹も心も満たされ、男が席を立つ。
「是非ともまたお邪魔させていただきますよ。ご馳走様」
そう言って会計を済ませ立ち去る男。
その後も店内はひっきりなしに客が訪れ、閉店まで源二とヨシロウはてんてこ舞いだった。応援に来た若い衆だけ、他の若い衆と交代で手伝ってくれていたが交代のタイミングでヘトヘトになっていたので忙しさは最大級だった。
結局、ニンベン屋も行列整理に駆り出され、全員が息をつけたのは本来の閉店時間から数時間が経過した深夜だった。
「やべえ……労働基準法ってなんだっけ……」
閉店した店内で、ヨシロウが水を一息に煽りながらぼやく。
「まさか俺まで駆り出されるとは思ってなかったぞ」
同じく水を飲むニンベン屋に、源二がカツサンドをそっと差し出す。
「はい、賄い」
「サンキュー!」
ありがたくカツサンドを貪るニンベン屋を尻目に、ヨシロウが源二を見る。
「お疲れ様。大盛況だったな」
「ああ、思ってた以上だったよ」
大盛況に終わった「食事処 げん」のオープン初日。
これからの人気も期待できる一日に、源二は満たされていた。
長年願っていた料理屋のオープンが叶い、それが大盛況で終わる。
これほど幸せなことが他にあるだろうか。
トーキョー・ギンザ・シティに迷い込んでどうなるかと思っていた最初だったが、今はもう恐れるものは何もない。
これから、この店を守ってこの街で生きていく、源二は改めてそう思うのだった。