「食事処 げん」をオープンしてからも源二の味覚再現料理に対する探究心は変わらなかった。むしろより強く燃え上がり、もっと色んな料理を再現して喜んでもらいたい、と考えている。
「おー、今日も精が出るな」
すっかりキッチンが自室となった源二にヨシロウが声をかける。
「どうだ、なんか新しい料理開発できたか?」
「あ、ヨシロウ、ちょうどいいところに」
フードプリンタを覗き込んでいた源二がヨシロウの声に振り返る。
その顔に笑みが浮かんでいたことで、ヨシロウは「これはうまくいった感じだな」とほくそ笑んだ。
源二の料理はどれも美味しい。しかも契約上「出来上がった料理のファーストペンギン」を務めるのはヨシロウの役目である。たまに源二がわざと他の人間を試食第一号にすることもあるが、それはそれで「初めて食べた人間の反応を観察する」という意味ではヨシロウの
どれどれ、とヨシロウはテーブルに置かれた皿に視線を投げた。
そこにあったのはオニギリを小さくしたようなものだった。
四角くまとめられたライスの上に具が乗っている。その具は鮮やかな赤色で、ほんの少し光沢も感じられる。
これは見たことも食べたこともある、スシだ、とヨシロウは記憶のページをめくり、思い出す。
「スシか、渋いチョイスだな」
「そうか? だが、これは画期的だぞ」
自信満々に言う源二に、ヨシロウは「そうかぁ?」と首を傾げた。
スシは食べたことがある。もちろん、味覚投影ではあるが、酸っぱくてしょっぱい、そこに魚の生臭さが混ざり込んだえも言えぬ味だった記憶がある。
江戸時代とかいう大昔にはファーストフード感覚で食べられていたらしいという「歴史の授業」の知識はあったが、ヨシロウの認識としては現在の
時代が変わり、どうやら源二がいたらしい平成や令和の頃は高級料理として好まれていたらしいがヨシロウには到底想像できない話だった。
「スシなんて生臭いだけだろ。当時は魚を生で食べられたからできた道楽の料理なんて……」
「まあ、今の時代ならそういう認識だよな」
試食第一号になるというのに妙に消極的なヨシロウに、源二も納得しているかのように頷く。
源二がいた時代でも海外の人間は生魚を食べることに忌避感を抱いていたのは知っている。味覚投影が主流の今の時代はそういう点では欧米の食文化に近いものがある。
だから、源二もスシを再現するのは正直なところ後回しになっていた。もう一つ、再現が遅れた理由はあったがこの時代でスシが受け入れられるかどうかも懸念点ではあったのだ。
だが、その「もう一つ」の理由がクリアされてしまったため、源二はスシを再現することにした。
「まあ、とりあえず食ってみろよ」
気乗りがしないヨシロウにどうぞどうぞと皿を押しやる源二。
ヨシロウがうへえ、となりつつもスシを一つ手に取る。
そこへ、源二はすかさず、
「これをちょっとつけて食ってみろ」
と、一枚の小皿を差し出した。
「……なんだこれ」
ヨシロウが怪訝そうな声を上げる。
源二が差し出した小皿には赤茶けた液体が入っていた。
「スシをうまく食うための魔法の液体。まあ、調整してるからだばだばにしても大丈夫だろうが付けすぎるとコメが分離するぞ」
「……マジか」
源二が「魔法」という言葉を使ったことにいささかの興味を覚えながら、ヨシロウは注意深く液体にスシを少しだけ付ける。
味覚投影ではそこまで美味しいと思わなかったスシが、源二の手によってどのように変化したのか。
興味半分、不安半分にヨシロウはスシを口に放り込んだ。
「——!?」
口に入れた瞬間、ヨシロウが目を見開く。
真っ先に口の中に広がったのは塩味。しかし、ただの塩味ではない。どことなく甘みが含まれた塩味が口の中に広がり、続いて液体によって結合が緩んだライスがほろり、と崩れていく。すると酸味が混ざった甘味が塩味に混ざり込み、そこでようやく食べたことのあるスシの味に近づいていく。
咀嚼するとライスの甘みが混ざり込み、さらにライスの上に乗せられた生魚の風味が一気に展開された。
だが、そこに以前食べた生臭さはない。濃厚なうまみが脂の甘みに包まれ、魚のとろけるような食感はライスをも包み込み芳醇さすら覚えさせるもの。
スシを飲み込み、ヨシロウは源二に視線を投げた。
「どうした? キツネにつままれたような顔して」
「……これ、本当にスシか……?」
自分が呆けている自覚はある。ヨシロウは呆然として皿に乗せられたスシとその隣の小皿を見比べた。
「この液体、スシの味を……こう、何て言うんだ……? 合わさって、うまさを倍増させて……」
「『味を引き立てる』ってやつだよ」
スシを食べた感想に適切な言葉を出せないヨシロウに源二が助け舟を出す。
「それだ、引き立ててる。昔食ったスシと全然味が違う。いや、食べたことはある味なんだ、だが、全然違う」
ここまで言って、ヨシロウは源二が言った「魔法」の意味を思い知った。
これは魔法だ。この赤茶けた液体を少し付けただけでスシは大化けした。
ということはこの液体がうまいのか? とヨシロウは咄嗟にスプーンを取り出して液体を掬い、口に運ぶ。
「しょっぺ!」
口の中にガツンと広がる塩味。甘みもわずかに感じられるが、それ以上にただただ「しょっぱい」という感想がヨシロウの中に生まれる。
「え、なにこれ。これ単体じゃただしょっぱいだけじゃないか」
「だろ? だから魔法の液体。タネ明かしすると、『醤油』だな」
「え……」
源二が明かしたタネが理解できない。この液体はショーユというものなのか、とヨシロウは改めて小皿に入った液体を見る。
「そう、醤油。ほとんどの和食の味付けに使われるものだし、こうやって後付けで味に深みを持たせることもできる」
「すげえ……」
源二の説明はヨシロウにはさっぱり理解できないものだった。味付けに使われる、と言ってもヨシロウは完成した料理しか知らないし、料理をすると言ってもフードプリンタで出力するだけだ。
だが、昔の料理はこういったものを利用して作られていたのかと思うと驚きしか生まれない。
料理を構築するだけでなく、構築された料理を変身させる魔法の液体。
「ヨシロウ」
源二がヨシロウの名を呼ぶ。
「お前、俺が初めて作ったライスとオニギリを食べたときに言ったよな。『お前の飯は魔法だと思った』って。俺のいた時代は『料理とは科学だ』ってよく言われていたんだが、科学も使われなくなれば魔法になるというのは本当なんだな」
料理とは様々な科学的根拠に基づき行われ、化学反応を起こし、食材の可能性を広げるもの。
その探求が行われなくなった現在、源二の料理はヨシロウ——いや、この時代の人間にとってまさしく魔法だった。
調味用添加物を組み合わせる、その混合や混合による化学反応で生み出される味は誰にも真似できない。その点では、源二は確かに魔法使いだ。
「ゲンジ、お前……魔法使いだったのか」
「何言ってんだ、俺、三十までに卒業してるぞ」
「どういう意味だそれ」
ヨシロウが真顔で尋ねたことで、源二が思わず真っ赤になって両手を振る。
「い、いや、あの、それは言葉のあや……」
——この時代にあのジンクスないんかい!
学生時代のノリで口にしてしまった言葉が墓穴になってしまうとは。
発言に気を付けないとやばいな、と思いつつ、源二は慌てて話題を変えた。
「ま、まぁとにかく他のも食ってみろ。ネタの色によって味は違うぞ」
「マジか」
それなら、とヨシロウが今度は黄色みがかかったピンクのネタが乗ったスシを手に取り、ショーユを付けて口に運ぶ。
「……マジだ、こっちはさっきのに比べて甘みが強いな。あと脂が強い」
「そっちはサーモンだな。最初のはトロ。お前のお気に入りは何になるんだろうな」
次々とスシを口に運ぶヨシロウを、源二は内心で胸を撫で下ろしながら見守っていた。