その常連は今日も「食事処 げん」に顔を出していた。
顔なじみとなった常連に食べなれた料理、いつもの風景がそこにある。
「食事処 げん」オープンの日になんだこの行列はと思いつつ並び、源氏の料理を食べたことで魅了されたこの男は今ではすっかり顔なじみとなり、三日にあげず通うほどの熱心なファンとなっている。
今日も今日とて「食事処 げん」に顔を出し、いつものメニューを注文した男は隣の常連と世間話をしながら出来上がりを待っていた。
《——ってよ》
不意に、男の聴覚に声が届く。
「……ん?」
隣の客との会話を中断し、男が周りを見る。
他の席の会話が聞こえてきたのだろうか? それにしてははっきり聞こえたような、と男が首をかしげると、隣の席の客も同じようにきょろきょろしていた。
「……あんたも聞こえたのか?」
男が隣の席の客に訊く。
「あんたもか。じゃあ幻聴じゃないのか」
二人で顔を見合わせ、首をかしげる。
《『食事処 げん』には合言葉が言えると食べられる限定メニューがあるらしいってよ——》
「!」
今度ははっきりと聞こえた。
これは耳に入ったノイズではない。BMSのウィスパー機能を使って送られたメッセージだ。
いや、待てよ、と男が咄嗟にBMSの設定画面を開く。
ウィスパー機能は単純に電話帳に連絡先を登録しているだけでは使用できない。フレンド登録が必要となるし、フレンド登録していても一定範囲内にいないと使えない。そして、男は確かに隣の席の客——いや、他にもいる常連とは連絡先を交換する仲ではあったがフレンド登録には至っておらず、ウィスパーは使えない。それなのに、聞こえてきた声は確かにウィスパー機能を使って行われる念話だった。
どういうことだ、と男がうすら寒さを覚える。
心霊現象といったオカルトなど廃れて久しいが、それでも夏の風物詩としてホラー番組は放映されている。その一環としてラジオ局がウィスパージャックを行っているのだろうか。
男も実際にホラー番組を見ていたらウィスパージャックされて
しかし、いくら夏とはいえ店内のラジオは別にホラー番組を流していない。
じゃあなんだ、と男が考える。
聞こえてきた声は「食事処 げん」の限定メニューに言及していたような——。
「なんか、『合言葉が言えると食べられる限定メニューがある』って聞こえたよな」
隣の席の客が男に言う。
そうだ、声は確かにそう言っていた。
ということはこれは「食事処 げん」のプロモーション。
こんな夏の時期にホラー演出とはやるな、と思いつつ、タネが分かれば何も怖くない。
ウィスパージャックは放送局がたまに行うため不可能な技術ではない。しかし、放送局でもない、ごくごく普通の料理屋が店内限定でウィスパージャックとはいったいどれほどこのPRに金をかけているというのだ。
まあ、この店繁盛してるもんなあ、と思いながら男は差し出されたトレイを受け取る。
そのトレイに、一枚の名刺サイズのカードが置かれている。
「……?」
カードに印字されたものは一つだけ。
多数の白と黒の四角で構築された二次元コード——男がBMSを読み取りモードにしてそれを見ると、視界にブラウザが開き「食事処 げん」のサイトが表示される。
このサイトは見慣れたものだった。「食事処 げん」の「味覚投影オフ」という魅力の解説や通常メニュー、期間限定メニューなどが見やすくまとめられた、企業によくある
ただ、このサイトは他のLPと違い常連の交流コンテンツも充実していた。
オープン当時に店の隅に置かれていた感想ボードだけでなく、「食事処 げん」の常連が情報交換するための掲示板も設置されている。「食事処 げん」の話題に限らずどの店でセールがあるとかそういったことも書き込まれていて、男もよくアクセスするサイトではあった——が。
その男の視界に何かが表示された。
何かの記号に見えるものが並んでいる。上から二つ、三つ、四つの四角がピラミッドのように積み重なり、三角形を模した記号が横にいくつか並んでいるのを見て男は「なんだこりゃ」と呟いた。
「お、あんたもそれ見たか」
隣の席の客が男が二次元コードを見たことに気付いて声をかける。
「ああ、なんだこれ」
「何だろうな。まぁ、ウィパージャックといいサイトへのアクセスといい、隠しメニューのPRっぽいが現時点では何とも」
そんな会話をしながら、男が情報交換用の掲示板に目を通す。
既にウィスパージャックを受けた客は何人もいるようで、サイトにアクセスした際に表示された三角形を模した記号についての議論が進められていた。
ただ、掲示板には「店主からのお願い」として「答えを推測するまではいいけれども答えになるものは書かないこと」と書き込みがされており、ネタバレ対策はしっかり行われている。
ちら、と男が源二を見ると、源二はその視線に気づいてこちらを見てサムズアップして見せる。
「……これは本気で合言葉を見つけないとな」
そう呟き、男は改めて記号に視線を投げた。
記号は九個。よく見るとスペースで三つ、六つに区切られている。
ということはこれは何かの言葉か、と男は推測した。
掲示板を見る。同じことを考えた常連がいるようで、「三文字と六文字の単語何かあるか?」と書き込まれている。
ただ、答えになるようなものは書いてはいけないため、具体的に単語は挙げられずに色々と推測したものがぼかされている状態。
もう一度、男が九個の記号を見る。四角形が並んだピラミッド。
「……ん?」
ふと違和感を覚え、男は掲示板のテキストボックスにカーソルを合わせ、文字を打ち込んだ。
『この記号、よく見たら細い四角と太い四角が混ざっていないか?』
「送信」を押す。男の投稿が最新に表示される。
ややあって、それに返信が付いた。
『マジだ! これ、記号によって細い四角と太い四角の配置が違う!』
『いやもっとよく見ろ、三段になってるが記号によって四角の高さが違う!』
次々に付く返信、中には「配置が同じ記号がある!」というものもあり、そこから一気に考察が展開していく。
「どう思う?」
隣の常連客に声を掛けられ、男はううむ、と唸り声を上げた。
この記号の中に使われている記号の組み合わせは見かけた、というか見覚えがある感じがする。
細い四角と太い四角。オンとオフ。1と0。
「なんかさ、アレっぽくないか?」
「アレ?」
男の言葉に隣の常連客が首をかしげる。
アレだよアレ、と男が続けた。
「二つの記号の組み合わせと言えばバイナリデータっぽくないか?」
「おおう」
隣の常連客も言われて気づく。
1と0で表現されるバイナリデータならこのような記号で文字を表現することも可能。
ということはこれは2進数バイナリデータだということか。
そう、男は自分の推測を掲示板に書き込む。
『だが、それだとこのバイナリデータ9桁あるぞ。アルファベットなら8桁のはずだ』
「ぐぬぬ……」
そうだ、この記号は一ブロックにつき九個の記号が使用されている。アルファベットを表現するには桁が多い。そもそもアルファベットは8桁、つまり1バイトだし日本語なら24桁、3バイトである。単純にバイトの法則が当てはまらない。
「じゃあ、何が……」
せっかく前進したと思ったのに振り出しに戻ってしまった。
ううむ、と互いに考え込む男と隣の常連客。
だが、すぐに男に通知が届き、行き詰った考えが覆された。
『いや待てよ。そもそも四角の高さが違うということはその段が重要か排除するデータかってことじゃないのか?』
『バイナリデータ以外に二つの信号を使って通信する何かなかったか?』
『あ! 俺それ知ってる! モールス符号!』
『それだ!』
次々に届く考察。
その考察に、男は咄嗟に新しいタブを開いて検索ウィンドウを出した。
検索ワードは——モールス符号。
ウィキペディアにはモールス符号の一覧表があったはずだ、と逸る気持ちを抑えて男がページにアクセス、一覧表を呼び出す。
別のウィンドウを開いて九つの記号と並べる。
一文字目——最上段が縦長、細い四角の次に太い四角がある。
——対応表は——!
一覧と比較する。比較して出た文字は——「A」。
読めた、と男の心が昂る。
掲示板には書き込まない。これ以上の書き込みはルール違反だ。
次の文字を見る——同じく一段目が長く、四角の配置は一文字目と左右逆。これは——「N」。
「やばい、読めるぞ……!」
震える男の声に、隣の常連客も同じように一覧表と対応を始めたようだった。
時間にして数分。
男の目の前には一つの文章が出来上がっていた。
「AND NOODLE」——「ウドンもくれ」。
「……『ウドンもくれ』……?」
恐る恐る男は源二にそう声をかけた。
その言葉を投げかけられた源二はニヤリと笑う。
「
違うのか、と男が肩を落とす。
しかし、すぐに違和感に気付く。
「分かってくださいよ」という言葉はどこかで見た気がする。
そう思い、男は再度掲示板を見た。
掲示板の一つのタイトルにその答えはあった。
「分かってくださいよ」とタイトルが付けられたそのスレッドにリプライは一件もなかった。
まさか、と男がテキストボックスに「AND NOODLE」と入力、送信する。
すると、本来なら入力した文字列がリプライとして表示されるはずなのに、男の視界に映るブラウザは別のページへとリダイレクトしていた。
「——」
男が息を呑む。
そこにはたった一行、文字列だけが表示されていた。
「キーワード1:『Give me four.』」