ハヤトがオニギリを咀嚼する様子を源二が緊張の面持ちで眺める。
表情を変えることなく、ただ淡々とオニギリを食べるハヤト。
ヨシロウも固唾を飲んで見守っている。
「——なるほど」
オニギリを完食したハヤトが低く呟いた。
「これを、調味用添加物だけで?」
「はい。具体的な調合はお話しできませんが、組み合わせ次第で様々な料理の味を再現できます」
極めて端的に、源二が説明する。
ハヤトが「調味用添加物」の単語を出したことで、相手が源二の味の秘密を知っているのは確定。そもそも源二は「調味用添加物を使用している」とは秘密にしていない。訊かれれば答えるが、その詳細を口にしないだけだ。
「面白いですね」
次はミソシルの器を手に取り、ハヤトが言葉を続ける。
「香りも再現できるとは素晴らしい。しかも独自で調味料を合成したのではなく、既存のものを組み合わせて再現したと考えると——」
そこまで言い、ハヤトがじっと源二を見る。
「どこでこの味の知識を」
『っ』
鋭い言葉に、源二もヨシロウも息を呑む。
そうだ、この時代に正確な味を知る人間はいない。味覚投影での味しか知らないのだから食材に応じての味も、調味料による味の変化も分かるはずがない。
その一点を利用すれば、源二は「味を組み合わせて見ると面白いと思った」と主張して逃げることはできる。
だが——ハヤトには源二のその「逃げ道」を塞いでいた。いや、逃そうとしなかった。言葉はいくらでも逃げ道があるように聞こえるのに、ハヤトの視線がそれを許さない。
「——企業秘密です」
絞り出すように、源二はそう答えた。
「ほう、それ以外は開示するのに、そこだけは隠すのですか」
鋭い指摘が源氏に突き刺さる。
まずい、とヨシロウがいつでもハヤトのBMSにアクセスできるようアクセスポイントの特定を開始する。
「警察を呼んでもいいんですよ」
「くっ」
ハヤトの言葉に、ヨシロウが手を止める。
こちらには一切視線を向けないのに、言葉だけが鋭いナイフとなってヨシロウに突きつけられる。
「どこで知ったか——言ったところで理解できませんよ」
隠し通せない、と源二が苦し紛れに抵抗した。
自分が過去の時代から来たと言ったところで、そんなことを信じてもらえるわけがない。
それなのに、ハヤトは全てを知っているような眼で源二を見据えている。
「——いいでしょう」
わずかな沈黙の後、ハヤトは源二から視線を外してミソシルを啜った。
「本物の味噌で作られたミソシルは一度だけ食べたことがありますが、これはあの時とほとんど変わらない味をしていますね」
「本物を——食べたことがあるのですか」
掠れた声で源二が尋ねる。
同時に、ハヤトの言葉で自分が再現した味が本物と変わらないことが確認できて安堵する。
ええ、とハヤトが頷いた。
「開発部の部長になった際にCEOより食事に誘われまして。その時に食べたミソシルの味は今でも忘れません。そしてこのミソシルは、あの時とほとんど同じ味をしています」
強いていうなら調味用添加物も薬品なのでその味が滲み出ていますが、と続けつつ、ハヤトはもう一口ミソシルを啜る。
「この味は、本物を食べたことがないと再現できないはずだ。そう考えると貴方もどこかで本物の料理を食べたことになるのですが、これほどのメニューを再現できるほどに本物の料理を食べるのは不可能なはずです」
——この男は、どこまで知っているのか。
源二の思考がそこに収束し、冷や汗が額を伝う。
「あんた、何が言いたい」
たまらず、ヨシロウはハヤトにそう声をかけた。
ハヤトがちら、とヨシロウを見て低く笑う。
「いえ、これは与太話と思ってくださって結構ですが——『ビッグ・テック』が何十年も前からタイムマシンを開発すると無駄に研究費を投入していたことを思い出しましてね。もしかすると、完成したのでは——と」
「つまり、貴方は私が過去から来た人間だと言いたいのですか」
源二の声は相変わらず掠れていた。
絞り出すように口から出たその言葉に、ハヤトはまさか、と笑う。
「あくまでも与太話ですよ。タイムマシンなんて、不可能に決まっている」
根拠はありませんが、親殺しのパラドックスとか解決していないのに無理でしょうと続け、ハヤトは再び源二を見た。
「ここまでは前置きです。本題に入りましょう」
「本題、ですか」
ハヤトの話が時間跳躍から外れたことでほっとしながら源二もハヤトを見る。
「単刀直入に言います。弊社——ベジミール社と提携しませんか」
——来た。
相手がベジミール社という時点で十分予測できていたこと。
そもそも、これだけ「食事処 げん」が人気になればメガコープも黙ってはいないだろうという想定は簡単にできる。あのフードプリンタ展示会の時点で源二の料理に目をつけた企業はあったのだ。その時の源二は相手が最大手ではないからと話を蹴ることができたが、最大手が登場したとなるとどう出るか。
ヨシロウが固唾を飲んで源二の返答を待つ。
受け入れるのか、それとも拒絶するのか。
ベジミールの提携となると源二としてはこの社会の生存競争を生き抜く可能性が格段に上がる。デメリットがあるとすれば源二の、いや、「食事処 げん」の自由が制限されることか。
源二は何を望む、企業世界の頂点を目指すのか、それとも——。
ヨシロウが見守る先で、源二の口元が動いた。
ゆっくりと動いたその唇は——笑い。
口元に笑みを浮かべ、源二は答えを口にした。
「お断りします」
「な——」
驚きの声を上げたのはヨシロウ。
源二の向かいに座るハヤトは表情を変えることなく源二を見ている。
「その心は」
ハヤトの質問は至極真っ当なものだった。
メガコープからの提携提案なら本来は喜んで飛びつくものである。その条件が多少厳しくとも、提携により得られるうまみはあまりにも大きい。ヨシロウがハッキングの腕を買われて登用を提案されたら間違いなく今の自由を手放すだろう。この世界は自由で生きるにはあまりにも不自由すぎる、それなら多少の自由を犠牲にしても力を得る方がはるかにいい。
それなのに、源二は真っ向からそれを拒絶した。
確かにヨシロウも「断ってくれないか」と願いはした。だが、それはあくまでもヨシロウ個人の感情であり、源二が受け入れたいと思うのならそれを否定するつもりはない。
同時に、胸が締め付けられるような不安を覚える。
いくら馴染んできたとはいえ源二はトーキョー・ギンザ・シティの中ではまだ異物なのである。ここでメガコープに取り入った方が今後は安泰なのに、異物のままとして生きることを選択した源二にヨシロウは声を出すことができなかった。
「いえ、私のこの技術が私にしか扱えないものであるならそのうまみは最大限に味わっておきたいだけですよ」
「それなら弊社と提携した方がうまみは大きいはずですが」
「本当に、そうですかね」
源二の笑みが挑戦的なものに変わる。
「自由を犠牲に、幾許かの富を得る——それが本当にうまみであると?」
「——」
源二の言葉にハヤトが口を閉ざす。
源二の言う「うまみ」とは何なのか。富——金銭的なものではないのは今の発言で分かった。それなら何だ。名声か。
ハヤトがGNSのストレージにアクセス、情報部が調査で得た情報を確認する。
調味用添加物の調合に関する特許は取得済み、ベジミール社が真似をするなら利用許諾を得て使用料を支払うしかない。
使用料を支払うことに関しては問題ない。特許取得者に対してロイヤリティを支払うのは企業として当然のことである。
ただ、ベジミール社は「食事処 げん」と提携することでより多くの利益を得られる確信があった。ベジミール社の知名度、そして「食事処 げん」の人気を合わせて得られる利益を考えると使用料など微々たるものである。
だが、提携することによってベジミール社は「食事処 げん」を独占することができる。いくらベジミール社が食料品を扱うメガコープでは最大手だとしても「食事処 げん」が他社に渡ることでその地位が揺らぐ可能性がある。
それほど、ベジミール社は「食事処 げん」を危険視していた。
自社の地位を脅かす可能性があるなら真っ先に取り込んで危険の芽を摘んでおく、リスクヘッジの基本である。
それを源二は理解していたのか。
初手でそれを拒絶した源二は相変わらず挑戦的な笑みを浮かべてハヤトに視線を送っている。
「奪えるものなら奪ってみろ」、源二がそう言っているような気がしてヨシロウは強い、と感じた。
源二の強さはただ現代から失われた文化を手にしているだけではない。相手が強大なメガコープであっても恐れず立ち向かう、その姿勢にある。
そうだ、現時点では
源二がベジミール社の提案を蹴ることができるのも選択肢がベジミール社しかないという状況ではないから。
今後、幾つものメガコープが接触してくる可能性を即座に判断し、源二はベジミール社からの提案を拒否した。
「食事処 げん」の可能性を最大限に信じていない限りできない選択を前に、ハヤトもここは退かざるを得ないと判断したらしい。
「——分かりました」
表情を変えず、ハヤトがそう言って席を立つ。
その声音に僅かに悔しさが含まれていることに気づき、ヨシロウは内心でガッツポーズを取る。
「今日のところはここで退かせていただきましょう。——ですが、弊社は必ず手に入れますよ」
「私が最大限の利益を得られると判断したらお受けいたしますよ。今回は、そう判断できなかっただけのことです」
自信たっぷりの源二の言葉を背に、ハヤトが店を出て待たせていた車に乗り込む。
強く叩きつける雨の中、走り去る車を見送り——源二は特大のため息をついた。
「あー死ぬかと思った」
「お前、メガコープ相手によく頑張ったな」
ヨシロウも肩の力を抜き、ぽつりとぼやく。
「しかし、いよいよメガコープも動き出したな」
いいのか、断って、と続けるヨシロウに、源二はああ、と頷いた。
「三顧の礼って言うだろ」
「まあ、そうだな。打算的じゃなくて本当に必要としてくれるなら考えるってことか」
「そういうこと」
そう言って源二がまだ起動していたフードプリンタの電源を落とす。
「ま、今日のところは向こうもジャブのつもりだろうし、今後どうなるかだな」
じゃ、早く帰ろう、と源二がレインコートを羽織る。
雨風はもう暴風雨と言ってもおかしくないほどに強くなっていた。傘を差せば吹き飛ばされそうな風量に顔を顰めながら通りに出る。
「これは明日は休業でもいいかな」
「いいだろいいだろ。ピークは明日だろ」
そんなことを言いながら早足で帰る二人の考えは同じだった。
「これからが正念場になる」と。