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第14話

「こ……浩太こうた君は彼女がいるって言ってたじゃない。ダメよ、いくらこの場に彼女がいないからって、冗談でもそんなこと言っちゃうのは、ね?」


 楠葉は本能的に、その糸はちゃんとした道具がないと祓えないと察していた。

 何より、先ほど無理矢理黒い糸を祓った影響でまだ掌に痛みがあるため、これ以上のお祓いはちゃんとした準備をしないと無理だと全身が悲鳴を上げるような警報を鳴らしているのを感じていた。だからこそ、黒い糸が増えたり他の人にまとわりつくようなことが無いよう、白い糸を痛くない左手で手繰り寄せて自分の傍に寄せながら、浩太をこれ以上刺激することがないよう声を震わせながらそう返し、肩に置かれた手を手繰り寄せた白い糸を彼の手に素早く巻きながらそっとどけることしかできなかった。

 それが今の楠葉にできる唯一の抵抗であったのだが、彼の手に触れた瞬間、右手に電撃が走るような鋭い痛みを感じ、思わず顔をしかめそうになったがなんとか我慢し、笑顔を貼り付けた。黒い糸が刺のようにまだ右手に刺さっているかと思い掌を確認したが、黒い糸は自分に纏わりついていないことを確認しひとまず安堵する。


(今まで疲れても、しんどくても、参拝者さんたちへ笑顔で対応してきた。だから大丈夫、楠葉。今は宴なのだから笑顔よ、笑顔)


「えー、でも、ちょっと遊ぶくらい、いいんじゃない?もし上手くいって、楠葉姉さんの娘が誕生したら篠宮家にとっては悪くないんじゃないかな?むしろこれからの安泰になるって感じしない?」

「もー、急に何の冗談を言って……」


 普段は決して言わない従兄弟の下心たっぷりの言葉に違和感を抱きながらも、何とか冗談で済まそうと軽めに返そうとした楠葉は、そこで言葉を切ることになってしまった。

 突如、息苦しさを感じたのだ。

 喉を抑え細く「ハッ」と息を吐く。

 一瞬だけ、自分の空気中だけ酸素がなくなるようなそんな重苦しさが、あった。

 何が起こったのか訳が分からず息を飲み、素早く周りに視線を巡らせた。


 黒い糸が、親戚一同の周りに漂うのが視界に入り、楠葉は身体を硬直させて閉口する。


 細い糸同士が絡み合い、太くなり、ねっとりとした蛇のようにまとまった黒い糸は、目の前の従兄弟、浩太の身体にまとわりつき始める。

 それは、不倫に悩む参拝者によくまとわりついていた糸の動きであり、形であった。


(何故、急に?)


 従兄弟である浩太は楠葉より6つも年下でありながら、赤い糸で結ばれた彼女がいる。

 運命の相手ではなくとも、2人の間には常に幸運を表す白い糸と愛を表す赤い糸が漂っていて、明らかに順風満帆な様子が伺えていた。

 それなのに、いくら酒の勢いがあるとはいえ、いきなりこのような変化を起こすのは明らかにおかしかった。

 思えば、叔父たちの口からポンポンと飛び出す下品な言葉も、普段温厚な人たちだったことを思うと明らかに異常だ。

 何より、親戚に関しては黒い糸がまとわりつかないよう常に楠葉が切ったり取り払ったりと注意をしていた。だからこそ、今突然このような状態に陥っていることが理解できない楠葉は戸惑うことしかできず、一体どう対応すべきかと素早く頭をフル回転させながら改めて周りを見渡す。

 そこで貫の方を見た瞬間、楠葉は別の意味で凍り付いた。


「ちょ……!」


 貫が、貫ではない姿になっていたのだ。

 茶色い髪は燃え上がる炎のように立ち上がり、そこから狸の耳が毛を逆立たせながら生え、背後では狸の尻尾がピンと立っていた。そして、今まで黒かった瞳は怒りに満ちて赤く光り、食いしばった歯からは八重歯が最早牙としか思えない鋭さとなっている。肌色だった皮膚は全て耳や尻尾と同じような茶色い毛を纏い、威嚇するように逆立ち、そして指輪のハマっていない方の手には薄紫色の鋭い爪がギラリと光り、それは一振りのナイフとも思える長さで、その禍々しい紫色の長く鋭い10㎝ほどの爪でひっかかれたら人間はひとたまりもないだろうと察するには十分な殺気を放っていた。


「ガルル……」


 明らかに異様な姿で唸り声をあげる貫。

 纏う空気は黒と紫が入り混じった禍々しいもので、今にも何かが爆発しそうな危うさと、冷たさを帯びていた。


 何故、周りは気づかないのか。

 何故、貫の姿に驚かないのか。

 何故、貫の異様な唸り声は周りに聞こえていないのか。


 楠葉はその疑問の答えをすぐに導き出した。


(妖怪化していると誰にも見えなくなるんだ)


 貫と楠葉を結ぶ金色の糸が輝いていることから、恐らく運命力のようなものが働き、貫は自分の運命の人にちょっかいを出された怒りを沸き上がらせているのだろうことは明白だった。

 貫自身がそもそも、こういったことに陥ることが初めてなのだろう。

 黒い糸に取りつかれた人間のように、どこか自我を失っている様子もうかがえた。

 いや、もしかすると今の貫の姿が本来の妖怪としての姿のなのかもしれない。

 だからといって、このまま貫を放っておけば、宴の場は血の宴という名の地獄に変わり果てることは間違いないだろう。

 楠葉は、卑しい笑みを浮かべて手を伸ばしてきた男連中の手を振り払い、軽く足払いをしてまずは男たちの輪の中から逃れた。

 巫女と言えど、女である楠葉は非力だ。だからこそ、護身術を曾祖母や祖母からたたきこまれていた。久しぶりの活用ではあったが、酔っている男性をよろめかせたり転ばせたりなどして少しの間行動不能にする程度は簡単に出来た。


 だが、問題はここからだ。


 誰も気づいていない、貫の怒気と爪。

 今にも飛びかかろうと低くなる、獣の姿勢。


(やばい)


 狙いを定めているのは明白だ。一点を見つめている。その先は楠葉に触れた、従兄弟の浩太だ。そのことに気づいた楠葉は焦り、どうすればいいかと貫から視線を離さぬまま頭をフル回転させる。


 どの言霊を出せば彼は鎮まるのか。


 “伏せ”、の場合であれば物理的にたたきつけられた貫がさらに怒りを爆発させ暴れる可能性がある。

 “ハウス”、という手もあるが、何度も部屋に戻らせてもすぐに戻ってこれる貫だ。下手をすれば家の壁を破壊しながら戻ってくる可能性も考えられる。

 だからといって“お手”をしたら自分の手がどうなるかがわからない。むしろ、自分の傍に来ると同時にそのまま男たちを切り裂いてしまうのではないだろうか?


 何が最適解かわからない。

 けれど考える余裕もない。


 なんせ貫はもう、浩太に向かって跳躍し、鋭い爪を振り上げているところなのだから。


 このままでは血の雨が降る。

 その未来しか見えなかった楠葉は、咄嗟に叫んだ。


「“おいで”!」



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