どうしてその言葉が咄嗟に出たのか、楠葉は自分自身でもよくわからなかった。
ただ気づけば、「おいで」という言葉が脳裏をよぎり、両手を彼に向って差し出していた。
(私はなんともない。大丈夫だから、私の所に来て。落ち着いて、貫)
その一心で叫んだ言葉がそれだった。
刹那。
貫の指に生えた爪が掻き消え、何かに引っ張られるようにぎゅんっと超スピードで移動し、楠葉の胸に飛び込んだ。
反射的に楠葉は自分の胸元に顔を埋める貫の顔を抱きかかえ、力いっぱい抱きしめた。その間に貫は人間の姿となったのだろう。「あらまぁ」という声や「おお」という冷やかし交じりの声が2人に向かって飛び、その場にいる全員の視線が抱き合う2人に注がれる。
「「え?」」
当の2人はあまりにも一瞬すぎる出来事に、同じ言葉をハモりながら困惑していた。
楠葉は自分で言霊を叫んでおきながら何故自分が貫を胸元に抱きかかえているのか困惑し、貫の方は自我を取り戻したら楠葉の胸元に埋まっている自分の状況を飲み込めず大混乱している様子であった。見えない疑問符が貫の頭から無数に浮かび上がっていそうなほどの困惑を感じながらも、その姿は先ほどの禍々しい雰囲気は纏っていない。そのことに、楠葉は肩の力が抜けた。
とはいえ、傍から見たら仲良くハグをし合う夫婦、という図だ。
そのため、2人の姿に微笑ましい笑顔を溢れさせて「あらぁ、夫婦仲良しさんだこと」「常に2人でくっついていたいんだなぁ」と囃し立てる親戚一同の声が飛び交う。不思議なのは、誰も貫が瞬間移動のようなものをしたことには触れないことだった。それも妖怪の術による幻惑のような力が働いているのだろう。楠葉は戸惑いながらも、「えっと、隣から離れちゃってごめんね。ゆっくり、一緒に食べようか」と放心している貫に声をかけ、手を離して貫を近くの座布団の上に座るよう促した。
(ひとまず、最悪の結末を避けることは出来た、よね?)
そのことに楠葉はまず胸をなでおろした。
ただ、その後に遅れて頭をよぎるのは、今何が起こったのかという疑問だ。
貫と楠葉は、なんとなくその場に座りながらも、お互い顔を見合わせる。
貫は首を傾げながら訝し気に楠葉を見つめている。それに対し楠葉は改めて貫の様子をじっくり見る。先ほど赤く染まっていた目は元の黒色で、耳も尻尾も逆立った茶色の毛もなくなり、間違いなく人間モードの貫だった。普段と違うのは、黒い瞳が困惑で揺れているというぐらいだ。
そこでふと、2人はほぼ同タイミングで自分たちの小指に視線を落とした。
すると、金色の糸が10㎝ぐらいしかないほど短くなっていた。
伸縮自在であった糸がこのように短くなっているのは全く見たことがなかった楠葉は試しに自分の手をくいっと引っ張ると、一緒に貫の小指もついてきた。
こんな現象は初めてで、楠葉は「え、え??」と素っ頓狂な声を上げる。
「お前……何した?」
漸く、貫がまともな様子で言葉を口にした。
それは貫が正気を取り戻したという意味でもあるため、いつもの貫の調子に楠葉は安堵と共に泣きそうな気持ちになった。
その気持ちが沸き上がってしまう理由が分からない楠葉であったが、何故か目尻にじわっとしたものがこみ上げる。それを流してしまうのは恥ずかしいと思った楠葉は、それを誤魔化すように両手を顔に当ててそっと薬指で目尻をこすることで誤魔化し、首を横に振った。
「自分でやったくせにわかんねぇってのか」
詰め寄るような強い口調の貫であったが、それを怖いとは感じなかった楠葉。
むしろ、言い合う時の貫の姿であり、いつも通り軽口をたたく時や、無茶をする楠葉を諫める時と同じ雰囲気を纏っている。
また安堵がこみ上げるのを感じながら楠葉はふにゃっと笑ってしまうが、貫が不機嫌そうに眉間に皺をよせたのに気づくとハッと表情を引き締め、改めて先ほどのことを考えた。
「えっと……なんかよくわかんないけど、とりあえず暴力はよくないかなぁ、て思って。それで咄嗟に、頭に浮かんだ言葉を叫んだら、こうなった、てかんじ……かなぁ」
「確か、おいで、つってたよな……まさか、たったそれだけの言葉でオレはこんなことになってんのか?はぁ!?うっそだろ?何でもありかよ、お前の言霊は」
「うーん、正直私自身もよくわかってないから、言霊については色々試さないとわかんないんだけど……とりあえず、今はこのまま私の隣で大人しくしていてもらうのが一番、なのかな?」
「まぁ確かに、さっきのオレは自分でも自分でないような感覚だったからな。若干記憶飛んでるし……元に戻してくれたことには感謝する、が……て、おい!どうした!?」
急に楠葉は、周りの声全てにエコーがかかる感覚を感じて思わず耳を抑える。同時に、慌てて膝を立て、焦り始める貫の表情に首を傾げた。
(貫、何か叫んでる。……焦ってる?なんで?……あれ、聞こえなくなってきた。なんか、すごく、頭痛い)
そう思うと同時に、視点がぐるぐると周り、暗転していく。
(ああ、これは……やっちゃった、感じかなぁ)
どっ、と押し寄せる疲労感の中、楠葉は肩を抱かれるような力強さを感じた後、そのまま雲の上に浮かぶような心地よさと共に、意識を手放した。